淡く染まった昼下がり


「あれ……一色さん?」
 管轄の警察署で用事を済ませたその帰り道、時間空いたしコーヒーでも買って帰ろうかな、なんて思いながら職場に戻る途中、おもむろに呼ばれた名前。オレはつい、思いっきり固まってしまった。聞き覚えのあるその声に、なにか考えるより先に鼓動が激しくなってゆく。そうしてゆっくり振り返ったその先、「やっぱり。一色さんだ」なんて声が明るくなって、こんな街中でまさかとは思ったけれど、やはり思った通りの人がそこには立っていた。
「あっ……えっ、と、小鳩さん」
「こんにちは」
 ……あれ、なんか、いつもと雰囲気が違うような気が。ふわふわしてるっていうか……かわいらしい、っていうか。ぼんやりそう考えてから、そっか、服装が違うんだ、って気がついた。髪も下ろしていて、結んでいるところしか見たことなかったけれど似合うなあ、なんて。すると心なしか照れくさそうに小鳩さんは笑ってみせて、それから「ありがとうございます」なんて言った。
「え、なにが」
「髪、お休みの日は下ろしてるんです。変だと思われなくてよかった」
「っえ、へ、変とか思うわけないよ! ……って、いうか……」
 まさか声に出てたのかな……。肩を落とすオレに、小鳩さんは「ちょっとだけ」って目を細めるから、こりゃぜんぶ言っちゃってたなと小さくため息をついた。とても良くない。今回は内容はまだマシだったけど、やってること自体は格好がつかないにもほどがある。仕切り直すみたいに咳払いをして、「今日は定休日だっけ」と尋ねてみると、彼女はふんわりと頷いた。
「なのでお出かけしてて、買い物が一段落ついたところなんです。一色さんは……お仕事中ですよね」
「まあ、うん……そうだね、でもオレもちょっと休憩中ってとこ」
 コーヒーでも買って職場に戻るつもりでさ。そう付け足してから、「よかったら一緒にどうかな」って、そんな言葉がごく自然に口から滑り出していった。
「えっ」
「あっ、いや」
 面食らったような顔になった小鳩さんに、しまった、と冷や汗をかいた。――この間、オレの情けなさをバラしてしまって、けれど少し距離が縮まったような気もしたあの日から。お店に顔を出しに行ったこともあったけれど、なんだかずっと格好をつける必要もないと思うと変に気が抜けてしまっているような気がする。
 こうやって突然誘ってしまったのも、たぶんそのせいだ。うん、そう、たぶんそう。慌てて取り消そうとまた口を開いたけれど、それよりも先に、「一色さんがいいなら」って。小鳩さんがゆるく笑うから、出て行きそうだった声ごと空気を喉の奥に引っ込めた。
「……いっ、いいの?」
「一色さんが誘ってくれたんですよ」
「それは……確かに」
 つい頭をかいてしまうと、小鳩さんは「どこ行くか決めてるんですか?」って首を傾げるから、あっほんとに今から小鳩さんと出かけるんだ、なんて変に実感が湧いてきて。いや出かけるってほどのことじゃないんだけどさ。
「いや……普通にチェーンのとこかなと思ってたんだけど」
「あっ、それじゃ、ちょうど近くに行ってみたいカフェがあるんです」
 小さく挙手をするように言ってみせるその仕草がかわいくて、「じゃあそこにしよっか」ってオレもつい頬を緩めていた。
 
