アトマイザーと煌めく世界

夢を見た。
キラキラの光の海。
赤とか青とか緑とか色とりどりの光の上に僕はいた。
仰向けに寝転がったまま、真上には果てしない夜の闇が広がっていた。夜、と形容するにはあまりにも真っ暗な暗闇だった。ブラックホールではないかと思える程に、暗く、黒い闇だった。
ただ、唯一それを夜の闇だと思えたのは、暗い中でも僅かに鈍く輝きを放つ白い星が見えたから。
星へ向かって手を伸ばす。風が吹くだけでその明かりが消し飛んでしまいそうなくらい、儚い星だった。
その星を掴めないのを悟ると、脱力した腕が光の海へ落ちた。
何もかも、どうでも良くなった。
夜の闇も、掴めない星も。
眺めていても救いなんてない。
――……もう、疲れた。
おもむろに寝返りを打つ。真横を向いてからうつ伏せになる。
真下に光の海を敷きながら、そっと目を瞑る。心臓がどくんどくんと跳ねる音を感じた。
――何故、僕は生きているのだろう?どうして僕は、ここに取り残されてしまったのだろう。
誰もいない世界。たったひとりきり。
――僕にはもう……
眼孔にジワリと熱が篭る。焼かれるみたいに顔が熱い。痛い。
その痛みは形を持って、体の外へ溢れ出る。目頭を濡らす感触。目を瞑ったまま、一粒の涙が零れ落ちた。
血の色に似た真っ赤な涙だった。
ぴちゃり、と音を立てて光の上へ落っこちる。
途端に、全ての色が弾けた。
色とりどりだった光が消え失せ、後に残されたのは涙と同じ血の色をした海だった。
背中が重たい。
もう一度、上を向きたいけれど、何かに抑え付けられているみたいに体が重くて身動きが取れなかった。
苦しい。
押し潰されるような苦痛だった。
酷く絶望していた。救いなんてどこにもない。
そんなことくらい分かっていた。
どこを見るでもなく投げられた目線の先には、ただ真っ暗な闇が広がっていた。



光が街を彩る季節。
街を歩けばそこかしこに発光ダイオードがチカチカと輝く。
街には陽気なクリスマスソングが流れ、凍えるような寒さの中でも不思議と気持ちが軽くなった。
そんな街の様子を尻目に、芥川は黒のトレンチコートの裾を靡かせ闊歩していた。
クリスマスイブにあたるこの日。
芥川は仕事を早く切り上げると、着替えを済ませ出掛けることにした。
帰り際に樋口が車で家まで送迎すると申し入れてきたが、お断りした。ついでにチーズフォンデュの美味しいお店がなんたらとか言っていたが忘れた。
樋口には「約束があるから」と言ったものの、実のところ約束なんてしていない。
芥川はひとりきりだった。
たったひとりで歩いていた。
それでも、ちゃんと目的があった。
行きたい場所があった。
そこへ向けて迷うことなく足を進める。
途中、横断歩道に差し掛かった。赤信号に制止されて立ち止まる。
だんだんと夜の帳が下りる街。
空が暗くなるのと反対で、街は明るさを放っていた。イルミネーション。どこを見ても眩しい。
眩しさから目を背けるように、芥川は空を見上げた。
今日は日中よく晴れた。
ここ最近の寒波の鬱憤を晴らすかのように、清々しくて気持ちが良かった。暑いくらいの晴天だった。
「……はぁ」
小さく溜め息を吐きながら、芥川は視線を落とした。ちょうど信号が青に変わった。
横断歩道へ足を踏み出す。
一歩、また一歩と、芥川は過去へと向かっていた。


――4年前。
『そもそもクリスマスというのは、イエス・キリストの降誕を祝う祭りであるのに、どうして日本人は無宗教であるにも関わらず、無駄にお祝いをするのだろうか』
そんなことを捲し立てながら、太宰は平皿の上に盛られたローストチキンを、ナイフとフォークを使って丁寧に切り分けてから口へ運んだ。
無駄なく機械的に動く手元を、向かいの席で芥川はただ見ていた。太宰の真似をして、ナイフとフォークを握ってみるけれど上手に切り分けることが出来ない。
苦戦していると、太宰がシャンパンのグラスに口を付けながら煩わしそうな顔をした。
『どうせ個室なんだし、面倒なことをしないで好きな風にして食べればいいだろ?』
『……ご、ごめんなさい』
芥川の顔が耳まで赤くなる。躊躇しながらも、芥川はナイフとフォークをテーブルに置いた。
おずおずとチキンを手に取ろうとする。ちらり、と太宰を上目に見遣る。太宰は
ただ、つまらなさそうな顔でシャンパングラスを傾けていた。
其の様に冷めた目で見られるのは慣れている。芥川はチキンを取ると、そのまま口元へと運んだ。
がぶりと齧り付く。ハーブの効いた香ばしい味が口に広がる。思ったよりもお肉が柔らかい。

