エンドレス・サマー




高校生活最後の夏だった。それはつまるところ、こどもでいることを許された最後の夏だった。蝉の声にせっつかれて、眩しい陽射しに溶かされそうになる私たちは、まるで夏の魔法にかかったみたいに、一足先に、こどもでいられる夏を捨てた。



・・・



明くる朝、新学期が始まった。夏の終わりとは言うけれど、それは果たして一体何を指すのだろうか。夏休みが終わっても八月が終わっても、蝉は鳴き止まなければ陽射しもゆるむ兆しはない。
制服の襟元をばたつかせながら教室のドアをくぐると、ほかの誰より目を引く銀色が視界に飛び込んでくる。それはいつものことであって、けれどいつもと同じではなかった。

私たちは昨日、身体を重ねた。付き合って3ヶ月、高校三年生、一人暮らしの部屋にふたりきり。これだけの条件がそろって何も起こりはしないなんてこと、ない方が珍しい。
熱いくちびるの感触も、未知への恐怖も、すべてを差し出す背徳感も、いまだに少し思い出すだけで心臓が暴れまわるぐらいには、よく覚えている。


「おはよ、隼人」
「……おー」


早鐘のように打つ心臓をなんとか抑えながら、挨拶をひとつ。普段なら目を合わせてくれるのに、隼人は振り返りもしなかった。
……もし、これが。日常の中の一コマならば、私はきっとなんとも思わなかっただろう。隼人が無愛想なのはいつものことで、それだって好きなところのうちの一つなのだから。

けれど私たちは今日、非日常の中にいた。はじめてを分け合った翌日だった。


ひと夏の恋という言葉がある。夏のうちに終わるような、はかなく脆い恋愛のことをいうらしい。
休み時間も私たちの視線は交わらず、会話は私から投げかけるばかりで弾まない。昼休み、私たちはいつも昼食を共にするのに、今日の隼人は財布とスマホを持って足早に教室を出て行った。
とうとう彼が戻ることなくチャイムが鳴った途端、そんな言葉が頭を過ぎったのだ。ドラマや漫画でしか見たことのない言葉が。

きっとそうだ。夏に酔わされた。陽射しに惑わされた。それ以上でもそれ以下でもなかったのだと結論付けたとき、私は教室を飛び出していた。


「な、おい、なまえ……!?」


文字通り鉄砲玉のように飛び出してしまうと、運悪く、と言うべきだろうか、教室前の廊下で隼人と肩がぶつかった。驚いたような声を受け流して、そのまま人のごった返す階段を駆け下りた。

いいんだ。夕刻、暗がりに沈む中できらめく翡翠色のことも、冷房のきいた部屋で感じた汗ばんだ温もりも、一瞬はほんものの輝きを携えていた愛の言葉たちも、きっと私が覚えていられたらいい。
紛れもなく私は隼人が好きで、それだけでいい。それだけでいいから、夏のせいでいいから、どうかまだ終わらないで。私たちを終わらせないで。




・・・




西陽が差し込む。先生がカーテンを閉め忘れてしまったのだろうか。目に突き刺さる陽射しを、手をかざしてかわしながら、今は何時だろうとぼんやり考えた。

あのまま保健室に駆け込んだ私は、「休ませてください」と息も絶え絶えに告げて、許可を取る間も無くベッドに飛び込んだ。我ながら最悪の所業だけれど、そうするほかなかったのだと言い訳がしたい。

半分くらい目を覆いながら、ゆっくり開いていく。野球部の声がして、遠くから吹奏楽部の楽器の音がする。チューニングだろうか、薄く聴こえる不協和音にこっそり顔をしかめた。
慣れてきた目が、オレンジ色に人型の穴があいているのをとらえる。「あ」声が漏れた時には遅かった。窓の外を眺めて佇んでいたその影が、ゆるゆると形を崩していく。


「……よぉ」
「なん…で、いるの」
「…悪ぃ」


どくどく、心臓が嫌な風に震えて、私は飛び起きた。
これは、時間がいけない。だって私たちは、昨日の丁度これくらいの時間にキスをして、すべてをはじめたのだから。24時間でこんなふうになってしまうだなんて、予想だにしなかった。


「送る、から、動けそうなら言えよ」
「……いらない」
「…何で」
「わかってるくせに訊かないで」


冷たく叩きつけてしまった声に、隼人が小さく息を呑んだのが分かった。こころが痛い。
でもここであっけからんと笑って見せるような強さは、あいにく持ち合わせてはいない。胸元の重みに耐えかねて俯くと、夕陽をさえぎる人影が落ちた。


「なまえ」


ベッドが軋む。隼人の香りがする。煙草と、最近気に入りの香水のベルガモットの匂い。手を包むように柔く握るその熱さまで、すべて昨日と一緒で。きっと場違いな甘いときめきに襲われて、視界が潤んだ。


「……こっち、向けよ」
「やだ」
「いいから」


可愛くない抗議を生み出そうとした声帯が、震えて止まる。頬をすっぽり包んでしまうように両手が添えられて、首の骨がちいさく音を立てた。


「悪かった。俺が悪かったから、」


そこで、はじめて気付いた。まるっきり、昨日と変わりがないことに。

きらめく瞳は熱をはらんで、冷えた部屋にはそぐわない体温が伝わる。紅潮した頬も、殆ど夕陽が沈んだいまでは言い訳の余地を残されていない。そして、「すきだ」と、空調に掻き消されそうに囁かれたその言葉に、ひとかけらの嘘もなかった。


「……じゃ、あ、なんで」
「…言わせんじゃねぇよ、俺が悪かった、から…」


ひやりと、晒された頬が冷房の風を受け止める。項垂れてしまった隼人の銀色の髪が垂れ落ちて、紅くなった耳を露わにした。

ばか。ばかだよ。とんでもなくばか。
安堵からこぼれだしそうになる涙を呑み込んで、しびれる喉の奥に酸素を送り込んでから、思い切り息を吐き出した。


「……きす、してくれたら…許す、かもしれない」
「かもしれないって、何だよ……」
「だって酷いよ、いくら、照れてたとはいえ……」
「ば、おまえ、言うなよ、てれ…てた、って」


あわてた声を出す隼人に、つい笑いがこぼれた。笑いだと思った。
乾いた笑い声と一緒に涙が落ちて、あふれて、止まらなかった。


夕陽はそのすべてが沈み、残照をうつす薄明るい保健室にはふたりきり。骨張った指が、次から次へと流れゆく涙を拭ってくれた。

その手はやがて、すこし乱れた髪を梳きはじめて。シーツが擦れる音がして、ふたりの距離が詰まる。不安が消えていく。これでもかという程の愛しさを思い出す。


そう、だからこれは。

「だいすき」
「……ああ、俺も」

夏のせい、なんかじゃない。




20200831
#復活夢版深夜の真剣創作60分一本勝負
お題「夏のせい」




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