ぬくもりが伝わる手




「ほら一虎くん、座って」
「うん」


 風呂上がり、まだ身体は温かい。カーペットの上にあぐらをかけば、ぽたぽた、髪からいくつかしずくが落ちて、「ちゃんと拭かなきゃだめでしょ」と後ろから呆れたみたいな声が飛んできた。


「だってなまえが乾かしてくれんじゃん」
「それでもとりあえず拭かないと、ほらもー、服も濡れてる」


 ふわふわのタオルが当てられて、なまえのちいさな手がわしゃわしゃとオレの髪をかき混ぜていく。そういえば、黙ってされるがままでいるオレを、「おっきな犬みたい」といつかの彼女が笑っていたっけ。
 

「今日はお仕事どうだった?」
「んー、千冬の機嫌、損ねずに済んだ」
「それは最低ラインでしょ」

 
 この穏やかな時間が好きだ。オレのうしろに膝立ちになって、すこし雑にタオルで水気を取って、ヘアオイルまでつけてからドライヤーをかけてもらうあいだ、俺たちはいろんな話をする。仕事のこと、明日の予定、夕飯の話。それからなまえはほとんどずっとオレに触れていて、だから、いろんな意識を独占できているような気がしていたのだ。
 まだ同棲をはじめたばかりのころ、適当に髪を拭いて自然乾燥で済ませていたオレを見て、「ちゃんと乾かさないと!」なんてなまえが言い出したのが始まりだった。それからずっと、変わらずに訪れつづけるこの時間はきっと、幸せと呼んでしまってもいいものなんだろう。


「熱かったら言ってね」
「ん」


 お決まりのせりふと共に熱風がかかって、細い指に髪がすくい上げられてゆく。何度も、何度も繰りかえされるそれが心地良くて目を閉じれば、風に乗せられたヘアオイルの匂いが鼻をくすぐる。なまえと同じ、甘い匂い。
 

「なーあ」
「んー?」


 ほんの少し首を捻って声を張れば、なまえも声を張って応えてくれた。ちらりと視界の隅に映した表情は、あたたかくて柔らかくて、それだけでこころが満たされていくような気がする。

 面倒なはずだ。自分の髪も乾かして、オレの長い髪まで丁寧に手入れして。でも、その瞳にはやさしさしか宿っていない。きっと「私がしたくてやってるんだよ」って、そう言ってくれんだろうな。そう思えるくらいには、オレはこのひとに愛を貰っていた。


「好き」
「え、ごめん、なんて?」


 かち、とスイッチが動いて、風の音が止む。覗きこむみたいに寄せられた顔に、その頬に、そっと唇をくっつけてやった。突然のことに「わ」と声をあげたなまえの腕を引いて、次は耳元に唇を寄せる。


「好きっつったの」


 ぱっと手を離してすぐに解放してやれば、なまえは身体を引いて「もう……!」と顔を赤らめている。ひとつひとつ、こんな反応ですらいじらしくて仕方なくて、幸せで、思わず笑い声がこぼれていた。
 

「……私も、好きだよ」
「ん、知ってる、オレも好き」


 おいで、と手を広げれば、そっとドライヤーを置いたなまえが近づいてくる。照れたように、視線を逸らしながら。かわいくて、愛おしくて、堪らない。首元に感じるまだすこし湿った髪の感触は、意識の隅の隅に追いやっておいた。



20211006



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