夜が溶けだす二秒まえ



 わたしたちって、同棲、してるんだ。
 同棲をはじめてもう数ヶ月経って、はじめの頃のように浮き立つ気持ちは幾分落ち着いたように思う。常にくっついているようなこともないし、沈黙に急かされることもなく、静かな部屋で思い思いの時間を過ごすことも増えてきて。けれど時々、夢のなかを外の世界から覗き込むようなふわふわした気持ちになる。部屋を見渡せば目に映るのは、ハンガーにかけられた啓悟くんのジャケット、ふたりぶんのマグカップ、一緒に選んだラグに壁掛け時計。たしかにここにあるものたちが、啓悟くんとわたし、ふたりが共にする生活をかたちづくっている。啓悟くんとひとつ屋根の下、帰る家が同じで、彼がわたしのところに戻ってきてくれる理由がある。
 ──なんて幸せなことだろう。同棲というかんたんな言葉で表せないような、たいせつで膨大で重たく尊い意味たちが、いつだってこの部屋を満たしているような気がしていた。

 夜も更けたころ、先にベッドに寝転ぶわたしの視界には啓悟くんの背中がある。すこし力の抜けた剛翼がさらりとシーツに流れていて、けれど手元にあるタブレットを忙しなく操作しているから、たぶん仕事関連のあれこれだろう。こんな時間まで仕事をしていることに少し心配になりつつも、わたしがなにか言えるわけでもなく手持ち無沙汰にスマホを眺めていると、何気なく開いたSNSのメッセージにぶつかって、「え」と短い言葉がこぼれ落ちていった。
「どうしました?」
 その声に、啓悟くんがゆるく振り返る。わざわざ手を止めてくれた啓悟くんの手元で、タブレットの画面が少し暗さを帯びていた。「あ、いや……」なんて自然とごまかす言葉がこぼれていったのは、啓悟くんの話し方もどこか仕事と切り替わらないままのそれだったからかもしれない。くだけた言葉で話してくれることもずいぶん増えたけれど、付き合う前からの敬語がちなところは今も健在だったりはする。
 それは、ほぼ見るだけになっていたSNSのダイレクトメッセージ欄。「元気しとる?」なんて表示されていたメッセージのせいだった。その送り主はもう何年も連絡をとっていなかった元同級生で、どうやら今度地元でプチ同窓会みたいなものをやるらしいのでそのお誘い。これ自体は別になんともない話に聞こえるけれど、その送り主がそう仲が良かったわけでもない異性であることと、「あいつが会いたいんやって」とこれまた別の異性と面白おかしく引き合わされそうになっていることが、なんとも。いかにも面倒な悪ノリの気配がする。
 うーん、啓悟くん怒るかな。拗ねちゃうかな。でもちゃんと行かないよって言えば大丈夫かな。わたしは何もしていないのにどこかばつの悪い気持ちになってしまいながら、「なんか地元の友達に誘われちゃって……」とスマホの画面を啓悟くんへ向けると、ぼんやりと力の抜けていた目が一瞬見開かれるのがわかった。
「……男?」
「うん。でもなんかこういうノリって面倒だし……断ろうとは思ってるから」
 啓悟くんはふーん、と前を向いてしまって、薄暗い中で金髪が微かな明かりを跳ね返していた。そうしてまた振り返って、口角をくいっと上げる。そんなふうに一見きれいに微笑んでみせながら、「でもそれ、久々に会えるような友達も来るんでしょ?」なんて言うから、心の中がほんの少しざわついた。
「まあ……そう、だけど」
「それじゃあ、行ってきたらいいんじゃないですか」
「え……」
 間抜けな声を漏らしてぱちぱちと瞬きをくり返してしまうと、啓悟くんは「なまえちゃん、まだなんか俺に遠慮しとる?」と眉をすこし曲げて笑いかける。寝室の入り口から差し込む明かりで逆光になった表情をうまく噛みくだけないまま、どう返そうか迷っているあいだに、視線をわざとらしく外した啓悟くんはまくしたてるみたいに言葉を継いだ。
「別にそれくらい気にしませんよ。昔の友達に会うのって大事だし。会いたがってる人もいるみたいだし、帰省のタイミングとか合うんなら行った方がいいんじゃないです?」