 そうしてちょっと浮かれた調子で歩いていたのも束の間、小鳩さんのこぼす話には、オレですら気がついてしまう気になるポイントが散りばめられていた。
 新メニューの黒糖ラテがおいしいって聞いたんです。最近事件があったけど、お店に問題はないってことで大事に至らず営業できてるみたいなんですよ。……うーん、まさかな。まさかね。知り合って二年ほど、同じ街にいながらも会うことがなかったオレ達がばったり会っている時点で充分すぎるくらいの偶然だと思うんだけど、時間が合って出かけられることになって、その向かう先が例のカフェであるなんて偶然が、まさかあるわけが……。
「おや、トト」
「あった〜…………」
 少し前にも見た「POT COFFEE」のロゴ。ドアを開けると出迎えてくれるモサモサの店員。ロン、と言いかけた声を飲み込んで、「茶作さんだっけ……」とこぼれた声には諦めにも似た何かが滲んでしまった気がする。やあ、と呑気に手を上げてみせたロンの視線は、すっとオレの後ろの方へ滑っていった。
「そちらは……こばと屋のお嬢さんか。来てくれたんだね」
「はい。こんにちは鴨休さん」
「……え? えっ」
 え、推理? なんでわかったんだよ、そう言いかけたけれど、「この間こばと屋にお邪魔したからね。この店を勧めたのも僕さ」とロンはなんでもなさそうに言う。なんだ、こないだちょっと安心したのにもう会ってたのかよ。
 すると小鳩さんも驚いたのか、オレたちを何度か見比べてから「お知り合いですか?」って、目をぱちくりさせている。
「まあね。彼とは黒蜜を酌み交わした仲なんだ」
「飲んでたのお前だけ!」
「水臭いなトト。黒蜜に酔って夜通し話し込んだ仲じゃないか」
「身に覚えがなさすぎる……」
 がっくり項垂れてしまいながら、ふと頭をよぎったのはこの間のこと。そういえばこいつ、チコリちゃんと来た時デートだとかなんとか言ってきたな……。あのときは本当に仕事だったからなんとも思わなかったものの、今は別にそういうわけでもないし、つっつかれたらなんて答えたらいいのやらさっぱりわからない。慌てる自分の姿まではっきり目に浮かんでしまう。人のこと言えないかもしれないけど、こいつ本当にデリカシーないし。
 必死に口を閉じるよう意識しながら、何も言ってくれるなと祈っていれば、「ところで二人は……」と言いかけたロンが言葉を切るから、心臓がうるさくて仕方なかった。……けれど。
「……なるほど。休憩中といったところかな。ゆっくりしていくといい」
「えっ……あ、ああ」
「ありがとうございます」
 拍子抜け、まさにそんな感じだった。小鳩さんはロンにお礼を言って、それからメニューを覗きこむ。そんな彼女の横からちらりとロンを見遣ると、目こそ見えないもののほんのり口角を上げていて、もしかしなくてもロンって、そういうところに気を遣えるタイプだったのか……。
「意外だなあ……」
 そう小さくこぼしてしまうと、顔を上げた小鳩さんが小さく首を傾げる。「あ、いや、こっちの話」と上擦った声でごまかすと、「僕だって野暮なことはしないさ」なんてロンが肩をすくめてみせるから、ついじっとりとした視線を向けてしまった。
「さて、ご注文はお決まりかい?」
「えーっと、まだちょっと迷ってまして……」
「それなら! 僕オススメのスペシャルな黒蜜をハートのストローでご提供しよう。もちろん二人用のね」
「思いっきり野暮!」 
 やっぱり本当にこいつ、何言い出すかわかんないな。早いこと注文を済ませてしまおうと焦るオレの横で、小鳩さんが楽しそうに笑っていることも、なんだかちょっとだけ気に入らなかった。



 結局オレはアイスコーヒーを、小鳩さんは黒糖ラテを注文して、なんだかんだで店員としての仕事をこなしているロンに「ごゆっくり」なんて言われながらドリンクを受け取った。この間は本当に水で薄めた黒蜜を出されたのだが、気まぐれなのか今日は注文通りらしい。「オレが運ぶね」ってトレーを持っていけば、慌てたような足音がぱたぱた追いかけてくるから、つい小さく微笑んでしまった。
 ロンが次に来た人の接客をしているうちに、逃げるみたいにカウンターから遠めの席にトレーを置いた。なんか話してるとこあんま聞かれたくないしなあ……。そんなオレの気持ちを知ってか知らずか、小鳩さんが「一色さん、お時間は大丈夫なんですか?」なんて尋ねてくれた。
「あ、うん、大丈夫。昼休憩も兼ねてるからあと三十分ぐらいは」
「え、じゃあお昼ご飯は……」
「署で食べたから大丈夫!」
 まあパン一個だけど……と無意識に付け足すと、小鳩さんの眉が少し下がってしまう。「わたしが言うのもどうかなって感じなんですけど」と前置きしてから、ことん、と赤いカップがテーブルに置かれた。
「ちゃんと休んでくださいね、一色さん」
「う……はい」
「その……一色さんって、ずっとお仕事してませんか……?」
「どっ、どうかなあ〜……」
 心配そうにオレを見つめる彼女の瞳。少しむずがゆくなって目を逸らしてしまってから、けれど最近の自分のことをぼんやり考えて、ふと思う。……前よりはだいぶマシになってるかも。
 すると「そうなんですか?」って小鳩さんが言うから、自分が声に出していることをまた気付かされてしまう。半ば諦めたような気持ちになりながら、「まあね」とつぶやくみたいに言って、コーヒーをひとくち飲み込んだ。
「友達……が、できてさ。オレ今まで仕事ばっかだったんだけど、その人がほんっと自由だから、付き合わされてるうちに自分の時間も持てるようになった……っていうか」
「なるほど、友達……」
「まあほとんど事件が絡んでくるから、半分仕事みたいなもんなんだけど……」
 安らぎとか休みとか、そんな時間とは程遠いけれど、ロンと過ごす時間は笑っていて、オレの世界が少し鮮やかになったのは確かなことで。そんなことをぼんやり考えつつ話していれば、小鳩さんは何度か納得したように頷いた後、「それって……鴨休さんのことですか?」なんてちょっと小声で言うから、どきりと心臓が跳ねた。この子、察しがよくないか。いやオレがわかりやすすぎるだけか。まあ隠すことでもないし、と観念して頷けば、小鳩さんは小さく笑っていた。
「ほんとに仲良さげでしたもんね」
「ええ……そう?」
 こくこく頷いて、「息ぴったりでしたし」とまで言われてしまうとなんとも複雑な気持ちになる。あいつが変だからあれこれ言わざるを得ないだけなんだけどな。まあこれ以上ロンの話をしてもしょうがないし、無駄なことまで喋ってしまいそうで、話題を変えようと目を泳がせていたときだった。