今日、12月25日はクリスマスだ。
師走と呼ばれるこの時期。
一般的な学生は休みを迎え、華やぐ街の雰囲気をよりいっそう浮き足立ったものにさせていた。休みを満喫する学生達とは対照的に、社会人は年末最後の仕事の詰めに突入していた。
年齢的には前者に該当する筈の太宰と芥川であるが、世間における役割では後者に位置する。自分達と同い年くらいの少年少女の集団が談笑しながら街を歩くのとすれ違う度に、芥川は不思議な気持ちになった。
生きてきた時間は同じくらいなのに。長さは同じであっても密度は違う。
今までの人生を、芥川はほとんど空のように過ごしてきた。物心ついた頃から孤児として生きてきた。貧民街を野良犬のように練り歩き、毎日生きることに必死だった。
そんな芥川と比べると、目の前にいる太宰という少年はその何倍も濃密な時間を生きている気がする。芥川と僅か2歳しか歳が違わないというのに、ひとまわりもふたまわりも大きく見えた。
そんな太宰と芥川は今日も任務に勤しんでいた。すっかり日が落ちる頃に仕事を終えると、珍しく太宰が食事に誘ってくれた。
もともとお店を予約してあったようで、入店するなり個室の部屋へ通された。2人で使うには広すぎるくらいの空間だった。個室といっても、隣の席との間をカーテンで区切られただけの簡素なものだったけれど、それはそれで絨毯の敷かれた部屋の内装とマッチしていて高級感が感じられた。

『たまにはこういうのも有りかと思ってね』
お肉に齧り付く芥川とは違って、優雅にお肉を口へ運ぶ太宰。小さな口を上品に動かすのを見ていると、比較するように芥川は自分の手元を見た。
同じ物を食べて、同じことをしているのに、結果はこうも違ってくる。そんなことをひしひしと感じた。
『思ってみれば、こんなふうに君とゆっくり食事をしたことって数える程しかなかったよね?』
『そうだったでしょうか……』
芥川からしたら、貧民街にいた頃と比べればどんな食事の席も落ち着いていた。
何度となく、太宰に食事に連れて行って貰ったことがあるが、そのどれもが芥川からしたら幸福なひと時だった。大好きな太宰と一緒に、ふたりだけの時間を過ごせるなんて。
口に出したことはないが、芥川は幸せだった。
チキンを食べ終える頃にウェイターが個室を覗きに来た。太宰の皿に何も無いのを確認すると、そそくさと去っていく。それを見て、芥川も急いでチキンを頬張った。
再びウェイターが現れて皿を取り上げられる。入れ違いに別の料理が置かれた。
もともと食が細い芥川は全て平らげることが出来ず、結局料理を残してしまった。
食後のコーヒーが運ばれてくると、太宰は角砂糖をいくつか摘んで落として、ミルクをたっぷりと注いだ。ティースプーンでカラカラと掻き混ぜるのを眺めて、芥川はブラックコーヒーを啜った。
見るからに甘そうなそのコーヒーを口に含んでから、太宰はカップを置いて呟いた。
『この後、君を連れて行きたいところがある』
『え……?』
目を丸くして芥川が聞き返す。
『ここから電車を乗り継いだ先に、イルミネーションが有名な遊園地がある』
『遊園地……』
きょとんとした顔をする芥川へ目配せをしてから、太宰は懐へ手を突っ込んだ。スーツの裏側のポケットに手を忍ばせて、太宰が引っ張り出してきたのは銀色のスティックだった。
一見すると、ボールペンに見えるそれのキャップを外すと、白いボールヘッドが姿を表した。
太宰はボールヘッドを手首の内側へ押し当てた。くるくると円を描くようにしてスティックを動かす。反対の手に持ち替えると、もう片方の手首にも同じようにボールヘッドを当てた。
『それは……?』
物珍しそうな顔で芥川が尋ねる。太宰は目を合わせることなく、スティックのキャップを締めた。
『アトマイザー』
それだけ言って、スティックをポケットにしまった。
『紳士の嗜みだよ』
アトマイザー。
聞き慣れない単語だった。
『さあ、これを飲み終わったら行こうか』
太宰がカップを手に取る。その時、ふわりと芥川の鼻を嗅ぎ慣れた匂いが掠めた。匂いの出どころは正確には良く分からなかったけれど、太宰が手を動かす度に狭い空間を満たしていくような気がした。
それは芥川にとって好きな香りだった。
大好きな太宰の、大好きな香りだった。


