ほころびの導く場所


 あの戦闘訓練から二日が経った。昨日は座学だけだったとはいえ、学級委員を決めたり侵入者の警報──結局マスコミだったのだけど──が鳴ってしまったりして、入学して間も無いのに本当に濃い日々が続いていて。そして今日はまた、ヒーロー基礎学の時間がある。
 今日は基本に立ち返って、戦闘というよりは基礎訓練をするらしい。二度目のヒーローコスチュームの着心地をたしかめながら、大きく深呼吸した。
 メモ、しておこうか、迷ったりはした。みんなの名前や個性なんかを、忘れてもいいように書き留めておこうかと。けれどそれに頼ってしまっては意味がないかもしれないと、自分を追い込むつもりで、記憶だけを頼りに臨むことを決意したのだ。
「風花ちゃん、なんか気合入っとるね!」
「あっ、えっ、そうかな」
 横からお茶子ちゃんに話しかけられて、そんなに気張っていただろうかと少し恥ずかしくなったけれど。たしかに気合は入っているかもしれない。


◇ ◇ ◇



 ヒーロー基礎学演習のあとに授業があるというのは、ちょっと時間割のミスなんじゃないだろうか。疲れがのし掛かる身体に英語はなかなか吸収されてこないし、反省点が頭を埋め尽くしてくることだってあるし。現にいま私も、目を擦りながら静かに演習のことを思い返していた。
 今日は昨日と違ってもう少し簡易的な、ロボット類を使っての演習だった。だからみんなにしっかり個性を使う時間があって、私も例外なく使ってきた、わけだけど。案の定わずかながら記憶にブレが生じて、すこし怪訝な目を向けられてしまうことになったりした。
 解決策なんかも、まだまだ手がかりも見つかりそうにない。焦る気持ち、逸る気持ち。まだ入学して一週間経っていないんだから……そう自分を落ち着かせようとするけれど、いつ気付かれてしまうかと思うと、どうにも抑えきれない気持ちだった。

「灰咲」
「っあ、はい」
 すっかり自分の世界に入りかけていたところで、名前を呼ばれて引き戻された。……そうだ、授業中だ。意識、飛びかけてた。顔を上げた先にいたのは、後ろに身体を傾けた前の席の人。
 鮮やかな色だった。あ、きれい、そう思ってすぐに、「前後でペアだそうだ」とその人は表情を変えずに言う。ひらりと手渡された、おそらく前から回ってきたであろうプリントを見ると、英語を使ってペア相手を紹介する……そんな授業らしかった。好きな食べ物やらいろんな欄があって、なるほど、訊いた上で英作文するような感じかな。
 ひやり、背筋がすこし冷たくなる。
 たぶん、この人と私は話したことがあるはずだ。向こうは私の名前を知っているし、席だって前後で。それなのに、私はきっと忘れてしまった。……名前がわからないことには、この趣旨の授業に参加できない。どうしよう。

「風花、遊んでもすぐわすれちゃうじゃん」
 そんなことを言われたのは、たしか小学校高学年のころ。いつも仲良くしていた……と、思う……女の子たちに囲まれて、きつい視線を向けられて。私がどんな風に答えたのか、どんな顔をしていたか、それはもうわからない。けれど彼女たちは、私の頭の中で続けるのだ。
「何回言っても名前おぼえてくれないし」
 その子の、言う通りだった。この出来事までは、私はよく見せびらかすように個性を使っていて……みんながきれいだと褒めてくれていたのもあって、大人に咎められてもやめなかったのだと、薄ぼんやりした記憶を頼りに思う。だから、繰り返し同じことを訊くのを嫌がられているとは少しも思っていなかったはずで。
 ……きっと当時も、そして今も、もうその子たちの名前はわからない。顔も忘れてしまった。けれどどれだけ個性を使っても、この日の言葉と、落とし穴に嵌るような失意は忘れられないままにこびり付いて、私を後悔させる。だから、はやくなんとかしたかったのに。

「……どうした?」
「や、えっと、」
 顔を覗き込まれて、思わず椅子ごと後ずさってしまった。ぎぎ、と耳障りな音が響く。どうしよう、どうするのがいいんだろう。不自然に心臓が跳ねて、手先がつめたくなる。
 でも。……ここで迷惑をかける方が、きっといけないよね。出てしまった結論に唇を噛んでから、依然不思議そうにしているそのひとに、ごくごく小さな声で語りかけた。
「……ごめんなさい、お名前、教えてくれませんか」
 目が見開かれて、翳っていたそこにさっと光がさしこんだ。髪とおなじに、左右で色の違う瞳だった。小さく息を呑むと、「轟焦凍」と。簡潔に返ってきたそれが名前だと、頭が読み込むまで数秒かかった。
「と、とどろきくん」
「ああ」
「……ありがとう、ごめんね」
 何が? と言いたげな顔で首を傾げられてしまって、あれ、もしかして、初めまして……だっただろうか。
 ……いや、違う。知っている。冷たくみえる視線の奥を、私は見たことがある。それなのに轟くんは、私に名前を訊かれて……忘れられて、嫌じゃなかったのかな。
 尋ねたかったけれどそもそも今は授業中で、まずは目の前のプリントを埋めていかないといけない。そのうえ先生が近づくタイムアップを知らせてくるから、それどころではなくなってしまった。 

 ……このままにしておけばいいのかもしれない。だって轟くんは、忘れていたことに気付いていないかもしれないから。私が何も言わなければ、何事もなかったように過ぎ去っていくのだろうと思う。
 けれど、引っかかってしまう。どうしても。きちんと謝った方がいいんじゃないかとか、本当にここで逃げていいのか、とか……。
 だから放課後、ひとことふたことでも話せたら、そう思っていたのに気付いたら轟くんは消えていた。慌てて昇降口まで走ると、もう靴もない。か、帰るのが、早い。でもまだそう時間も経っていないし、駅までなら追いつくだろうか。電車通学だと頭の中で勝手に決めつけてしまいながら、ローファーをつっかけて学校を飛び出した。

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