ひりつく結晶を
喰らってしまいたい


「あ、噂をすれば」


 まだ開店前、あちこちの照明が落とされたままの薄暗い店内に入ると、すでにバイト着を身につけたみょうじ先輩がいた。それから、その向かい側には宇髄さん。
 ……なんだよ噂をすればって。ぼんやり聴こえていたから、二人が話していることはわかっていたけれど、この二人にされる噂ってのは多分ロクなもんじゃない。「宇髄さんに聞いたよ、我妻くんイブに働くのが嫌で、ゴネ倒してたんだってね」……ほらみろ。


「ゴネ…………先輩こそ、どうなんですか」
「私は大人しく入ったもん。往生際よく」
「それ威張るとこじゃねえよ」


 どくどく、鼓膜を叩くのは自分の心臓の音だ。人よりいい耳を持って生まれてしまった俺は、心音や血の巡る音、耳を澄ませばあらゆる人間の“音”を聴くことができる、そんな特技を持っていた。そうは言っても、なかなか活かせないけれど。


「先輩にそんな態度取らないの」
「入った時期、一週間も変わらんだろ」
「我妻くん、私は年齢の話をしています」


 おどけてそう言ってみせるみょうじ先輩の心音はいつだって普通で、何を考えているのかよくわからない。ここで少しでもこの耳を役立てることができれば、思い切って突っ込んだり、もしくは諦めたり――そう簡単に諦められるかは別として――手段をさがすことができるかもしれないのに。

 まあ、そもそも。音から感情を読み取るのは存外難しくて、特に好意なんかはその最たるものだと思う。そんな感情を向けてくれる、いわゆる恋人という存在を持ったことがないからかもしれないけど。ってうるせえよ。
 なんでも、今目の前にいる宇髄さんも人より耳が良いらしいけれど、せいぜい声がよく聴こえるくらいだと言っていた。そしてこの人は、声の抑揚なんかで感情の機微がわかるんだと。俺くらいよく聴こえて活かせないのは宝の持ち腐れだと、そう言われたこともある。うるせえよ。

 先輩に「着替えに行かないの?」と声をかけられて、「呼び止めたの先輩じゃん」なんてこれまたひねくれた返事をしてしまって。情けなさやらなんやらで、眉間に皺が寄った。



・・・



 ――お前らふたり、駅前の派手なイルミネーションでも見て帰ったらどうだ?
 そんな宇髄さんの一声がきっかけだった。そこから流されるみたいに話は進み、片付けもあるだろうに普段より1時間早く上がらされて、俺は店の入り口で先輩を待っていた。いや、いやいや、なんでこんなことに。

 クリスマスイブは伊達じゃなかった。何を話せばとか、明日の話になっちゃったらどうしようだとか、そんなしょうもない心配事なんか全部吹っ飛ぶくらい、お店が忙しかった。……だから少し、安心していた、のに。宇髄さんからしてた音は、あれだ。俺でもわかる。面白がってたぞ絶対。


「……お待たせ、我妻くん」


 びくり、肩が跳ねた。かっこわりい。呆けていて音にも気が付かなかった。


「や、別に、待ってない、けど」


 なんだこれ、デートみたいな返事してんじゃねえよ俺。いや、そもそも。お待たせなんて、デートみたいに登場するみょうじ先輩が悪いだろ。心の中で早口でまくしたてていると、先輩は「そっか」なんて柔らかく笑う。ああもう。


「じゃあ……行く?」


 とくん、かわいらしく脈を打つのは、みょうじ先輩の心音だ。どうしてだかそれはほんの少し俺を素直にしてくれて、控えめにひとつ頷くことができた。

 またとないチャンスに浮き立つ正直者。素直になるのが小っ恥ずかしくて、舌を出すひねくれ者。ふたりっきりが怖い臆病者。いろんな俺が俺の中で喧嘩して、ポケットに手を突っ込んで猫背になることぐらいしか、できない。


「っわぁ、さむー!」


 一歩外に出ると、肌に突き刺さるみたいな冷気。けれど隣で大袈裟なくらいに寒がるから、いくらか落ち着いてそれを受け止められたりなんかして。気付くと「そんなもこもこの服なのに?」なんて、安定の憎まれ口が飛び出してきた。俺のバカ。


「仕方ないでしょ、寒がりなんだよ」
「……そうかよ」


 みょうじ先輩の私服姿を見るのはきっと、これが初めてじゃなかった、と思う。けれど、久しぶりなのは確かだ。黒を基調としたタイトなバイトの制服とは正反対の、白くてふわふわもこもこした、温かそうで女の子らしい装い。……かわいいな、なんて。そう思ったのに、どうしたってそれを声にする方法がわからなかった。

 すこし歩くと、だんだんと街がきらめき始める。もうかなり遅い時間なのに、あちこち彩られて飾られて、その光は視界の中でぼやけて溶けてゆく。
 ふたりとも、しばらく黙りこくったままだ。みょうじ先輩は一体、どんな気持ちでこの景色をながめているのだろうか。いつもより、ほんの少し心音が速く聴こえるような、いや気のせいかもしれない。ポケットの中で、きつく拳を握りしめた。


「……あした」


 存外、店から駅までは近い。もう着いてしまうというところで、やっと声を絞り出す。「ん?」と首を傾げるみょうじ先輩に、「あした、予定あるんですか」なんて、そんなことを訊いてしまったのはきっと、俺もクリスマスに浮かされているからだ。絶対そう。


「……ないよ」


 誰とも予定合わなかったけど、見栄張って休んだ! そう笑ってみせるみょうじ先輩を見て、わかりやすく肩の力が抜けてしまった。そんな俺を見たのか、みょうじ先輩は足を止める。つられて、俺も立ち止まってしまう。


「……ついでに。彼氏も、いないよ」






- ナノ -