渇きにふれた指先



 ヒーローへの道はやさしくない。いくら強気でがんばっていたって、壁にぶち当たって、じょうずに乗り越えられなくて、前を向いていられない日だってある。今日がまさに、そう。
 放課後に設けられた自主練の時間を抜けて、ひとりでふらふら訪れた校舎の隅、人の気配のない場所。そこで抱えきれないやるせなさを涙にして、なんとか流して吐き出して、ひととおり泣いてしまったあと、雑に目元を拭って教室に戻ろうとした──そのときだった。


「ば、くごう」


 まさか誰かに会うことなんてないだろう、そう思っていた矢先。そこには同じクラスの爆豪がいて、ばったりと鉢合わせてしまった。かわいた声を出した私に、爆豪も立ち止まった。


「てめ、……」


 爆豪はなにか言いかけて、止まる。……残ったかすかな涙とか、こすったせいで赤くなった目元とか、きっとそんなものから察してしまったのだろう。眉間のしわが深くなるのが見えて、押し黙った爆豪が唇を引き結ぶ。
 いつもみたいに怒鳴るなり、無視するなりしてくれればいいのに。そんな失礼なことを思いながらも、奇妙な沈黙にいたたまれなくなって、ごまかすみたいに思いきり息を吸い込んだ。


「な……泣いてないからね」


 自棄になってそんなことばを吐き出すと、少しだけ身体をびくつかせた爆豪が「わーっとるわ!」なんて言い返してくる。
 とっさに出たことばはよくよく考えなくても馬鹿げていて、こんな情けない状況にうんざりする。……ああもう、爆豪には見られたくなかったな。とくべつ仲がいいわけでもなく、ただのクラスメイトに過ぎないけれど、なんだろう──人一倍努力している彼には、強がっている自分のこんなところに気付かれたくない気持ちがあった。みんなが頑張っているあいだに、ひとり隅っこで後ろを向いて泣いている自分。その弱さと向き合わされているような、そんな居心地の悪さを勝手に感じていた。

 どうすることもできずに俯くと、ひとつ、ふたつ、足音がする。爆豪がどこかに行ってくれるのかも、そう一瞬だけ思ったけれど、近づいてくる音にそれが思い違いだったとすぐに気付いた。そうして視界に爆豪の上靴が入ってきて、それから、爽やかな色のラベルが巻かれたペットボトルが映る。


「やる」


 それは真新しいスポーツドリンクのペットボトルだった。ほんの少し汗をかいたそれに、爆豪は飲み物を買いに出てきていたのかも、と頭の端で考える。そうしている間に、ずい、とまた差し出されてしまったけれど、素直に受け取ってしまう気にはなれなかった。


「……いいよ、爆豪のじゃん」
「ちげーわ」
「え、ちがうの?」


 即座に否定されて、ついすこし大きな声が出た。顔を上げると「ちがくねーわ」と苛立った顔で言う爆豪がいて、意味がわからず瞬きを繰りかえしてしまう。


「え、え?」
「いーから受け取れやカス」
「か、カスはひどい」
「うるっせえ」


 ええ……と戸惑いつつもおずおず手を差し出すと、押し付けるようにペットボトルが置かれてしまう。ほんのり濡れた冷たさにはっとして、どこか、張り詰めた糸がゆるむような心地がした。


「……あ、ありがとう……?」
「拭いとけよ」


 お礼の後にすぐ返ってきたことばにまた首を傾げると、「顔面」と爆豪はみじかく言う。「なんか、濡れとんぞ」と頭をかきながら言われてしまって、そのもたついた様子やたどたどしい口調がめずらしくて──つい、笑みがこぼれた。


「ふ、ふふ」
「ア?」
「ばくごう、焦りすぎだよ」


 いちどこぼれたそれはおさまらず、言われたとおりに頬に残った水滴をぬぐいながら笑うと、「テメェ」と爆豪が顔をしかめる。いつも横から見てビクビクしていただけの、爆豪の怒った顔。普段の私なら慌てて謝り倒すところかもしれないけれど、なんだか今は怖くもなんともなかった。


「えっと……ごめん、心配してくれてありがとう」
「しとらんわ」
「そっか、……でも、ありがとう」


 フン、と鼻を鳴らした爆豪は背中を向けて、だるそうに歩いていってしまう。それはいつも通りだったけれど、なんだかいつも通りには見えなかった。手の中のひんやりとした感触をにぎりしめながら、ゆっくり一歩踏み出してみる。爆豪勝己というひとを見つめることができたような、彼の目指すヒーローのかたちをほんの一片だけ知ることができたような──そんなふしぎな充足感が、すこしずつ晴れはじめた胸のなかを満たしていた。



20220307
 



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