ひと夏と、それから




 もっと、泣けばいいと思ってしまった。彼女がオレを想って泣いたとき、オレのためになら、いくらでも泣いてくれればいいのに、と。



 はじめてなまえの涙を見たのは、服役を終えて、およそ十年ぶりに顔を合わせたとき。千冬から「一虎くんに会いたいそうです」と聞いて、すこしのためらいを抱えつつも会いにいった。
 そうして「久しぶり」と笑いかけただけで、そいつは大きな目をいっぱいに見開いて、気持ちの行き場をなくしたみたいに声を詰まらせた。ひとことで言えば、気丈。そんな性格をしたなまえのことだから、泣くすがたなんて想像すらできなくて、頬が涙を伝うのを、オレは情けなくぼうっと見つめていた。
 

「かずとらって、私のこと、きらいだと思ってた」


 中学三年のとき、つきあってだのなんだのと追いかけてくるなまえを、遊び半分だと思ってオレは避けていた。じっさいなまえのほうも飄々としていたし、うるせーよなんて言ってみてもからから笑っているし、ただ単にかるく興味を持たれただけなのだと思っていたし、オレもさしたる興味をそいつに抱いていなかった。いや、興味を抱いたら負けだと、そんなつまらない意地を張っていたのかもしれない。だからまた服役することになったとき、何度か来た手紙にオレは返事をしなかった。そのうち手紙は来なくなって──そのときやっと、なまえに追いかけられていた日々がたのしかったのだと、オレは気付いてしまっていた。


「……きらいじゃ、なかったよ。別に」
「……ほんと? そのわりにはすっごい冷たかった」
「オマエこそオレのこと、本当に、……すき、だったのかよ」
「すきだったよ。なんかいも言ったじゃん」
「……すきとは、言われてねーと思うんだけど」
「へりくつ」


 唇をとがらせて、きれいなハンカチで涙を拭って、「じゃあ、いま言っていい?」と彼女は言った。ぎこちなくうなずいたオレに、「かずとらのこと、好きだよ」と笑ってくれた目の細めかたが、昔のまんまだった。気づくと、オレも泣いていた。


 そうしてオレたちは、付き合いはじめた。けれどなまえには何人か元彼がいるらしくて、それはなんらおかしくはないことなのに心が翳る。「なんとなく一虎が忘れられなくて、ぜんぶうまくいかなかった」なんてそいつは言ったけれど、なまえが知らない男と身を寄せあっていた事実は、消えない。突き放したどころか適当にあしらっていたのはオレだし、そもそも十年も塀の中にいた時点でなにも言う資格なんかないのに、どうしようもなく嫉妬した。

 千冬の店で働かせてもらえることになって、客に声をかけられることがちょくちょくあった。もちろんすべて断っていたけれど、あるとき店に顔を出してくれたなまえがその様子を見て、すこし表情をくもらせて。そのあとふたりきりになったとき、静かに、ほんとうに静かに、そいつは泣いた。泣き顔を見るのは、二回目だった。


「……ちゃんと断ってるから」
「わかってる。わかってるけど、ごめん、かずとら」
「謝んのはオレの方だろ。ごめん、な」


 しぼり出した声が上ずっていた。泣かせてしまった罪悪感、こぼれる涙で痛む胸。それらもたしかに存在しているのに、それより、オレのせいで心をぐしゃぐしゃにされているであろうなまえのすがたに、心が浮き立っていくのを感じていた。気丈な彼女がオレのことで泣いていることに、高揚していた。オレとおんなじだけ、妬けばいいのにと思った。……だめだと思うのに、どうしたらいいか、わからなかった。

 泣くなよ、とは言えなかった。そう言えていたなら、なにか違ったのかもしれない。



◇ ◇ ◇




  オレが好きなのは、あいつだけ。ほかの女に興味はなくて、ただ、なまえに妬いてほしかった。そんなよこしまな感情を持て余しながら、ドアの前で、かるく笑って客と連絡先を交換していた。するとタイミング悪く千冬が奥から出てきて、これみよがしにため息をつかれてしまう。