店を出ると駅へと向かう。
地下鉄に乗り込み、電車を乗り継ぐ。
乗り慣れない路線の電車の車窓から眺める景色。芥川は吊り革に掴まりながら、暗闇の向こうへ目を凝らした。
外が暗いと、窓ガラスは外の景色をしっかりと映してくれないものだ。景色を見たくても自分の顔が映り込む。
芥川と並んで立つ太宰の顔が視界に入り込んできた。太宰は何も言わずに穏やかな顔で、真っ直ぐに前だけを見ていた。
その視線の先を追ってみる。
――太宰さんと同じ景色が見たい。
そう思うものの、正確には太宰が何を見ているのか分からなかった。ガラスに反射する自分の顔か。それとも、ガラスの向こうを通り過ぎていく街灯や家の明かりか。
こんなに近くにいるのに、芥川には太宰が何を考えているのか分からなかった。

電車を降りるとバスへ乗り込んだ。2人がけの座席に腰掛ける。肩が触れ合うくらいの近い距離に、思わず芥川はドキッとしてしまった。
いくら芥川が小柄であるとはいえ、男2人で座るには多少窮屈に感じるかもしれない。そう思った芥川は、少しでも太宰の邪魔にならないよう肩を竦めた。
『……芥川君』
ふいに太宰が顔を覗き込んできた。
『な、なんでしょう?』
吐息がかかる程に近い。すっと伸びてきた太宰の手が、芥川の顔にかかる髪を梳いた。指先で優しく。顔がよく見えるように流した。
『怪我をしているね』
芥川の左の耳の下あたりに、何かに擦り剥いたような痕があった。血が固まってカサブタになっていた。太宰の指先が、その箇所をツツッとなぞった。
『見覚えの無い怪我だ』
真剣な顔で、太宰はそんなことをサラッと言ってのける。太宰に触れられているのも相まって、芥川はじわじわと顔が熱くなっていくのを感じた。
『どこで付けた?』
『……先日の任務で会敵した際に、戦闘で負ったものです』
『へぇ』
太宰が目を細める。光の無い淀んだ目だった。
『君はいつも、戦闘の度にどこかしらに傷を付けてくるよね?』
太宰の口調はどことなく不機嫌だった。不機嫌の理由が分からない芥川は、ただ真剣に太宰の言葉に耳を傾けるしか出来なかった。
『君の異能は強力なんだから、もう少し身を守る術を身につけるべきだと思うよ』
『申し訳ございません……』
傷を撫でていた指先が遠退く。若干の物寂しさを抱きながら、芥川は目を伏せた。膝の上で拳を握る。
――もしかして、太宰さんは怒っているのだろうか?
小さな頭をぐるぐると回転させる。
太宰の機嫌を損ねてしまったらどうしよう?
そんなことを考えていたら、ふいに左肩に何かがのし掛かった。ふわふわと柔らかいものが首と頬に触れる。
『……太宰さん?』
太宰が芥川の肩に頭を預けて寄り掛かっていた。その光景を意識した途端、芥川の心臓が忙しなく騒ぎ出した。
『細い肩だねぇ』
『……ぇ?』
『薄くて細くて折れてしまいそうだよ』
目を瞑って、太宰は呑気にそんなことを言ってのける。すりすりと頭を擦り付けられる度に、胸のドキドキがひどくなっていく。
太宰の言葉を聞きたいのに、ドキドキがうるさくてちゃんと拾えない。
周りの乗客の目が気になったけれど、カップルの多い車内では皆それぞれの事に没頭しているようで、周りなんて見えていないようだった。
『本当に、君はか弱い』
太宰の声はどことなく震えているように聞こえた。


