いってきますをお忘れなく



「ごめん、先出るね!」
 そう告げて、返事を聞くのもそこそこに家を飛び出した。ほんのちょっと寝過ぎたのと、いろいろ重なって今朝はギリギリになってしまった。わたしが早番であることを啓悟くんに伝え忘れていたとか、寝起きがあまり良くない上に寝ぼけると馬鹿力になる啓悟くんに抱きすくめられてベッドから出られなかったとか、いろいろ。
 啓悟くんが朝はゆっくりめの日、わたしがこうやって遅刻の危機に瀕すると「送ろっか」なんて言ってくれることもあるけれど、絶対に目立ってしまうので遠慮している。あと、そんな手助けに慣れてしまったらダメになりそうで。「ダメになったらいいんじゃないですかね」と冗談めかして言われ、油断ならない笑顔にくらりときたのは秘密にしておこうと思う。
 そうして職場を駆け足で目指しているあいだ、そういえば、と思い出す。あれ、忘れてたかも。習慣みたいになっていた、……出かける前の、キス。いざ言葉にすると照れくさいけれど、毎朝ほとんど挨拶がわりに交わしているそれ。そもそも急いでいたし、ちょうど玄関に啓悟くんもいなかったし、ですっかり飛ばして出てきてしまった。まあ、仕方ないかあ。啓悟くんも何も言わなかったし、わざわざ気にするようなことでもないのかもしれない。ほんの少しの物足りないような寂しさを抱えながら、気を取り直して朝の空気をかき分けていった。

