そのつたなさが愛に成る



 暗がりで光るスマホに表示される時刻は、23時半。メッセージアプリを開くと、『迎え行きます、店教えてください』に『いや大丈夫、もう帰るから!』と返したふきだしに既読がついたきり。お酒に浮かされてふわふわした頭でもわかる。これ絶対怒られる。

 玄関前で深呼吸してからそっとドアを開けると、その先は真っ暗だった。……もしかしてもう寝てる? 寂しいような安心したような微妙な心地になったけれど、それも一瞬、顔を上げた先のリビングに繋がるドアからは明かりが漏れていて。まあそうだよねと肩を強張らせて――確実にバレているだろうけど、なんとなくそーっと閉めて、そーっとパンプスを脱いで、そーっとリビングへ続くドアノブに手をかけた、ところで。


「おかえりなさい」
「…………ただいま、恵くん」


 開ける前にきこえた挨拶に返事をしながら、心なしか重たく感じるドアを開ける、と。座布団の上にあぐらをかいて、腕組みをしてこちらを見上げる恵くんがそこにはいた。かち合った視線や佇まいからは、明らかな怒りのオーラは感じられない、けれど。いつもより凪いでいるようなその雰囲気が逆に恐ろしい。


「遅かったですね、胡桃さん」
「はい……」
「そこ、座ってください」
「……はい」


 そう言った恵くんが軽く顎で指し示したのは、真正面に置かれたもうひとつの座布団。そそくさとカバンを下ろして、なんとなく髪を整えながら、これまたなんとなく正座でそこに落ち着くと、「で、俺に何か言うことは」と薄い唇が小さく動いた。……さっそく、ぼんやりした頭がすっと冷えていく。酔いが、さめていく。


「……えーっと……ごめんなさい……」
「……『もう帰るから』って連絡からどれくらい経ってるか、わかりますか」
「一時間くらい……」
「誤魔化すなよ、一時間半でしょ。……なんで店教えてくれなかったんすか」
「あ……それは、恵くんのお手を煩わせたくなくて……」


 はぁ、と恵くんのため息が響く。いやこれは、何も言ってくれない方が怖いな。ばつが悪くて俯いていると、「ちゃんとこっち見てください」と怒られてしまった。

 久々に会う人たちとの飲み会が楽しくて、ついつい長引いてしまっただけの話だった。けれどその過程で私が気遣いをいくつも欠いたせいで、恵くんを心配させ、ついには怒らせてしまったのだろう。
 当初は21時までには帰ると言っていたのに、結果として23時半過ぎ。二次会参加は事後報告で、迎えに来させるのも悪いよなと店名も告げず。……ホウレンソウを怠らなければきっと、優しい恵くんは怒らなかったと思う。拗ねはしていたかもしれないけど。


「……見たとこ結構飲んでるでしょ」
「ま、まあ、そこそこ……」
「飲み会では男の前でそんな赤い顔晒して、そのうえ家までそんなフラフラで帰ってきたんですか」
「…………そんなことは……」
「あんだろ」
「はい……」

 
 ぽつぽつと静かなのに、それでいてかなりずっしり圧がかかるようなお説教が続く。けれど途中、すこし言いにくそうに「……足、痺れてないすか」なんて、勝手に正座している私を気遣ってくれるから、思わず頬が緩みかけた。危なかった。


「……何笑ってんだよ。真面目に言ってんですけど」
「はい……」


 かけてなかった。緩んでた。はあ、と何度目かの重たいため息をこぼされて、つい肩を縮こめてしまう。


「胡桃さんわかってないんでしょ、自分がどんだけ危なっかしいことしてんのか」
「……いや……うん……」
「何か反論があれば聞きますけど」
「なんでもないです……」


 恵くんは少し心配しすぎなんじゃないのかな、なんて思ったけれど……火にガソリンをぶち撒けるようなものであることだけは確かなので、ここは口を噤んでおく。


「心配しすぎとか思ってます?」
「あっ!? いや、ぜんぜん、ちっとも」


 ……バレてた。背筋につめたい汗をかきながら表情を窺うと、鋭い視線がわずかに揺れて――恵くんの表情が、少し歪む。
 どうしたのかと首を傾げると、恵くんは片手で顔を覆って軽く俯いてしまった。絞り出すような大きなため息はさっきまでとは違うような気がして、それに続く「心配、するに決まってんだろ」なんて言葉。きゅ、と心臓が握られるような心地がした。


「……恵くん」
「返事もなっかなか来ませんし、来たと思えばぜってぇ酔ってる文面で」
「うん……」
「電話ちっとも出ねぇし……」
「ご、めん……」
「んっ、とに……」


 俯きがちなまましばらく唸る恵くんに、燻っていた申し訳なさが一気に込み上げてきた。「ごめんね、恵くん」と軽く腰を浮かせて言ってみたけれど、「……ん」と短く返事をして姿勢を変えずに唸るばかり。
 恵くんは世話焼きで心配性で、時折こうして怒られてしまうけれど――そうだ、それは自惚れじゃなく愛されているからで。