 ね。そう締めてにこっと笑ってから、「じゃあこれだけ返信しちゃうんで」とタブレットをまた明るくして、そんな啓悟くんの翼はさっきよりも心なしか膨らんでいるような気がした。
 ……むずむず、そわそわする。落ち着かない。だって、啓悟くん。自分で気付いてるかわからないけれど、それ、他所行きの顔だよ。寂しさと諦めが入り混じったような笑いかたに、ガラス一枚隔てた先にいるような虚しさをはらんだ声。まだ遠慮してるのはどっちだろう。「嫌なことは嫌だって言ってね」と、付き合って間もない頃にした約束は守られることの方が少ないかもしれない。この家がふたりの世界だと思っているのはわたしだけなの、なんて、幼稚でロマンチックな不満があとからあとから溢れてくる。
「……先寝るね」
「え」
 次に間抜けな声を漏らすことになったのは、啓悟くんの方だった。わざとらしく背中を向けて、身体を丸めて足元の毛布をつかむ。そうして口元まで引き上げたそれにくるまりながら、「え、なまえちゃん」なんて呼んでくる啓悟くんを「おやすみ」とつっぱねるわたしの後ろで、啓悟くんの影がゆるゆると揺れているような気がした。
 彼のくだけた言葉と敬語の境目がいまいちはっきりしないのは、わたしが年上であるせいかもしれないし、仕事も含め彼が元々敬語がちな話し方ばかりするからかもしれない。だから普段は別段気にしていない。いなかったけれど、これは違う。明確に距離をとろうとされているように聞こえて、どうしようもない虚しさと寂しさが込み上げてくるのだ。ちゃんと言ってくれないんだ、って。そんなにも寂しそうな顔で、他人行儀な話し方をされてしまうと。
「……わたし」
「ん……?」
「啓悟くんのその顔、やだ」
 ほころんだ心からこぼれていった、理由と呼ぶにはいささか幼稚な言葉に、ちいさく息を呑む音がする。五秒、十秒、たぶんそれくらい置いて、さすがにわたしの言葉は横暴すぎたかもしれないとあふれる後悔に、焼けつきそうな喉で啓悟くんを呼ぼうとしけれど。「なまえちゃん」と、先に名前を呼んでくれたのは啓悟くんのほう。さっきより柔らかくて、くだけていて、わたしの好きな声だった。
「……ねえ」
「……」
「ごめんって、なまえちゃん」
 また名前を呼びながら、そうっと毛布がめくられ手が肩に触れる。探るように、でも優しい手つきで。じわりと染みこむ手のひらの温もりに、言いようのない居心地の悪さや、粗くざらついた感情がみるみるうちに溶けていってしまうような心地がした。
 ゆっくり、振り返る。顔を上げた先、わたしを追いかけて覗き込むようにしている啓悟くんは、さっきの嘘っぽい微笑みとは真逆の方向に口を曲げていた。まさにへの字、そう言っても差し支えないぐらいに。
「……わたしも、ごめん」
「や、謝らんでよ……」
 そう言ってうなだれるように啓悟くんは頭をかいて、「あー……」なんて低い声の混ざったため息を吐き出している。そうして、視線がかち合って。
「嘘言った」
「……うん」
 もぞもぞ、毛布をめくった場所に滑り込むみたいに入ってきた彼との視線はほどけて、代わりにぬくもりがくっついた。抱きとめるみたいにお腹のあたりに腕をまわされて、背中にぴったりと感じる体温が熱くって。腕にそっと手を添えると首筋にゆるく顔を埋められて、すこしぱさついた髪がくすぐったくて、かかる吐息に背筋が震えている。
「……やっぱり、行かんで」
 ぎゅっ、と心臓が縮んでしまうような心地がした。わたしを抱きすくめる腕に力がこもって、彼がほんとうに小さなその声をこぼしたとき、きっとその唇は尖っているんだろうな、なんてとっさに思ってしまう。わたしの好きな顔。きっと啓悟くんはそんな顔をしたくなくて、見せたくないはずで、けれどわたしは見ていたい、とびきり素直な表情にちがいない。