園内へ足を踏み入れると、そこは辺り一面の光の海が広がっていた。
見渡すかぎり、どこを見ても光が明滅していた。赤、白、緑、青、ピンク、――数え上げたらきりがない。
横浜でもイルミネーションを拝むことは出来るが、この様な圧倒的な光の世界は初めてお目にかかる。
思わず芥川は立ち尽くしてしまった。真っ黒な丸い目にイルミネーションの光が反射する。キラキラと輝くその目を見下ろすなり、太宰は柔らかく微笑んだ。
『綺麗だよね』
『……はい』
圧巻され、感動され、上手く言葉が出てこない。
そんな芥川の肩に、太宰はそっと手を置いた。
『いこうか』
一緒に歩き出す。
光の海。まるで、天の川を歩いているみたいだった。
肩に置かれた太宰の手。
そこでようやく芥川は、さっきから香る匂いの出どころが太宰の手首からくるものだと知った。
アトマイザーとイルミネーション。
この日、芥川は今まで知らなかった新しい2つのことを知った。


遊園地へ向かうバスにひとり揺られながら、芥川は窓の外の真っ暗な闇を眺めていた。膝に置いた手が銀色のスティックをくるりと回す。スティックの先端を親指で弾くと、指の付け根をくるくると滑って手の平へ戻る。
車内の薄明るい明かりを反射して、銀色が閃いた。
芥川はそれを手に握ると、先端のキャップをそっと外した。ボールヘッドの部分に視線を落としてから、コートの袖を軽く捲る。青白い手首の内側へ、ボールヘッドを押し当てた。
塗り込んでから、手首を鼻先へ寄せる。すんっと鼻を鳴らしてから、反対側の手首にも同じことをした。

――少しでも太宰さんに近付きたい。
最近、中原さんに「太宰みたいだ」と言われることが多くなった。
その度に胸の高鳴りを覚えた。
――果たして僕は、太宰さんに近付けているのだろうか?

バスを降りると遊園地へと向かう。
入り口を潜って園内へ踏み込むと、4年前と変わらない光の世界に迎え入れられた。
4年前、初めてこの光景を見た時の胸の高鳴りは今でも良く覚えている。
目から飛び込んでくる光。
レーザービームみたいに体の内側を熱く焼いていく。上手く言葉に表すことは出来ないけれど、見るものを惹きつけて離さなかった。
太宰がいなくなってからも、芥川は毎年クリスマスになる度にここへ足を運んだ。何かがある訳ではないけれど、それでもここへ来れば、太宰と同じ景色を見れるような気がした。
少なくとも、4年前にここで一緒にイルミネーションを眺めたことは事実なのだから。
2年前に芥川は4年前の太宰と同じ歳になった。18の時、太宰は何を思ってこの光景を眺めていたのか?
想像をしても芥川には分からなかった。

何をするでも無く園内を歩いた。イルミネーションを尻目に歩いていく。
やがて、噴水のあるところまできた。
ここの噴水はこの時期だけ、特別なショーを観ることが出来る。噴水の内側をカラーライトが照らして、辺りの装飾に巻き付けられた電飾がそれに合わせて輝く。
十数分おきくらいに、そういったショーが展開される。芥川は別にそれが観たかった訳ではなかったけれど、やることもなしに噴水の前に立ち尽くしていた。
ふと、空を見上げる。真っ暗な黒い闇だった。
そっと手を挙げて、真上の空へと伸ばしてみる。暗闇はどこまでも遠くて深い。鈍く輝く薄明るい白い星。
掴みたくても掴めない。
夜の暗闇に取り残されたみたいだった。
色白の芥川の手は、星明かりと同じように暗闇の中にぼんやりと白く浮かび上がっていた。
その時だった。
真上に掲げられた手を、何者かに掴まれた。大きくて形の良い手だった。
手首に巻かれた包帯と鼻を掠めた匂い。
振り返らずとも何者かなんて容易に理解できた。
「……太宰さん」
太宰は芥川の手を握ったまま、背後で小さく微笑んだ。そのまま芥川の隣へ並ぶ。ゆっくりと芥川は太宰を見上げた。
「綺麗だよね」
その口調は4年前と変わらなかった。促されるようにして、芥川は前を向いた。噴水はまだ湧き上がっていない。水面下でカラーライトが待ちきれないとばかりに、柔らかい明かりを漏らしていた。
「最初に君をここに連れて来たのは4年前か……あの時から私はここを気に入ってしまってね。毎年足を運んでいるのだよ」
「太宰さんも……?」
芥川の発言に太宰は目をぱちくりさせた。芥川を見下ろしたまま、柔らかく目を細める。
「ここに来るとね、『ああ、また今年も一年が終わってしまったのだ』と嫌でも実感せざるを得なくなるね」
太宰の目はイルミネーションを見ているようで、遥か遠くを見据えているようだった。
「また、死ねなかったなぁ……」
ぽつりと太宰が呟いた。その声は風に流れてどこかへ消えていってしまいそうなくらい、儚くて、危うかった。
「太宰さん……!」
我ながら驚くほどに声を張り上げて、芥川は太宰を呼んだ。握られたままだった手を強く握り返して、芥川は真っ直ぐに前を見た。
「……どうして君が泣くんだい?」
芥川の目からは、とめどなく涙が零れ落ちていた。ぼろぼろと雫の形を持って落ちる涙。熱くて塩辛いそれが頬を濡らした。
「……お願いですから。死ぬなんて、言わないで下さい」
睫毛の先に揺れる涙。光を反射して、どんなイルミネーションよりも煌めいて見えた。