「……なにしてんすか」
「なにって、まあ、連絡先きかれたから?」


 じゃあまたね、と会うつもりもないのに手を振れば、うれしそうに笑ったその客は店を出ていく。扉のしまった店内で、すこしの気まずい沈黙のあと、千冬が重々しくオレの名前を呼んだ。


「……一虎クン。前まで連絡先とか断ってたのに、最近どうしたんですか」
「別に、どうもしねーよ。断んのもわりーし、連絡先くらいならいーかなって思っただけ」


 千冬の視線が痛かった。なまえとの関係を知っている千冬のことだから、きっとオレの行動は気にかかるものなのだろう。何が言いたげに、でも言いにくそうに視線を彷徨わせているのがわかる。


「会ったり、とかは」
「それはねーよ。マジで連絡先だけ」
「……はあ、まあ程々にしてくださいよ。店としてもあんまり良くないんで」
「……ん」


 スマホをポケットにしまうと、「……なまえさん、気にしてましたよ」と千冬がちいさく言った。……わかってる。気にしてほしくて、やってることだから。返事はせずにひらりと手を振ると、千冬はもう、それ以上は何も言わなかった。



◇ ◇ ◇




「あーっ! ペットショップのお兄さんだ!」


 なまえと重なった休日、駅前に買い物に出ていたときのことだった。甲高い声に振りかえれば、昨日ちょうど連絡先を交換した客が立っている。ぶんぶんと手を振りながら走り寄ってくるから、ぎくりと肩が跳ねた。


「……どちらさま?」
「や、んと、客。フツーに」


 となりのなまえと小声でやりとりをしていると、「お兄さん、昨日はありがとう」なんてその客は満面の笑みで言うから、ぎこちなく顔がひきつる。……わざわざ、オレが自分で作り出したような状況なのに、いざこうなると気まずさと後ろめたさで心臓は震えていた。


「お隣は……彼女さんですか?」
「あー、まあ……」


 ちらりとなまえを見遣れば、なまえもまたオレを見上げていて、その瞳にはほんのすこしの棘が宿っているような気がした。だからすぐに頷けなくて、するとなまえはオレから視線をはずして、「いやいや、買い物に付き合ってるだけですよ」とさわやかに笑う。すぐには、ことばの意味をかみ砕けなかった。


「へえ……もしかしてお兄さん、フリーですか?」
「そうそう、いまはこのひと彼女いませんよ。ね、羽宮くん?」
「え、いや、おまえ……」
「わー、じゃあまた連絡させてもらっちゃおっかな」


 そうして口を挟むひまもなく、「またお店に顔出しますね!」なんて言ってその客は踵を返してしまう。中学生ぶりにオレを“羽宮くん”なんて呼んでのけたなまえのほうを、見られなかった。


「……なあ、」
「べつにいいよ。羽宮くんはあの子追いかければ」
「そ、ういうんじゃ、ねーって。なんで、そうなるんだよ」
「だってかずとら、最近、ずっとそうじゃん」


 あ、やりすぎた、と思った。つめたい声と、するどい視線。怒ってる。さっと血の気が引いて、「違うんだって、」とこぼれる言葉はひどく情けなくて、中身のないものだった。手を握ろうとしたのに、するりとかわされてそれすら叶わない。


「……ねえ、ちゃんと話そ。うち来て」


 そこからは、どんなふうに歩いたのかすらよく覚えていない。ただただなまえのちいさな背中を道標にして、重たい脚を引きずって、冷え切った心臓をおさえながら歩いていた。わかれたく、ない。話って、別れ話かもしれない。オレが悪いけど、別れたくない。ぐらぐらする意識のなか、気付くと見慣れたなまえの家の前に立っていて、鍵がまわされるのをぼうっとながめていた。


「靴、ぬげる?」
「…………うん」
「だいじょうぶだから。おいで」


 差しだされた手をおそるおそる握って、そのぬくもりに、視界が一気にゆがんだ。程なくしてあふれて溶けて、そうしてぼろぼろ泣くオレの手を、なまえはゆっくりゆっくり引いてくれる。ソファにたどりついてふたり並んで腰掛けると、あたたかい指先が潤む視界をぬぐってくれるから、また涙があふれ出る。


