にじんで広がる指の先


「……ん……小鳩さ…………ん?」
 ……うわ、変な夢見た。
 がばりと身体を起こすと、夜明け前のオフィスはしんと静まり返っている。オレが突っ伏していたのは無機質なデスクで、先程までの光景が夢、つまり自分の妄想のようなものであることを突きつけられて、思わず大きなため息がこぼれていった。
 変、っていうか。変なのはオレであって、夢自体は変ではないというか……。いや、ちょっと変か。小鳩さん――懇意にしている和菓子屋の娘さんで、交番勤務時代に関わりがあった相手でもある――が、おたまいっぱいの黒蜜を「はい、あーん」って満面の笑みで差し出してくる夢だった。シチュエーションには正直ちょっとドキッとしまったけれど、黒蜜だったのは絶対ロンのせいだ。あいつが黒蜜ばっか飲むから。
 あいまいな夢のなか、オレの目の前で柔らかく微笑んでいたその人の表情。情けない妄想なのに、早く頭から追い出してしまいたいのに、忘れてしまうのがもったいないなんて思う自分もいるのだからどうしようもなくて、誰もいないのをいいことにぶんぶん首を振ってみる。

 小鳩さんとは、出会ってからもう二年ほどになる。深夜の見回り中、川の真ん中でひとり立ち尽くしている人影がぼんやり見えて、脇目も振らずに助けに入ったのがはじまりだった。
 助け出して話を聞けば、「おばあちゃんの形見をなくした」と。忙しい両親に代わり祖母に育てられ、今も寮暮らしの傍らでしょっちゅう祖母のところに通っているおばあちゃんっ子の自分には、その一言が深く深く突き刺さってしまった。もとより、困っている人を放っておけない性分でもある。仕事に私情を持ち込むのは良くないことだとわかっていながらも、なかなか切り分けられないでいるオレは「僕が見つけます」って、その場しのぎでもなんでもない決意を口にしていた。
 同期と見回りを交代してから、仮眠時間も返上して川に向かって。やけに手のひらに残るぬくもりと、純粋な涙に突き動かされて探し続け、朝になってやっと探し物を見つけることができたのだ。ただ真っ先に伝えたくて、曇って歪んでいた表情が晴れる瞬間を見たくてたまらなくなって、その一心で彼女のもとへ走っていた。だからあの朝、オレの想像よりもずっとずっと綺麗に花開いた笑顔を、たぶんオレはこれからも覚えているのだと思う。
 果たして、警察官としての心に残る経験なのか。ただひとりの人間として、忘れられないでいるのか。やっぱりなかなか切り分けられないオレだから、その答えはまだ出せていないままだ。

 それからお店に通うようになったのは、近くを通った時に挨拶がてら寄って買ったお菓子が本当に美味しくて、ばあちゃんもオレ自身もたいそう気に入ったというのがきっかけではあった。でもそうやって足を運ぶうち、ちょっとずつ話しかけてくれる小鳩さんとの会話が、だんだんと心地よくなっていったからなんだと思う。ささいな話も本当に楽しそうに聞いてくれて、オレなんてたくさんいる客のうちのひとりに違いないのだけど、そうわかっていても確かにその時間が楽しみになっているオレがいて。
 捜査一課に来てから怒られっぱなしだとか、お荷物になってしまってるだとか、そんなかっこ悪い話はちゃっかり隠してしまっているけれど。それでも、ちょっと曖昧であたたかいカウンター越しの一瞬は、オレにとって優しい時間だった。