それは、酷く我儘で自分勝手な感傷だった。

僕にとって、太宰さんこそが全てだった。太宰さんと生きること、太宰さんの為に生きたいと思っていた。
太宰さんの近くにいたい。
太宰さんに少しでも近付きたい。
太宰さん、僕は誰よりも貴方のことが――

「好きです……、太宰さん……。4年前から……貴方に拾って貰った時からずっと、僕は貴方が好きでした……」
涙がとめどなく溢れる。
星屑みたいに。
光を持って落下していく。
地面に落ちた途端に形を失い、消えていく。儚くも脆い、一瞬の命。
「死ぬなんて……言わないで下さい……!」
太宰が離れていってしまわないように。
強く強く手を握る。この手を離したくなかった。
離したら最後、太宰はどこかへ消えてしまう。4年前の、あの日のように。
「……芥川君」
顔を歪めて泣きじゃくる芥川を、太宰は冷静に見下ろしていた。空いている方の手で必死に涙を拭う芥川。その手首を、太宰はやんわりと掴み上げた。
そのまま顔の位置まで引っ張り上げると、芥川の手首の内側へ太宰は顔を寄せた。
すんっと匂いを嗅いでから、その箇所へ唇が押し当てられる。イルミネーションの光をバックにする太宰の姿は、神々しくて美しく見えた。思わず、芥川は見惚れてしまった。
いつの間にか涙は引っ込んでいた。
「……芥川君から見て、私は善い人間に見えるかい?」
暗い色をした太宰の目。この世の汚いものを全て吸い上げたブラックホールみたいに、底なしに暗い。
しかし、芥川は知っていた。
その暗闇の中にも、確かに星が輝いていることを。希望に縋ろうとしていることを。
誰よりも太宰のことを見てきたのだから。太宰が望むことも、彼を救う術も。
芥川は良く知っていた。
「いいえ……」
小さく頭を振ってから、芥川は太宰を見た。真っ直ぐに見つめ合う。
「貴方はとてもずるくて、卑怯な人間です。だから――」
みるみるうちに太宰の目が丸く見開かれていく。その目はイルミネーションの光を反射して、色とりどりに光っていた。その目の奥に、炎のように真っ赤な明かりが灯った気がした。
「善い人間になるまで、死んではいけません……」

瞬間。
目の前で噴水が湧き上がった。
天高く放射された水飛沫。
光を孕んで宝石みたいに輝く。
輝いて、散っていく。
辺りから歓声が起こった。
雑音を耳にしながらも、太宰の耳には何も聞こえていないようだった。
目を瞠って芥川を見詰め続ける。
芥川も目を逸らすことなく太宰を見詰めていた。
ほんの数秒にも満たない時間だった。
みるみるうちに太宰は破顔した。
今まで見たことがないくらいの、優しい笑顔だった。
「君は……本当に強くなったね」


夢が変わった。
血の海に横たわって手を伸ばす。
何も見えない。何も掴めない。
やっぱり駄目だった、と絶望した。
僕では、あの光を掴むことは出来ないのだと。
淡く輝きを放つあの光を――あの人には届かないのだ、と。
暗闇の中で目を瞑ることすら出来なかった。目を瞑ったら、完全に闇に呑まれる気がしたから。
その時。
赤黒い闇を割いて、頭上から光が射した。
光と共に伸びてくる手。
触れられた瞬間、温かいものが弾けた。
芥川の存在そのものを確かめるように、その手は静かに頭を撫でた。
温もりがじわじわと心の雪を溶かし出す。
芥川の目から溶けたものが溢れ出る。真っ赤なそれは眼球から零れ落ちた途端に、透明な光の粒となった。
ぴちゃり、と血の海に弾け落ちる。
海の色が一気に変わった。
世界が真っ青な空の色へと変貌した。
幸せだった。
そっと瞼を閉じる。
もう、暗闇なんて怖くない。
生きていてよかったと、心から思えた瞬間だった。

以来、その夢を見ることはなかった。




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