ゆらぐ憂愁




※本誌内容(148話以降)を含むお話です。ご注意ください。






 真希さんの差し出したそれが、“誰”であるかはすぐにわかった。わかってしまった。色濃く息苦しいほどの残穢をまとったそれは、鋭く、そして、言葉にできないほどにうつくしかった。たまらなく喉が熱くなって、だけど名前すら呼ぶことはできやしない。


「アンタのところに、連れてくるべきだと思った」


 冷淡にも聞こえる声と共に、痛々しい傷とやけどに覆われた腕が、ずい、とさらにわたしに迫ってくる。一歩退こうとした脚を、すんでのところで止めた。受けとめたくなかった。信じたくなかった。儚くさみしくきらめく刃が、綺麗でまぶしくて、閉じそうになる目にぐっと力を込める。潤みそうになる瞳を、呼吸すら忘れて堪える。

 ──真依。ねえ、真依、何もかも手遅れで、だからこそこんなことばで片付けてしまいたくはないけれど、わたしは、わたしは真依が、真依のことが好きだったんだよ。大好きだったんだよ。たくさんのものに抗って生きて、それでもちいさく震えることをやめられなくて、じぶんの弱さをみとめていても許せなくて、真依、あなたが、そんなあなたを見つめているその一分一秒ですら、わたし、ほんとうに好きだったよ。

 震えていた。真依は強くなんてなかった。そんな真依のきもちを分かってやれるようなわたしではないけれど、それでよかったんだと勝手にみとめて許してやりたくて仕方のない傲慢なわたしの手は、情けなく震えつづける。さいごまで真依のほうからは伸ばしてもらえなかったその手を追いかけるみたいに、恐ろしさに耐えるみたいに、ゆっくり、ゆっくりと伸ばして、指先が、触れて。熱いのにつめたくて、わけがわからなくて、視界は瞬く間にゆがんで崩れおちていった。


「握ってて。……ひとりじゃ、にぎれない」


 柄を離そうとした目の前の手に、軽く力がこもったのがわかった。わたしには、手渡されたってできることなんかありはしないのだ。私の粗雑なわがままに、それでも何も言わない真希さんはそのまま、しばらく、わたしといっしょに握りつづけていてくれた。長い柄は、ふたりの手におさめられている。だれもなにも言えないような沈黙のなか、からからに乾いた喉から、掠れた声を絞り出した。


「……真依、は」
「うん」
「しあわせだったかな」


 さあな、と、すぐに真希さんは言う。こざっぱりした物言いが妙に気持ちよくて、なぜだか、渡り鳥たちが広すぎる海の上を翔けていく、そんな情景のなかにいるような気がして──「さあね」と相も変わらずそっけない真依の声が、聴こえた。


「真依」


 か細い声は、真希さんの耳に届いたかすらわからない。わたしの手のすぐとなりで真依を握る手は、動かない。
 ふたりぶんの手を受け止めていたその柄から、わたしだけがそっと、そっと、名残惜しさを隠しもせずに、「いつまでそうしてんのよ」なんて叱ってほしいくらいに緩慢に、ちからを抜いていく。離れていく。おいて行こう。もらって行こう。わすれて行こう。真依はここにいる。伝えられることはきっと、ない。

 顔を上げたさき、真希さんの瞳はぎらりと輝いていた。まっすぐに見つめながらわたしがひとこと「ありがとう」とこぼすと、真希さんはそっと頷く。そうしてすぐに、彼女は踵を返す。その背中を映さないように目を伏せると、色のない風に揺らされたみじかい髪の影が、視界の端からきえていった。あまりに静かなその一瞬を、わたしはきっと、抱きしめて生きていくのだろう。これから、ずっと。



20210803
私なりの真依ちゃんとのお別れ



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