 朝はなんとか間に合って、そうして迎えた昼休み、スマホが短く鳴った。ぶん、ぶん、と三度続いたそれに首を傾げながら取り上げると、送り主は今朝ぶりの恋人。
『なまえちゃん』
『忘れとったやろ』
『今日』
 はて。なんのことだろうと「なにか忘れ物あった?」と返事をすると、トーク画面を閉じる前にすぐに既読がついて、それから。
『うん』
『しとらん』
 ……あ。
『いってきますのチュー』
 …………なるほど。
 不意打ち。顔に集まってくる熱に頭を抱えてしまうと、ちょうど休憩室に入ってきた後輩くんが心配そうにわたしを見つめてくる。体調でも悪いのかと訊かれて、「ごめん大丈夫、ちょっとごめん」と雑にごまかしながら裏口から飛び出したわたしは挙動不審に違いないけれど、真っ赤になっているところを見られるよりはマシだったと思いたい。
 ビルの裏階段に出て、外の空気で深呼吸をして。それから画面に向き直る。いってきますのチュー、なんて見るだけで顔が熱くなる文字列に続いて送られてきていたのは、ひよこがどんよりうなだれているスタンプだった。……わたしがプレゼントしたやつだ。つい小さく笑いをこぼしてしまいながら、画面に指を滑らせる。
「ごめんね、遅刻しそうだったから」
『いやです』
「嫌って」
『このままじゃ俺今日がんばれん』
「えー、そんな」
『なんで取りに行きますね今から』
『忘れ物』
 えっ。さあっと吹き抜けた風にわたしの声は攫われて、まって、取りに行く、今から、忘れ物? どういうこと、と入力して送信ボタンをタップするその瞬間、またひときわ強い風が吹いた。さっと太陽が遮られて、ひらり、ふわり、影といっしょに落ちてきたのは赤い羽。見覚え、どころじゃないそれに弾かれたように顔を上げると、目の前で翼をはためかせていたのは、ほかでもない。
「ほ……ホークス」
「はあい、ホークスです」
 とん、と軽い音とともに舞い降りた彼はやわらかく翼を畳んで、「違いますけどね、今は」なんて言ってゴーグルを上げる。あかるい瞳が光を吸い込んで、昼下がりの陽気で淡くかがやいていた。ぼうっとしている隙にずいと距離を詰めてきた彼を、とっさに顔の前に両手を挟んで止める。
「まって、まってまって、こんな外で」
「誰もおらんよ」
 むっと不満を顔に出してくるけれど、こんな誰が見ているかもわからない外で接近するわけにはいかない。このビルの裏はそもそも人通りが少ないけれど、それにしたって。焦りやら驚きやらなんやらで頭の中はとっ散らかっていて、よろよろと数歩後ずさると階段のへりに背中が当たる。
「だっ、誰か見てるかも」
「見とらんって」
 いきなりすぎて慌ててはいるけれど、取りに来た忘れ物ってなあに、なんてことを訊くほどわたしも鈍感ではないし、彼のことをわかっていないわけではない。そしてやっぱり、互いに言葉にせずとももう答えは出ている。
 啓悟くんは、いってきますのチュー、を取りに来ているのである。
 いつもより性急な態度に、きっと仕事のあいまだし時間がないのかも、と思い至る。そして俯きがちなわたしとの距離を詰めながら「周辺は確認済みです」なんてどこか業務的な言いかたをする啓悟くん。
「俺がそのへん気ぃ抜くと思います?」
「抜かりない……」
「ね、だいじょうぶ。やけんこっち向いてよ、なまえちゃん」
 観念、するしかない。そっと顔を上げると、厚いグローブに覆われた指先が顎に触れて心臓が跳ねる。いつもなら頬に手を添えてくれるのに、と思うけれど、きっとグローブをしたままだから気遣ってくれているのだろう。そのまま人差し指の先だけで顎を掬われて、まぶしさを遮るみたいに瞼を下ろして、すぐ。触れたそばから溶け出しそうな体温と、わたしの好きな彼の香りに浸される。視界にほんのり赤く透ける陽光に、昼間に外でこんなこと、と思うのに、身を委ねるのをやめられない。
 角度を変えて、柔くつぶれる唇は熱い。きっとこれ以上深くはならない浅いキスなのに、こんなにも。上がった体温と、伝わる息遣いに頭の芯がしびれてゆく。ぐい、と腰を引き寄せられて、速まる鼓動に胸がきゅっと引き攣れて、閉じた瞼の裏で世界がぐるぐる回りだした、そのとき。
 ピリリリリ、と響く無機質な音。ぱっ、と互いに身体を離して、急激に冷める熱に眩暈がする。ポケットからスマホを取り出す啓悟くんの姿を、呼吸を整えながらただ見つめていた。
「はい、あ〜はい、すぐ戻ります。了解でーす」
 さっとスマホをまたポケットにしまった啓悟くんは、「あーあ、もう行かんと」と唇を尖らせる。やけに意識してしまってぱっと目を逸らすと、ふっと啓悟くんが笑う気配がした。
「貰いすぎたかも」
「……啓悟くんのばか」
「思っとらんくせに」
 頭の上に啓悟くんの手が乗って、いったん躊躇うように動きを止めてから、ぽんぽん、かるく動いて離れてゆく。髪型が崩れないように、かもしれない。ああもうどうしよう、こんな細かいことすら大好きでしかたない。
「んじゃ行きますね」
「無理、しないでね」
 飛び立とうとした啓悟くんにとっさにかけたのは、何度だって言っていて、けれど何度言っても言い足りない言葉。目を丸くしてから、すぐに目元を柔らかく緩めた啓悟くんは、ひとつ優しくうなずいた。
「ちゃんと帰るから」
「うん」
「……じゃあ、」
 いってきます。
 そう言い残して飛び立つ啓悟くんに手を振って、「いってらっしゃい!」と返した声は軽やかに弾んでいた。振り返らないままに、それでもひらひらと手を振りかえしてくれるその後ろ姿と大きな翼。青い空に吸い込まれてゆく啓悟くんを見送りながら、たまには忘れ物も悪くないのかも、なんて。そんなことを懲りずに思ってしまうのだから、わたしはもうとっくにダメになっているのかもしれない。



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