「おっ、トト。黒蜜団子か、気が利くね」
「まあ、気に入ってくれたんなら良かったけど」
「しかしこれは宣戦布告かい? 黒蜜スイーツなら僕だって作れるのに、わざわざ買ってくるなんて」
「……めんどくさい奴だな……」
「口に出てるぞ、トト」
「いっ」
 鴨乃橋ロンという人間に出会ってしばらく経つが、なかなかどうしてオレはこいつに振り回されっぱなしだった。けれどそんな日々が少し楽しくなってきたのも事実で、仕事じゃ相変わらず怒られていたり、ロンに会っているときだってバカにされたりするけれど、ロンの手伝いをして人を助けて、そうやってちょっとずつ、オレにもできることが増えてきたような気もしていて。自信がついた、とでも言うのかな。だからオレは――
「トト!!」
「うわっ、えっ、なんだ!?」
「トト!!!!」
「聞こえてるから! やめ、やめろって!」
 物思いに耽りかけていたオレの思考をぶった斬ったのはロンの大声で、その上肩を掴んでガクガク揺さぶられ始めてしまって、意味がわからないままに頭がぐらぐら揺れる。手を掴んで止めようとしたけれど、なかなか思い通りにいかなくて、こいつ無駄に力強いんだよな! ややあってやっとのことで動きを止めたロンが、ぽつり、「美味しすぎる」とつぶやく。
「は? なんだよ、声小さいって」
「美味しすぎるんだよ!! トト!!!!」
「うるさっ、声でかいよ!」
「トトが小さいって言ったんだろ!」
「適切な音量でお願いします!」
 無駄に大声で言い合いをして、混乱の中で呼吸を整えながら話を聞いていると、どうやらロンはオレの持ってきた黒蜜団子をたいそう気に入ったらしかった。甘さととろみのバランスが最高だとか、団子の生地にもこだわっているのがわかるだとか、まあ正直ロンの語る黒蜜の深みについてはよくわからないけれど、こばと屋のお菓子が美味しいのは紛れもない事実だ。ものすごく勝手に誇らしい気持ちになってしまいながら、「とりあえず顔についてる黒蜜拭けよ」とハンカチを差し出したけれど、「まだつけておきたい」と断られた。意味がわからん。
 そうして、やはりというべきか「どこで手に入れたんだ」と尋ねられる。……別に、隠したいわけではないけれど。なんだろう、なんとなく知られたくないような、内緒にしておきたいような、そんな気持ちを燻らせながら「別に、普通の和菓子屋だって」とヘタクソな誤魔化し方をしてしまった。
「すぐに店を教えるんだ……こんなに美味しいものを出されては、僕のスイーツショップが開店前から閉店の危機だ」
「スイーツショップってなんの話? ……つーか聞いて何する気だよ」
「足繁く通って買い占めるに決まってる」
「真っ当な常連かよ」
 ……足繁く通って。ということは、彼女にも会うってことだ。小鳩さん、としか呼べないあのお店の娘さん。オレはしばらく通ってやっと店番の時間帯を聞き出せたのに、いやストーカーとかじゃないけどさ、なんだかこいつはあっさり仲良くなってしまいそうな気がするっていうか、なんか、なんだろうなあ……。
「なるほどね」
「……ん?」
「僕に教えたくない理由があるとみた」
「いっ…………や、違うって、はは、別に……」
「少し意外だな。トトにも独占欲があったなんて」
「な、そんなんじゃないって!」
 なんでバレたんだよ、とはさすがに思えなかった。今回ばかりはオレも動揺を表に出しすぎた自覚があって、ロンの推理力とかそれ以前の問題だ。つーか察したならほっといてくれよ、と思うところではあるが、そんなオレを気遣う様子もなく。
「事情はわかったが、僕もこの黒蜜団子を諦めるわけにはいかない。僕も独自に動かせてもらうよ」
「はあ……?」
 よくわからない言葉を残して、それからいつも通りに「ところでトト、胸躍る事件はどこだい?」なんてロンは訊いてくる。「ないって電話でも言っただろ……」とため息まじりに答えれば、予想通りというべきか、ロンはぐにゃぐにゃと怠惰の床に吸い込まれていった。
「事件の代わりに黒蜜団子で機嫌を取ろうだなんて、そんな手が通用すると思うなよトト!」
「通用してる感じの声色ですけど……」