「かずとら、ごめんね」
「……なん、で」
「さっき、いじわる言ってごめん」


 ぶんぶんと首を振る。悪いのはオレだ。「ごめん、おまえはわるくないから」なんて涙に濡れた声で言えば、「じゃあ、ちゃんと教えてくれる?」とまっすぐな視線につらぬかれた。


「なんで、ああいうことしてたの?」
「……それ、は」
「……私、嫌だった。ゆっくりでいいから教えてよ」


 膝の上で組んだ手に一瞬ふれられて、「ね」と念を押される。心臓がばくばくとうるさくて、逃してはもらえない気がして、頭の中がぐちゃぐちゃのまま、のろのろと口を開いた。


「オマエが、泣いてるとこ、見たかったから」
「……うん」
「オレのことばっか、考えててくれる気がして」
「私が、一虎のことで泣いてるとき?」
「そう」
「だから私のこと泣かせたかったの?」
「…………そんな、かんじ」
「……そっか」


 重い、沈黙。視線だけ動かすと、うつむいたまま考えこむような、そんなすがたが目に映った。……正直に言ってよかったのか、これは。そうして、今さら言い訳を考えはじめるオレの思考を、気の抜けたようなため息がさえぎった。


「…………ばかじゃん」


 ちいさな唇が尖っていた。もういちど、今度はすこし笑いながら「ほんとにばか」なんて言うなまえと、視線がかち合う。張りつめていた心がすこしゆるんだような気がして、ふるえる息をゆっくり吐けば、またどこか素直になれた気もした。


「……そーだよ。……だからオレ、わかんなかったんだよ。どうしたら、いいのか」
「もー、開きなおるな、かずとらのばか」
「……ばかばか、うるせーよ」
「ほんとのことでしょ?」


 またなまえがため息をついて、でも今度はすこし笑い混じりだった。目頭が、喉が、またじわじわと焼けて、しずくになって落ちていく。


「かずとら」


 後から後からこぼれてくる涙。それをていねいに掬ってくれる指先を、そのぬくもりを、オレの名前を呼んでくれる声を、いまこの瞬間、まぎれもなく、大切だと思った。そして、大切にされていると、思った。
 

「私、かずとらが泣いてると悲しいよ。かずとらは違う?」
「……オレも、そう」
「じゃあ、やめよ。ね。ちゃんと私、かずとらのこと見てるから。いっしょにいるから」


 たいせつって、なんだろう。たいせつにするって、どうやるんだろう。ぼんやり探していたその答えはきっとまだ見つからなくて、だけど、もうすぐ掴めそうな気がした。ただひとつ確かなのは、オレはなまえを、大切になんかできていなかったこと。悪夢から醒めたような心地がして、また「ごめん」と謝れば、「もう謝らなくていいよ」と手を握ってくれた。


「約束しよう。ちゃんと、約束」
「……約束」
「そう。かずとらが不安にならないように、……また、離れないように、ゆびきり。」
「わかっ、た」
「はい、小指だして」


 ぴん、とのびた細い小指が、オレの視界でゆるくぼやけた。おんなじように小指をのばして、ゆっくりその場所へ持っていくと、小指の向こうに嬉しそうな微笑みがみえる。ああ、長いあいだ忘れていたような気がする。なまえは、こんなにきれいに笑うんだ。


「私、ずっと大切にするから。かずとらも、私のこと、大切にして」
「……うん。うん、大切にする、ずっと、なまえのこと」


 ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます、ゆびきった。ぎこちなく、音程もずれにずれたふたりの声が、しずかな部屋にしみこんでいった。

 いつかのことを、ふと思いだす。少年院を出たばかりのあの日、残暑のなかをかきわけて、なまえの笑顔がきらめいて。うっとうしいときもあったけど、ほんの短いあいだだったけれど、たしかにそばにいてくれた。あの夏のつづきがここにあったのだと、そう思わせるみたいに目の前のなまえは笑って、いっそうつよく小指をからめてくれる。また、間違えることもあるかもしれない。わからなくなることもあるかもしれない。だけどもう、どこにも行かない。オレのことで、オレのために、笑っていてほしいと思ったから。



20211022
Song by 米津玄師「Blue Jasmine」



prev next
back


- ナノ -