きっと醒めないままで



「ただいまあ〜」
 あ、ご機嫌だ。顔を見なくたってわかるその声を聞いて玄関に駆け足で向かうと、案の定にこにこ柔らかな笑顔を浮かべる恋人がそこにいた。
「おかえり啓悟くん」
 靴を適当に脱いで、わたしの髪をわしゃわしゃかき混ぜてそのまま洗面所に向かう彼からは、ほんのりお酒の匂いがする。そして洗面所に入っていくかと思いきや、くるりと振り返った彼に突然抱きしめられるから、「わ」と声をこぼしてよろめいてしまった。
「ねえなまえちゃん」
「ん?」
「ちゃんと歩いて帰ってきたけん褒めて」
 そう言ってぎゅうと腕に力を込めてみせる啓悟くんはきっと、前に「飲んだ後で飛んだら飲酒飛行じゃない?」なんて冗談半分にかわした会話のことを言っているんだろう。抱きすくめられたまま「えらいえらい」と腕を伸ばしてその髪に触れて、優しく撫でつけると、ゆっくりと力を抜いて息を吐き出す啓悟くん。その無防備さが、たまらなく愛おしい。
「楽しかった?」
「うん」
 羽の少し上、背中をぽんぽんと叩きながら「よかったね」と言うと、啓悟くんはまた「うん」と短いのに柔らかくて嬉しそうな色の滲んだ返事をくれる。今日は顔馴染みのヒーローが何人か福岡に来ているとかで、仕事終わりにホークス事務所で飲み会のようなものを開催するのだと言っていて、ずいぶん楽しみにしていたのを知っていた。だからこんなふうにご機嫌で帰ってきてくれたことに、わたしもなんだか嬉しくなってしまう。アルコールにそう弱いわけではない彼は酔っ払っているというほどではないのだろうけど、ちょうどよくお酒がまわって楽しそうにしている姿は正直言って実にかわいかった。かわいい、なんて言ったら拗ねてしまいそうだから口にはしないけれど。
 