「……とと」
 突然、心地よい高音で紡がれたオレの名前、というか、あだ名。はっとして顔を上げた先、まっすぐにオレを見つめてくる瞳に思いきり心臓が跳ねる。けれどすぐにその視線は緩んでしまって、「って、呼ばれてるんですね」って。そう続けられて、「あ、うん」ってこの上なく気の抜けた声で答えてしまうと、小鳩さんはそっと視線を伏せる。
「わたしも……」
「……うん」
「そうやって、呼びたい、な」
「えっ、……え、トト、って?」
「……だめですか?」
 ……そんなの。だめか、だめじゃないかって言われると、そりゃあだめなんかじゃないんだけど。オレだってそんなに初心じゃないはずなのに、呼び方たったひとつで胸の奥がざわつくのはどうしてだろう。
 ええっと、なんて情けなくも無駄に答えを引き延ばしながら、そうっと彼女を盗み見て、途端に背筋が伸びるような心地がした。きゅっと口を引き結んだ小鳩さんはどこか不安げにもみえて――あ、そっか。頑張って踏み出そうとしているのも、このままでいたくないと思うのも、オレだけじゃないんだって思っていいのかな。
「……ううん、だめじゃないよ」
 ゆったりと視線が交わって、ぱちぱちと繰り返される瞬きのなか、瞳に柔らかく期待が滲んでいるような気がした。オレはきっと初めから、君の不安そうな顔にめっぽう弱くって、だからほんの少し笑ってくれただけで安心してしまう。お世辞にも格好がついたりなんかしないオレだけど、シンプルな答えで君に笑ってもらうことができるのなら、それだけで。
「一色さん、ってなんか他人行儀だもんな」
 そう言ってかるく頭をかくと、途端に小鳩さんの表情がふっとゆるんだ。いつの間にかオレの肩にこもっていた力も抜けて、そうしてちいさく息を吸い込んだ彼女に、「トトさん」って。そう呼ばれて、さん付けなんだ、まあそりゃそうか、って独りごちながら、じわじわ滲むようなぬくもりについ口角が上がってしまう。
 そっか、オレはこの子の中で、「一色さん」じゃなくなったんだ。
「ねえ、あのさ」
 たったそれだけのこと、けれど心が浮き立ってしょうがなくて、「オレも呼んでいい?」って、たまらず口に出していた。「えっ」と目を見開く表情に、なんだかまた、いつもの落ち着いている姿とは違う部分に胸の奥がくすぐったくなる。
「だめ?」
「だ、だめじゃない、です」
 君の名前はずっと前から知っていて、たくさん交わした言葉の中に光ったそのひとかけらを、オレは大事にしまいこんでいた。どうやって呼んだらいいのかな、って考えたことがほんとうはあって、けれど今はまだ、君と同じくらいの場所に立っていてもいいのかもしれない。
「双葉さん」
「は……はいっ……」
「……あってる、よね?」
「あっ、あってます」
「よかったあ」
 つい笑みをこぼしてしまうと、「ちょっと、待って、くださいね」なんて、彼女――双葉さんはずいぶんか細い声でそう言って、ぱっと両手で顔を覆ってしまう。うっ、と喉の奥から変な声が漏れてしまったのは、そんなふうに隠れてしまおうとする仕草にぐっときたからでもあるし、隠しきれない耳が赤く染まっていたからでも、あって。
 ……ずるいって、そんなの。言葉はつっかえてしまって、唇に残る君の名前は口の中で転がっている。もう一回、呼んでいいかな。呼んだら、どんな顔を見せてくれるんだろう、って。ゆるいぬくもりに包まれる昼下がり、君のどんな些細な表情だって、オレはもっと知りたいって思ってしまうから。



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