ちょうだい、きみの全部




 私にはもったいない、と時折思う。窓から差し込む陽光に透かされるその肌は、白くなめらかで、いっそ羨ましくなるほどで。長い睫毛がおとす影が、彼の纏うはかなさをいっそう際立たせている。そんな美しさすら感じさせるこのひとが、私の──彼氏、だなんて、いまだに信じがたかったりするのだ。


「……なんですか」


 ──目が、合った。いや、気付かれるほど見つめていたのは私のほうであって、ただ単に恵くんが顔を上げただけである。


「あ、ううん、ごめん」
「や、別に謝んなくても」
「……そ、そうだよね」


 休日、ふたりきりの恵くんの部屋。任務も何もない貴重な休みで、けれど何をするわけでもなく。恵くんは座布団にあぐらをかいて、私はベッドの縁に腰掛けさせてもらって、思い思いに過ごしていた。その距離感と心の隔たりがリンクするみたいに、微妙な空気が私たちのあいだに流れる。

 付き合って、数ヶ月。私たちの関係に名前は付いたものの、「恵くん」「なまえさん」と名前で呼び合うようになったくらいで、目立った進展はみられないままだ。別に急ぎたいわけではないけれど、こういうふたりきりの時間、お互いに本を読んだりスマホを見たりして終えてしまうというのもなんだか。かといって、私から何かするなんて到底できそうにないけれど。

 そんなふうに悶々としていると、おもむろに恵くんが立ち上がった。お手洗いかな、そう思ったのも束の間、恵くんが私のほうに歩いてくる。


「……恵くん?」


 ちょうど一人分くらいの距離を空けて、そのまま恵くんもベッドに腰掛けた。軽く軋んだその音に、どきりと心臓が跳ねてしまう。落ち着く間もなく「なまえさん」と名前を呼ばれるから、「はい」と返した声は軽く上擦った。……う、恥ずかしい。じっと目を見つめられて、気まずさに逸らしてしまいそうになったとき。恵くんの唇がゆっくりと動いた。


「……付き合ってた人、いたんすね。なまえさん」
「……え? うん……いた、けど」


 ずいぶんと突然なその話題に、すこし拍子抜けしたけれど──つい先刻の、野薔薇ちゃんとの会話を思い出した。「なまえさん、恋愛経験とか豊富そうですよね〜」「えっ、ひとりとしか付き合ったことないよ」なんて、そんな話をしたような。その後にすぐ恵くんが声をかけてきたから、きっとそれを聞いていたんだろう。

 そうは言っても私は当時中学生で、“経験”と言えるようなことはしちゃいなかった。強いて言えば、手を繋いで登下校したくらい。そして恵くんとも手を繋いだことがあるくらいで、野薔薇ちゃんの指摘は全くもって見当はずれだったわけだけど──恵くんはなんだか、険しい顔をしている気がする。その思惑がわからなくて、一度は鳴りを潜めた心臓がまた、ばくばくと音を立て始めた。


「それが……っ、!?」


 どうしたの、と続くはずだった言葉は虚しく途切れた。ぐいと肩が押される感覚、鮮やかに回る視界。逆光になった黒い影が恵くんだと、それはすぐに理解できたけれど。


「……め、めぐみ、く」


 柔らかなベッドが沈んだその衝撃で、ふわりと恵くんの香りが舞う。じんじんと熱を持っていく肩、まっすぐに私を射抜く視線。──いわゆる“押し倒された”状態だと、それを私の頭は、すぐに理解してはくれなかった。混乱でぐるぐると目が回るような心地がして、精一杯の抵抗として顔を逸らした。


「……なまえさん、こっち、見てください」


 熱い。頬に触れた手の熱に抗えなくて、抵抗虚しくまたすぐに上を向かされてしまう。くしゃくしゃに視線が絡んで、もう逸らせない。なんで、一体どうしてこんなことに。ぎしり、先程も聞いたベッドの音が、今度はやけに生々しく部屋に響いた。


「……どこまで、」
「え……、」
「どこまで、した?」


 どこまで……? そのことばを噛みくだくあいだに、投げ出したままだった手のひらが柔く包まれた。それから指を一本ずつ、まるで確かめるように触れながら、ゆっくりと絡めとられていく。
 かちあったままの視線が熱くて、目の前の瞳は揺れている。焦っているみたいだと思った。


「あ、あの、」
「手ぇ繋いだことあんのか、訊いてる」


 低く唸るみたいな声。なにが正しいのかまったく判らなくて、「あります」となぜか敬語で早口で、ばか正直に答えてしまった。「……へえ」そう小さく応えた恵くんの口角がわずかに上がって、よりいっそうベッドが沈む。視界に落ちる影が濃くなって、真っ黒い部屋着がどんどん近づいてくる。ゆるい胸元からのぞく鎖骨がまぶしくて、とっさに目を瞑った。


「じゃあ、これは」


 衣擦れの音と一緒に、背中の下に腕が差しこまれて。ほんの少し浮いた身体を引き寄せるみたいに、力が込められている。……抱き締められたことがあるのか、訊かれてる? なんとかそれを理解しても、頭も心もついてこられなかった。手を繋いだっきりだと伝えたくても、いや、あの、そんな意味のない言葉しか形にならない。