「……本当にアンタ、危なっかしいんですよ。こっちの身にもなれよ……」


 ……いっそ弱々しくも聞こえるその言葉に、なんだか泣きそうになった。怒られる、怖い……そんなことばっかり思っていた自分が情けない。だって恵くんはよくムスッとしているけれど、私に向かって無意味に怒るはずはなくて……。
 正座を崩して、俯きがちな恵くんを覗き込む。辛そうにも見える表情に、胸の奥がずんと痛んだ。


「恵くん、ごめんね、本当に」


 こく、と恵くんが軽く一度頷く。目は合わせてくれないけれど。次から気をつけようと思うと同時に、恵くんをどうにか安心させようと言葉を探す。「あのね」と声をかけると、少しだけ顔を上げた恵くんの、幾分やわらかさを取り戻した瞳と視線がかち合った。


「もう、心配かけないように気をつけるね」
「……そうしてください」
「……でもね、恵くんが心配するようなことは何もないんだよ。飲み会自体もみんなでわいわいしてるだけだし、私ちゃんと自分で帰ってこられるし……だから安心してほしくて……」


 と、できる限りに言葉を選びつつそこまで話したところで、気付く。恵くんの表情は、先程までよりも明らかに淀んでいるし、口はへの字になっている。……あれ、なんか変なこと言った? 焦る私をよそに、恵くんはおもむろにあぐらを崩して――それから、こちらへ歩いてくる。たった数歩、されど数歩。部屋の明かりが、座ったままの私の前に立つ恵くんに遮られた。


「……恵くん?」
「アンタ、本当に何もわかってねぇな」


 すっとしゃがみ込んだ恵くんから、ふわりと柔らかい香りがして。それにふと気が緩んで、だから、とっさに動けなかった。首元に腕が回って、思いきり引き寄せられて――唇に噛みつかれてしまうまで、一瞬で。


「んっ……、ぅ……!?」


 ちゅ、と下唇を吸い上げられて、腰のあたりにも手を回される感覚。慌てて押し戻そうとしたけれど、両手で胸板を押してもびくともしない。それどころか、後頭部を手のひらでがっしりと固定されて、強引なキスは深く深くなっていく。
 ぐぐ、と体重をかけられて、ゆっくりうしろに倒れていくのに抗えない。そのうち背中が、そして手のひら越しの頭が床について、それでもキスは止まないまま。酸素を求めてひらいたところから、それを許さないとでも言うように熱い舌がすべり込んできて、いつもよりずっと乱暴に咥内をかき回されて、喉の奥から声が漏れる。

 どうしよう、なに、なにが起こってるの。恵くんにされて嫌なことなんて、ないけれど。それにしたって突然すぎて、強引すぎて、とにかくどういうつもりか知りたくて。じたばたと抵抗してみるけれど、どこもかしこも手や身体で抑え込まれてしまう。舌を絡め取られながら、首筋をくすぐる指が下へ下へと降りていく。


「んっ……、ん、ふ、」


 キスのあいま、が無い。途切れそうな息を継ぐのがやっとの隙間、言葉をこぼす余白も見当たらない。だから名前も呼べなくて、どうしたの、待って、何も言えない。言葉になり損ねた、喘ぎにも聞こえてしまうような恥ずかしい声は、恵くんに全部たべられてしまうよう。そんな、苦しいキスが終わらない。

 鎖骨を通り過ぎた長い指が、きっちり留まったブラウスのボタンを円くなぞる。あ、と思った時にはもう、みっつめを外される感覚。いとも簡単に、上から順番に、器用に指先だけで。
 軽く開いた胸元を、熱い指の腹がするすると撫でていく。……どうしよう、このままするの? なんだか、なんだろう、それはいけない気がする。このままなだれこんでも、この状況が良くなる気はちっともしなくて。
 いつの間にか頭の上で纏められていた手とか、押さえ付けられている脚とか、なんとか動かしてみようとした――けれど。びくとも、しない。せめて口を利きたくて逸らそうとした顔も、胸元から戻ってきた手に頬を掴まれてしまったことで、噛み付くようなキスからは逃れられなかった。

 薄く開いた視界は息苦しさから滲む涙でゆがんで、恵くんの睫毛がじわじわと揺れていた。まぶたがゆっくり上がったかと思うと、奥の奥まで深い色を湛えた瞳が、ぎらぎらと私を狙いすますように輝いている。……逃げられない、と思った。ぎゅうと目を瞑ってしまうと、哀しみにも似た感情が心のずっと底の方から湧き上がってきて。どうしてこんな、そう問いかけることすらできなくて、熱い目元がもっと重くなっていく。
 とうとうこぼれおちた水滴が、目尻からゆっくり伝って、やっと。


