翠玉と唇の赤




「唇、どうしたの」


教室の窓から差し込む、あわい夕陽を受けてきらめく銀髪。透きとおる翠玉のような瞳に、柔らかくゆれる長い睫毛。羨ましくなるほどのうつくしさを備えているのに、勿体ないことに眉間には深い皺が刻まれている。そして唇はすこしかさついている上に、薄く赤い線がひとつ割り込んでいた。
教室にふたり、友人のよしみで隼人に勉強を教えてもらっている放課後。その小さな小さな傷がどうしても気になって問い掛けると、皺がさらに深くなってしまった。


「…あ?知らねえ」


ぶっきらぼうにそう言ってから、隼人はその唇をぺろりと舐めてしまった。「あ、それだよ」と咄嗟に口を出すと、隼人はぴくりと眉を上げる。


「何が」
「唇ね。舐めると荒れちゃうらしいよ」
「そうかよ」
「もー、ひとが親切に教えてやってんのに」
「いいから解けって、進まねぇよ勉強が」


かちゃり、シャーペンが小さな音を立てて、隼人の指の上で回る。それを数回転分見つめてから、ノートに視線を落とした。
でも、やっぱり気になってしまう。顔の向きは俯きがちなまま、ときどきその唇を盗み見る。著名な画家が描いたような整ったかたちに、つい見惚れそうになってしまう、けれど。これが艶めいて滑らかだったならもっと良かっただろうなと、そう考えることをやめられない。
ぺろり。またその赤い舌が、隼人の口元を拐う。不自然に心臓がうごめいて、なんだか悪いことをしているような気になって目を泳がせた。


「何見てんだ」
「…気になる。隼人の唇が」
「変…なこと、言ってんじゃねーよ」


さっと隼人の頬に赤みが差すから、私までつられて顔に体温をあつめてしまう。「いーから集中しろ」とシャーペンでノートを指し示されて、こくこく頷いて数学の世界にかじりついた。
ああもう、なんなの。なんで赤くなったりしてんの、隼人のやつ。些細な仕草にすら心臓が跳ね回ってしまうのは、隼人が綺麗な顔をしているせいで。私がその、そんな風に見ていなくたって、これは致し方ないことだと思う。

まるで集中できやしないので、「ちょっと休憩」と申告してからポケットに手を突っ込む。「おい」なんて声を無視しながら携帯を探していると、プラスチックの感触が指先にあたった。そうだ私、リップクリーム持ってたんだった。早いこと唇を治してもらって心の平穏を保とうと、焦燥感に押し上げられて突拍子もない提案が現れてしまう。


「隼人、これ使う?私の使いかけだけど」
「っ……ばか、つかわねーよ」


そう、突拍子もなかった。とんでもなかった。さっきよりも赤くなった隼人と、私の手のひらから転がり落ちるリップクリーム。私、なに、言ってんの。こんなの、間接キス、じゃん。
しばらく隼人は私から目を逸らさなかったし、私も目が離せなかったし、動かなかった。そうして絡み合った視線は、だんだんと甘い熱を帯びていく。


「…ごめん」


無理やりそれを解いたのは、私だった。どくどくと鼓膜のすぐ近くまで響いてくる心音に、視界がまわる。ちがう、私たち、そんなんじゃないのに。
床を頼りなく転がるリップクリームを拾うために、屈もうとしたとき。はじめて触れる熱さが、私の手首を包み込んだ。


「……こんだけ煽って、そんなつもりなかったなんて言わせねぇぞ」


隼人が座っていたはずの椅子が倒れて、大きな音を響かせた。視界が影に呑まれて暗くしずむ。鼻をかすめたのは、こころを揺らす煙草の匂い。

二回目に触れた熱さは、手のひらなんかじゃなかった。たったの、一瞬だった。1秒にも満たなかったのかもしれない。それでも、かさつきなんか少しも感じさせない柔らかさと、しっとりと染み込む体温は、まだここに残っている。もしかすると私の唇はもう、溶け落ちてしまったのかもしれない。

瞼を下ろす寸前にきらめいたエメラルドが、瞳の奥に焼き付いている。


20200803
#復活夢版深夜の真剣創作60分一本勝負
お題「唇」




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