 待って、本当に、いったん落ち着かせてほしいのに。なんとか目を開けても、抱き締められたままの視界は真っ暗で。深呼吸だって、恵くんの香りをいっぱいに吸い込むことにしかならなくて、これはまったくの逆効果だ。けれど恵くんは待ってはくれないどころか、「あるんすね」と盛大に誤解をしたまま身じろいでいる。「待って」とやっと口に出せてももう遅かった。
 すこし身体を浮かせた恵くんのその整った顔が、さっきよりもずっと近いところにある。


「……なまえさん、これも?」


 程なくして、頬に柔らかいものが触れて──喉の奥が詰まる。息の仕方も、忘れてしまったみたいに。ちがう、したことない。暴れまわる心臓と、言葉にならずに漏れていく吐息。いつだって優しく私を見つめてくれていた瞳は今、荒くぎらついて私を捕らえている。……食べられる、無意識にそんな予感が過った。
 ──別に構わない。恵くんなら、なんだって。けれどこのまま、ぜんぶ勘違いされてしまったまま、ムードのかけらもないファーストキスにもつれ込んでしまうのは嫌だった。

 どくどくと、煩い鼓動は耳まで響くみたいで、近づく恵くんの唇に目の前がちかちかして──

 間一髪、自由なまま残っていた手が動いた。ぺちん、そんな間抜けな音を立てて自分の口を覆ってしまうと、鋭かった恵くんの目は一瞬にしてまるく開く。


「……なにしてんすか」


 暗くおちていた影が、恵くんがすこし身を引いたことで薄まる。毒気が抜けたみたいないつもの表情に、わずかながら緊張がほぐれ始めて。手を浮かせて「してない」と、震えの残る声を張った。


「は、」
「手しかない、です」
「……て?」
「手、繋いだことしか、ない、よ……」


 ぽかん、なんて効果音がつきそうな顔だと、そう呑気に考えられるくらいには空気は緩んでいた。息を吸い直して「めぐみくん」と呼んだ途端、弾かれるみたいに恵くんはベッドから飛び退いた。


「す……、い、ません」
「わ、私こそ……」


 恐る恐る身体を起こそうとすると、恵くんがそっと手を差し出してくれた。有難くそれを借りて起き上がり、恐らく乱れているであろう髪を整えていると、また「すいませんでした」と気まずそうな謝罪が飛んでくる。ゆるゆると首を左右に振りながら、バツの悪そうな恵くんを見遣った。


「ううん……や、でも、なんでいきなり……」
「なんか……すいません、焦りました」


 がしがしと頭を掻きながら、恵くんもまたベッドに腰掛けたけれど。それは今度は二人分くらい空いた場所で──あんなにもドキドキしておきながら、その距離をほんの少し寂しく感じた。性懲りもなく。


「しれっとベッドに座ったりするんで、その……」
「あ、え、ダメだった!?」
「いや、ダメじゃねえけど……」


 あ、ああ、なるほど。なんだかこう、振る舞いが手慣れて見えた、とかだろうか。でもこれ、そもそも恵くんに勧められて座ったのに、なんて思ってしまったりもして。
 すると丁度「……俺が勧めたんでした」とさらに恵くんがしょんぼりしてしまうから、慌てて「もういいから気にしないで」と大げさなジェスチャーを交えて慰める。
 

「びっくりしたけど、嫌では……なかった、し」


 しどろもどろな言葉に、俯きがちな恵くんの流し目がぶつかってくる。「そういうとこだよ」なんて低く声が響くから、慌てて謝った。

 
「……だっせえ」
「え、なにが……?」
「過去の男に妬く、とか」


 ぼそり、それは掻き消えてしまいそうだった。けれどふたりきりの部屋には充分すぎる声。目元を覆う恵くんの耳が紅く染まっていたのだって、見逃せはしなかった。


「……本当すいません、頭冷やしてきます」


 すぐに立ち上がって、それから早足で通り過ぎていきそうだった恵くんの手をとっさに掴む。どうするかなんて決めていなかったけれど、ここで逃がせば、間違いなくうやむやになると思って。


「ださくなんかないし、その……嬉しかった、よ」


 ぴくりと指先が震えたから、両手でその手を包み込む。
 
 ──恵くんは言ってくれた。たしかにさっき。妬いた……って、言ってくれた。
 もったいない、信じがたい、いまだにそう思う。それくらい素敵なひとが、妬いてしまうくらいに私のことが好きなんだって──そのことが、たまらなく嬉しかった。


「……大丈夫。私のはじめて、ぜんぶ恵くんだよ」


 言ってから「あ、手は繋いじゃったけど」と申し訳なさを加えて付け足すと、握り込んでいた手が思いきり引き上げられて。よろめいてそのまま、すっぽりと恵くんの胸に収められる。「……だから、」耳元で囁く声は甘く掠れていて、冷めかけた体温が一気に戻ってきた。


「軽々しく言うなって、そんな事」
「……軽々しく、ないよ」


 ぴたり、恵くんの動きが止む。それからまるで引き剥がされるみたいに、あっさりと身体が離れた。また背中を向けられて、その足は部屋のドアを目指すから、「どこ行くの」と訊ねれば「散歩」なんてぶっきらぼうに返ってきた。

「……私も、行きたいな」
「はあ……もう、好きにしてください」


 許可を貰えたことに小さくガッツポーズしながら、すこし項垂れたその背中についていく。ごめんね、今は離れたくないと思ったから。きっと恵くんは、まだ恥ずかしいんだろうけど。


「恵くんは、その、はじめてだった? 手繋ぐの」
「…………教えねぇ」



20200122
世界よ。どうか、年下の伏黒恵の魅力に気付いてくれ



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