「……泣くなよ」


 ぐい、と親指で目尻を拭われて、荒い息の隙間で名前を呼んだ。ん、と返事をした恵くんが触れるだけのキスをくれて、ひどい熱とちょっとの痛みを残した唇が、じわじわと疼く。


「抵抗できねえだろ」


 まとめ上げられた手首に、恵くんはまた軽く力を込めてみせる。逆光になった表情が上手く読み取れなくて、ぼうっとした頭ではその意味もよくかみ砕けないまま。


「こうやって、男に抑え込まれて。……力じゃ敵わないってわかったか、訊いてんですよ」


 いくらか柔くなった声だった。身体から圧迫感が消えて、脱力している間に手を引かれて。起き上がって座って、されるがままの私の髪を撫でながら、恵くんはばつが悪そうに唇を噛んでいた。


「うん……わか、った」


 ちかちかするような白さの電灯に、少しずつ目が覚めていく。掠れた声で返した私に恵くんは軽く頷いて、それから。ぴたりと手のひらを私の頬に当てるから、思わず大きく肩が揺れてしまった。


「……こんな、顔赤くして」
「ん、……」
「他の男にも見せるつもりかよ」
「……め、めぐみくんにしか、見せたくない、よ……」
「…………はぁ……」


 恵くん、今日は何回ため息をついているんだろう。いや、私のせいなんだけど……。そんなばかなことも考えられるようになった私に向かって、恵くんはまた「大体、」と眉間に皺を寄せる。どうやらお叱りタイムは終わっていなかったみたいで、慌てて肩に力を込めた。


「真希さんにも『酒飲むと危なっかしい』とか言われてただろ」
「……そ、そんなこと、……どうだろう……」
「……否定しないんすね」
「いや、なんか……真希ちゃんの言うこととなると、信憑性が一気に上がるなって……」


 小さく唸っていると、「そう思うんなら尚更気をつけてくださいよ」と鋭い言葉をいただいてしまって、それはそうだとこくこく頷くしかない。……そんな私を恵くんはまだじっと見つめているから、恐る恐る首を傾げてみせると、「最後に言っときます」と、お説教の終わりが見える言葉。こっそり安堵しつつ、うん、と返事をする。


「本当に危なくなりゃ、いざとなれば呪力とか術式がある……とか、胡桃さんのことだから言い出しそうすけど」
「あっ……」


 その手があったか……そう自然に思ってしまった私のおでこを、恵くんが軽く小突いてくる。すぐに「その手があったか、みたいな顔すんな」なんて言われて、お見通しの恵くんに肩を縮こめて謝った。軽く息をついて、「……俺は」と私を見つめる恵くんの、その瞳をじっと見つめ返す。


「……その、『本当に危なくなる』までが嫌なんで、それは分かっててください」
「……え、っと」
「返事」


 はい、と声を上擦らせると髪をかき混ぜられて、それから恵くんは立ち上がって背中を向けてしまう。「怖がらせて悪かった」なんて謝ってくれて、そんな、心配をかけた私が悪かったのに。


「風呂沸いてるんで、早く入ってきてください」
「あっ、ありがとう……」
「……本当、いい加減に自覚してくださいね、自分がかわいいってこと」


 お風呂まで……と感動するやら申し訳ないやらだったところに――突然、投げ込まれた爆弾。


「えっ、あ、今なんて……?」


 二枚ちらばった座布団をちょっと乱暴にかき集める、屈んだ恵くんの背中はぶっきらぼうで、でもちっとも冷たくなんかなかった。


「もうなんでもいいでしょ、早く風呂行ってきてください」
「怒らないでよ」
「もう怒ってないです」


 拗ねたようにも聞こえる言い方がどこか可愛く思えてしまって、ばれないよう俯きがちにこっそり口元を緩めた。
 たくさん怒られてしまったし、心配もかけてしまったし、ちょっと……その、心臓によろしくないことにはなったけれど。普段あまり言葉にはしてくれない恵くんの、思っていたよりもきっと大きかった気持ちを受け取ることができたような気がして――ずっと忙しかった心臓が、その余韻と充足感で甘く疼いている。


「恵くんごめんね、だいすき」
「はいはい、……俺も大好きですよ」


 ぐしゃぐしゃ頭を掻きながら、依然こちらを見ないままに返してくれた恵くんのその言葉には、ひとことじゃ足りないくらい愛情がこもってるなあ、なんて。そんな調子のいいことを考えながら、ありがたくお風呂をいただこうと立ち上がる。

 心配してくれてありがとう、そう言いたくなったけれど、心配させるようなことしないでください――なんてまた言われてしまうような気がして。もうすっかり酔いもさめたし、それにこれだけ怒られていればさすがにわかる。だから、ちょっと嬉しかった気持ちもありがとうも、心にそっとしまっておくことにしようかな。




20210426
恵くんに怒られたい欲が暴走した



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