 後ろからもたれられるような格好で、「歩きにくいよー」なんて形だけの文句を言いながらリビングにたどり着いて、啓悟くんを先にソファに座らせてキッチンに向かう。「はよこっちきてなまえちゃん」なんて言っていたけれど、飲み物ぐらい取りに行かせてほしい。
 そうしてつめたい緑茶と共にソファに戻ると、ぽんぽん、啓悟くんは自分の隣をかるく叩いてみせるから、ローテーブルにグラスを置いてわたしもソファに腰掛けた。
「今日は誰が来てたの?」
「ジーニストさんでしょ、エッジショットさんと、あとウチのサイドキック。バクゴーくんも嫌々きてくれた」
 そう言ってスマホを取り出して見せてくれた画面には、ベストジーニストにエッジショット、それから大爆殺神ダイナマイトもいる。馴染みのサイドキックさんたちと、最近サイドキックとして入ってくれたというツクヨミくんもいた。えっすごい、有名ヒーローばっかりだ……と一般人らしい感想を抱くわたしをよそに、啓悟くんは上機嫌で話し始める。
「バクゴーくん、ジーニストさんに引きずられてきとってさぁ。俺んことヘラ鳥とか言いよるけん、親しみ込めてカッチャンって呼んだったらばり怒っとった」
「ヘラ鳥」
「そーヘラ鳥」
 わはは、と笑ってみせる啓悟くんは饒舌に今日の話を続けてくれて、普段わたしばかりが話していることが多いからなんだか新鮮で。わたしがヒーローホークスだけを見ていた頃に抱いていた印象とは少し違って、存外口数の少ない啓悟くんは「俺はあなたの話を聞くのが好きなんで」なんて言って微笑んでいることが多かった。だから今日、ほろ酔いでにこにこと話し続けている姿を見ていると、わたしの方まで楽しくなってくるような心地がする。
「そんでね、エンデヴァーさんが仕事のことでジーニストさんに電話かけてきたけん巻き込んだんやけど、あん人すーぐ怒るわりにちゃっかり付き合ってくれるんすよね〜」
「へえ〜意外」
「『業務外の話ならもう切るぞ!』って三回は言っとったけど、待ってくださいよ〜言うたら『なんだ』って聞き返してくれてさあ」
 微妙なエンデヴァーのモノマネを織り交ぜながら話す啓悟くんの姿についくすくすと笑ってしまうと、啓悟くんもどこか嬉しそうに笑う。ころころ変わる話題は面白くて、啓悟くんが楽しかったことの話をしてくれるのが嬉しくて、うんうん、とひとつ相槌をうつのも幸せな時間だった。
「バクゴーくんああ見えて几帳面で、分別に関してばり厳しいんすよ」
「ダイナマイト?」
「そーそー。ビン缶空いたそばから半ギレですすいで分けとって面白かった」
「えー意外といい子だねえ」
「でしょ。ジニさんが気に入っとーのも納得」
 あ、ジニさんって略すんだ。さっきはエジショさんって言ってたな。エンデヴァーさんの略称はあるのかな……とそんなことを考えてしまいつつ、ダイナマイトの几帳面さに思いを馳せる。数年前にテレビで観た雄英体育祭ではたしか縛り上げられていた記憶があるし、意外という物言いは失礼だったかもしれないけれど、あの激しさに反して細やかな気遣いができるというのはなかなか面白いところがあるなあなんて思ったり。
 そうして次は、常闇くんとジーニストさんが独特の言語で通じ合って盛り上がっていた話をしながら、突然。「あ〜眠」なんて啓悟くんは倒れ込んできて、そのままわたしの膝の上に頭を乗っけるからどきりとする。「寝るならベッド行こ」と言ってみたけれど、「んーん、まだ聞いて」と返してくる啓悟くんは一応寝るつもりはないらしいから、膝枕みたいな格好のままそっとその髪を撫でつけておいた。
「……常闇くんとバクゴーくんって同級生やしさ、久々に会えて良かったなぁと思うし。や〜ほんと、サイドキックにも普段大変な思いさせとー分楽しんでもらえてよかったなあって」
「うん。啓悟くんは優しいね」
「ん〜……」
 そうやって唸って、もぞもぞする姿は首を横に振っているようにも見える。けれどわたしが何か言う前に、首を捻ってかるく上を向いた啓悟くんが手を伸ばしてきて、無抵抗なわたしの頬にそっと触れた。いつもより高い体温が手のひらから伝わって、じわり、柔らかに沁み込んでくる。視線がやさしく交わって、啓悟くんが目を細めるからぬるく蕩けて、けれど溶けきる前にほどけてゆく。するりと余韻を残して手も落ちていって、残された体温がぼんやりと息をしていた。ほどなくして「……あ〜……」と聞こえてくる、空気を押し出すような声。
「どうしたの」
 離れていったことへのほんの少しの寂しさと、心地よい重みと温もりを感じながら、今度はかき混ぜるみたいに髪に触れる。手櫛を通すとすこしひっかかって、なめらかにはあと一歩遠いその感触が、好き。
「なぁんか、ホント、幸せ」
 ……そうして。おもむろにこぼされたあたたかい言葉に、ゆるく動かしていた手が止まる。
「楽しくて、帰ってきたらあなたがいて、はなし、きいてくれて……」
 思わず息を呑んでしまっているあいだに、さあっと波が引くように静けさが訪れて、すう、すう、規則的に響き出す呼吸。「啓悟くん」と、返事を期待しないで呼んだ名前が溶けてゆく。

 ──幸せ。幸せ、かあ。
 啓悟くんの話をたくさん聞けて、嬉しくて楽しかった気持ちがふわりとほどけて。屈んで覗き込めば閉じられたまぶたの上で睫毛が震えて、あふれつづける愛おしさのせいで、悲しくなんかないのに涙がこぼれてしまいそう。
 ……わたしも。あなたが楽しかったこと、それを話してくれたこと、聞いてほしいと思ってくれたこと、ここに帰ってきてくれたこと、ぜんぶ、わたしもとびきり幸せだったんだよ。
 すべらかな頬にひとつ口づけを落として、願う。どうか、あなたが夢のなかでも笑っていられますように。手繰り寄せたブランケットをそっとかけながら、「おやすみ」の声に精一杯の愛をのせる。ちゃんとベッド行かなきゃとか、電気消さなきゃとか、思うことはいろいろあるけれど、今はただこの幸せを噛み締めていたかった。



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