ぜんぶが嫌になった。呪術師はいつだって人手不足で、私がやらなきゃ誰かが死ぬかもしれない。そんなことはわかっていた。わかっていて尚、嫌になった。適当なアウターを着込んで部屋を飛び出したのは、ある寒い真夜中のことだった。
ポケットからスマホを取り出す。高専の寮の前、そこはわずかな街灯がおちるだけの暗く凍える空間で、液晶がやけに眩しく光った。目を細めながらたしかめた時間は、1時30分。およそ高校生が外にいていい時間ではないだろう。
静かに画面をタップして、それからスマホを耳に当てる。機械音が数回響いた後、がさがさと擦れるような音が聞こえた。お布団、だろうな。
「もしもし、恵くん」
「なんすか」
掠れた寝起きの声にすこし心臓が跳ねて、けれど大きく包み込むような安堵もゆるりと降りてくるようで、思わず大きく息を吐く。白い靄になって、空気に溶けた。
「おきてる?」
「……起こされました」
そうだろうな、と思いながら、「ごめんね」と茶化すみたいに謝ってみせた。「思ってないですよね」と返事をくれる恵くんの眉間にはきっと、深い皺が寄っているんだろう。髪は寝癖がついているのかなあ。部屋着は相変わらずだるだるで楽な仕様なんだろうか。恵くんを構成するひとつひとつが気になって、「会いたいな」なんて言葉がこぼれ落ちていた。
「……どこですか?」
「寮の、前」
がちゃがちゃ、がらがら。スマホの奥のノイズが心地良いと思うなんて滅多にない。けれど心地が良かった。恵くんは今きっと、私の突拍子のないわがままに付き合うための支度をしている。それも、電話を切らないまま。会いにきてくれるのも、繋いだままにしておいてくれるその心遣いも。好きだと、思う。
ノイズが足音に変わる。「わがまま言ってごめんね」と声をかけたけれど、返事はない。ちょうどスマホを耳から離しているのかもしれない。程なくして「もう着きますから」と言ってくれた恵くんの声が優しくて、ひとり泣きそうになった。
「眠くない?」
「眠くないっつったら、嘘になりますかね」
「わがまま言ってごめんね」
「……言えばいいでしょ、幾らでも」
恵くんならきっとこう言ってくれるだろうと、甘え切っていたけれど。現に言葉にしてもらえると、どうにも擽ったくたまらない。「恵くん、すき」喉が涙で焼けそうになって、絞り出した声は掠れた。「そういうのは」足音とその声が、ほんの少しだけずれて、二度、鼓膜を揺らした。
「直接言ってくれませんか」
とん、と肩に置かれた温かい手。恵くんの息はすこし上がっているような気がした。
勝手に目頭があつくなって、滲みかけた視界をなんとか押しのけて。振り返った先にいたのは焦がれたひと。唇を噛んでから、思いきり息を吸い込んだ。
「めぐみくん」
やっぱり、眉間に皺が寄っていた。髪の毛は変な方向にはねていた。私と同じに適当な上着を着込んでいる。きっと、だるだるの部屋着の上に。それに私を見つめる眼差しだって、いつも通りにやさしくて──安心、した。恵くんだ。
「はい。……なまえさん、寒くないんすか」
「……ちょっと寒い」
「手、繋ぎますか」
頷いて、差し出された大きな手を取った。いつしか冷え切っていた私の手を握って、むっと顔をしかめた恵くんは、そのままアウターのポケットに手を突っ込んだ。私の手ごと。ほとんど反射で引こうとした手は繋ぎ止められて、ポケットにかくれんぼしたまま、ふたりの指が絡み合う。身体がぽかぽか暖まって、むしろかっと熱くなる。恵くんのあったかさを分けてもらえたみたいで、頬が緩んだ。
「……恵くん、コンビニ行かない?」
「何言ってんすか、こんなド深夜に」
「ド深夜だからいいんじゃん」
「はあ、補導されますよ」
「……五条先生になんとかしてもらおう」
「時々とんでもないこと言いますよね」
ふ、と笑いをこぼしてから、恵くんは「何買うんすか」と、寮とは逆の方向に足を動かす。「肉まん半分こしよう」そう返した自分の声から、翳りが取り払われていくような心地がした。
二人分の足跡が静かに響いて、そっと手を引いてくれる恵くんは何も訊かないし、何も言わない。合わせてもらえる歩幅も居心地が良くて、そっと身体を寄せた。歩きにくくなったけれど、今はどうだってよかった。
「恵くんのね、やさしいところ。……好きだよ」
ちらりと私を見遣った恵くんの白い頬に、長い睫毛が影をおとしていた。「……俺は、」一度切られた言葉の先を、ひとつ頷いて待つ。
「強いくせに、弱いところが好きです」
「……ほ、褒めてる?」
首を捻る私に、恵くんは親切に付け足してくれた。「俺に、その弱さを見せてくれるところが」そうして、うつむく私の手を握り込む恵くんは、どこまで私にやさしくしたら気が済むのだろう。
転けないでくださいよ、恵くんはぶっきらぼうにそう言う。転けないよ、硬い声でそう返した。
……恵くんがいれば。恵くんがいるから、こんな暗い道だって転けずに歩けるのだと思う。どんな不確かな明日だって、恵くんの手を握っているから、顔をあげて見つめていられるのだと思う。
コンビニの明かりが、遠くのほうで薄ぼんやりと灯っていた。そこまで、もうすぐだ。
20200124
#juju版深夜の真剣夢書き60分一本勝負
お題【明日/見つめる/深夜25時半の逃避行】