きみを纏ったこの夜に




 どしたの、とやわらかい声といっしょに、覗きこんでいる姿見のなかに一虎くんがうつりこんできた。鏡をとおしてすこし見つめあって、それからざっと私のつま先までながめた一虎くんが、「服、迷ってんの?」と質問をかさねてくる。ひとつうなずくと、「じゃあ行かなきゃいーじゃん」とむちゃくちゃなことを言い出すのが彼らしい。


「そんなに行ってほしくないの?」
「行ってほしくねえ」
「えー」


 半分は冗談、でもきっとあとの半分は本気だ。とうぜん一虎くんのことは大切だし悲しませたくはないけれど、たまには友達にだって会いたくなるもので。やましいことなんか一切、なにひとつないし、高校のときの友達にはめったに会えないのだから、今日くらいは納得してもらわないと。


「すぐ帰ってくるから」
「……ウン」
「ちゃんと、一虎くんのとこに帰ってくるよ」


 つぶやくみたいに私の名前を呼んで、うしろからぎゅうと抱きしめてきて、首元に顔を埋める一虎くん。ひかる金の糸が首筋をくすぐって、ちいさく鈴のピアスが音を立てる。


「……んで、なまえちゃんはさっきからなにを悩んでんの」
「あ、相談のってくれる気になったの?」
「まー、いちおーな」


 一虎くんは私の頭にかるく顎をのせて、「てかさ、それじゃさみーだろ」といまちょうど悩んでいたことを言う。「そう、そうなの」とこたえると、一虎くんの目がすこしまるくなった。


「これじゃ寒いけど、なんかいい感じのアウターがなくて……」
「ふーん」
「どうしよっかな……って、どこいくの?」


 ふらりと離れて姿見からフレームアウトした一虎くんは、振りかえるとちょうど自分のアウターを持ってくるところだった。首をかしげていると、「手ぇ広げて」とアウターを広げてみせる。


「え、なんで?」
「着てみ、コレ。案外合うかもしんねーし」
「そーかな」
「うん。いーからいーから」


 そうして言われるがまま、ばさりと被せるみたいにちょっと雑に、一虎くんのアウターを着せられて。ぶかぶかで、でもあったかくて、それから、一虎くんのかおりがする。そのぜんぶにどきどきさせられながらも、それをひた隠して「ちょっと大きすぎるよ」と余った袖をかかげてみせると、のびてきた手がその腕をやわく掴んだ。
 

「腕、のばしてて」


 ひとことそう言って、袖を肩側にひっぱって捲ってくれた一虎くんは、満足げに「できた」と口角をあげた。鏡にうつる自分を見れば、雰囲気はたしかに合っているかもしれないけれど、サイズがどう見たって合っていない。「あきらかにメンズだって」とまたも反抗してみると、とつぜん肩を抱かれて、耳元に顔を寄せられる。ほんのすこし吐息がかかって、鏡にうつる自分がとたんに顔をあかく染めた。


「言やぁいいじゃん、カレシのーって」


 低くて、甘ったるい、声。頭の奥にひびいて、芯からとろけてしまいそうなそれに、つい肩をすくめてしまう。鏡越しにするどく見つめられて、慌ててそらしてうつむいた。けれど、一虎くんからは逃げられない。


「そんでさ、見せつけてこいよ」


 つう、と指先が首筋を撫ぜて、あつい吐息はほとんど無意識にこぼれていた。トップスの襟元を下げた指がなぞるのは、昨夜つけられたキスマークで。
 そのまま、今度は直接、鏡越しなんかじゃなく視線がからむ。透きとおるその瞳と目を合わせっぱなしにしていると、おかしくなってしまうんじゃないかって、そう思うくらい。私は、このひとが好き。近づくその距離にまぶたを下ろすと、一瞬、それでもその一瞬で熱を分けあたえられるようなくちづけが降ってきて、ゆるく肩の力がぬけていった。


「…………ハァー……」
「かず、とらくん……」
「……もー行くの」
「…………うん」
「そのあっかい顔だけどーにかしてけ」
「うん……はい……」


 離れてゆく一虎くんの体温が恋しくて、でももう、集合時間に遅れてしまいそうで。「帰ってきたらつづきな」とまで言われてしまえば、顔にあつまった熱はどうやったって引きそうにない。ずるい。こうしたら、私がいまからずっと、一虎くんのことを考えずにはいられないってわかってやってるんだ。なんだか仕返しがしたくて、手のひらで自分の頬をつつみこみながら「一虎くん」と呼んでみる。


「その、……こんなことしなくても、ずっと考えてるよ。一虎くんのこと」


 フーン、と顔を逸らした一虎くんの耳はほんのりあかくて、仕返しが成功したような、いたずらがうまくいった子どものような気分になる。ふふ、と笑いをこぼした私を何か言いたげに見つめる一虎くんも、子どもみたいだ。
 もう一着のアウターを羽織って、私の手をするりと取って「駅まで送ってく」と言ってくれた一虎くんと、そんな彼がどうしようもなく愛しい私。ふたりともきっと、秋の夜風がいくらつめたくたって、冷まされてしまうことはないのだろう。



20211123



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