「政明様、お帰りなさいませ。」

「ああ、ただいま。」

「客間で沢口様がお待ちです。」

「わかった。着替えたらすぐ行くから、ワインの用意をしていてくれ。確か彼は白が好きだったはずだ。」

「かしこまりました。」



僕がお仕えしている主人、兵堂政明様は代々続く華族の家柄で今は外交貿易を営んでいらっしゃる。

その政明様に拾われたのは、僕がまだ十にも満たない頃。





雪が舞い散る寒い日だった。


「君、名前は?」


凍てつくような寒さの駅舎の床にうずくまっていた僕の前に、身なりのいい一人の紳士が立っていた。

「…一葉」

長い足を折って僕の視線と同じ高さになった彼に、震える声でぽつりと呟く。

「一葉…か。君、私の家に来るかい?」

優しく細められた瞳に、気がつけば頷いていた。



それが僕と政明様との出会い。



政明様は何も聞かなかった。


僕がどこから来たのか


親はどうしたのか


きっと僕の薄汚れた身なりを見て、聞かなくともわかっていたのかもしれない。



僕の両親は流行り病で早くに亡くなり、それから僕は遠い親戚の家に預けられた。

しかしその家の主人が多額の借金を作ったため、僕はその借金のかたにやくざのような奴らに売られることになった。

そんな事、ただ黙って言うことを聞くわけがない。
僕は何も持たずに夜中に家を抜け出し、ここまで必死に逃げてきた。



大人なんて信じられない。



そう思っていた僕だったのに、何故か政明様の笑顔を見た瞬間一瞬にして心を奪われた。


もしかしたらあの瞬間、僕は恋に落ちたのかもしれない。


幼い僕にはそんな自分の気持ちに気付くことはなかったけれど。




(3/19)
[back book next]