 でもこのままでは振り返れはしないから、「うん」と返事をしながら、耳元からやわく沁み込むその声をただひたすらに受け止める。「ごめん、ちょっと妬いた」とつぶやいて、「や、結構妬いた」と重なる言葉に、たまらなく愛おしくなって唇を噛んだ。「かっこ悪いこと言うてごめん」なんて拗ねたような声色には、抱きすくめられたまま微かに首を横に振る。
「啓悟くん」
「……ん?」
「かっこわるくない」
「……」
「ちゃんと……言ってくれる方が、うれしい」
 わたしの言葉を受け止めた啓悟くんは唸るみたいな声をこぼして、少し間を置いてから「じゃあさ……」とまた口を開いた。躊躇いをはらんでいるけれど、あまく緩んでいるような気もするその声色は、つい数分前の堅いそれとはまるで別物だ。わたしの方まであっけなく心を蕩かされてしまいそうだった。
「……さっきの、その、元彼とか?」
「ちがう。ぜんぜん違う」
「会いたがっとるんは……」
「その人も違うよ。顔も覚えてないもん」
 安心させたい一心できっぱりと答えた途端、ふは、と啓悟くんが吹き出す声がした。「なまえちゃん薄情」と笑い混じりに言うから、回されたままの腕を軽くつねって、それから。「だって啓悟くんのことしか見えてないもん」なんて、顔を隠せるのをいいことに言ってやった。言ったそばから顔に熱が集まってきて、けれどわたしの後ろで息を詰まらせている啓悟くんもそれはお互いさまなんだろう。滲み出てくる照れくささと愛おしさを握りしめながら、ついさっきの啓悟くんの、寂しさも諦めも虚しさも霧散したようなその笑いかたにわたしは密かに安心もしていた。
「だから今のうちに断るね」
 甘い雰囲気に思う存分身を浸すのは、ぜんぶ方をつけてからがよくて。だからちょっと上擦った声でそう言って、うん、と低く響く返事を受け止めながら、転がったスマホに手を伸ばして返事を済ませてしまうことにする。
 ──それなのに。「タイミング合うかわからないし、彼氏が気にするからごめんね」と、そんなようなことを打ち込んだのに、一分と経たずに即来てしまった返信は「めちゃくちゃ会いたがってんのに!」なんて、これまた面倒なものだった。……ええ、どうしよう。どうせその場のノリみたいなあれだろうしこれ以上巻き込まないでほしいなあ、と口を曲げていると、耳元で聞こえた微かなため息。真後ろにいた啓悟くんは堂々とその返信を見てしまっていたらしく、まあわたしだって断っているところを見てもらおうとしていたのだから当然といえばそうなのだけど、あまり気分は良くならないであろうものを見せてしまって申し訳なくなってきてしまう。
 ごめんね、と言いかけたところですっと伸びてきた手にスマホが取り上げられて、言葉を詰まらせると画面が暗くなって伏せられて。そしてそれ以上なにか言う前に、ぐいと腕を引っぱられて、今度は前から啓悟くんの胸に引き寄せられていた。目まぐるしくまわる景色に、啓悟くんの腕のなかで息を吸うことしかできなくて。
「……俺が」
 柔らかくしずかに響く声に、すこし速い鼓動が重なった。
「俺ん方がいつも、なまえちゃんに会いたがっとうし」
 拗ねたような声は低く掠れて、どきん、心臓がおおきく跳ね上がる。「う、うん」なんて所在なくこぼれた声を捕まえるみたいに、あっという間に顎を掬われ、気づいたときにはもう唇が重なっていた。
 そのぬくもりから伝わるまっすぐな愛が、どうしようもなく嬉しかった。けれど見え隠れする寂しさと焦りが、愛おしいのに泣きたくなる。嫉妬、されること自体が嫌なんじゃない。だって愛されているってわかるから。けれど啓悟くんの心が揺れてぐらついてしまうなら、そんなものは必要ないと思う。不純物だ。夜に溶けあい混ざりあうわたしたちにとっての。今この瞬間、一緒にかたちづくったふたりだけの世界に、あなたがいて、わたしがいて、きっとそれだけで充分に違いない。



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