 あれから数日経って、休日が来て暇になった途端に、もうたぶんロンはこばと屋には辿り着いたんだろうなあ、となんとなく考えてしまっていた。どうしよう、こないだ行ったばっかりだけど、オレも行ってもいいかな。なんともいえないモヤモヤを引っ提げて歩きながら、いや、そもそもなんでこんなこと考えてんだ、って我にかえる。
 ――独占欲、ってロンに言われてとっさに否定した、なんとも言えないかたちの言葉を思い出す。知られたくない、って思ったのはなんでだっけ。とっておきにしておきたいと思った理由を、オレはちゃんと言葉にできるかな。てかオレはそもそも、小鳩さんのことをどう思っているんだろう。ぐるぐる考えているうち、ふと足を止めると、オレは気付くとこばと屋の前にいた。
 いや、待って、電気屋に行く予定だったのに。無意識のうちに来ちゃったってことかよ、何やってんだオレ。けれどここまで来てしまうと、まあちょっと寄ってもいいのかな、みたいな。そんなゆるい気持ちが湧き上がってきて、恐る恐る中を覗き込んでから、そっとお店に足を踏み入れた。
「わ、一色さん。こんにちは」
「こ……こんにちは」
「今日はお休みですか?」
「あ、うん、そんな感じ」
 ふんわり優しく向けられる笑顔があたたかくて、むず痒くなってなんとなく目を逸らしてしまう。ったく、ロンが変なこと言うから。そうやって情けなく責任転嫁してみるけれど、なんの解決にもなりはしない。そうしてロンの顔を思い出すと同時に、気がかりだったことがどんどん膨らんできてしまって、「あのさ」と声をかけると小鳩さんは小さく首を傾げた。
「なんか最近、モサモサの人とか来なかった?」
「モサモサの……?」
「背が高くて、髪はボサボサで、全体的にモサッとした黒蜜好きの男……」
「……癖が強いですね……?」
 いや、そうだよな、オレも自分で言っててそう思った。しかも実際目の前で見るともっと癖は強い。このヒントならひと目見ればわかりそうなところを、小鳩さんは「たぶんいらっしゃってないですね、少なくともわたしがお店にいる間は」って言うから、おそらくロンには会っていない、はず。どうしてだかなんとなく安心していると、「なにかの聞き込みだったりしますか?」なんて少し興味深そうに言われて、少しどきりとしてしまった。
「あ〜……いや、オレの個人的な話だよ」
「そうでしたか。てっきりお休みの日もお仕事されてるのかと」
 一色さんって仕事熱心ですからね、なんて言われて、ちょっとの気まずさが心に広がってゆく。熱心なのは間違ってないと思うけど、空回りして怒られてばっかなんだよな。小鳩さんには言えてないけど。
 ……なんだかだんだん、広がる気まずさがゆっくりと焦りや罪悪感に姿を変えてゆくような気がしてしまう。オレこうやって、このまま小鳩さんにウソつき続けるのかな。このままでいいのかな。どうしたいとかどうなりたいとか、そんな具体的な考えはなんにもないのに、気持ちだけが走り出してしまいそうで。
「あの、さ、小鳩さん」
「ん? どうしました?」
 ここに着く前ぐるぐる頭を回っていたこと、まだ答えが出せるとは思わない。でもなんだか、これからどうするにしたって、このままじゃいけないような気がする。

 ――そう、やっぱりオレはロンに出会って一緒にいて、ちょっとだけど自信がついたんだ。ピュアなマヌケとか変な言い方するけどさ、それだって事実なんだろうけど、オレの突っ走っちゃうようなとこがちゃんと人の役に立っていて。思えば、小鳩さんとの出会いだってきっとそうだった。
 ロンがそうしてくれたように、この子にもオレを知ってもらいたくて、できればわかってもらいたくて。甘ったれもいいとこだけど、“このまま”から抜け出すためにできる、その第一歩なのかもしれないから。
「……オレ、本当は」
「……は、はい」
「本当はさ、捜査一課のお荷物なんだ……!」
 へ、と気の抜けた声が聞こえた気がしたけれど、彼女の表情を見ないようにしながら、「熱心なのは本当だけど、空回ってばっかで」とうつむきがちに続けてしまう。
「先輩には毎日怒られてばっかだし、オレにまわす仕事を入れる箱なんかゴミ箱って呼ばれてて……」
「……」
「住宅街で夜中に聞き込みして通報されたり、犯人のウソに騙されて取り逃したり、ほんと、バカみたいな失敗いっぱいしてるんだ」
 なんだか言わなくていいことまで言っている気がするけれど、この際もうどうにでもなればいい。だからさ、と続けながら、また息を吸い込んだ。
「その……こういう話、隠しててごめん。かっこ悪いから知られたくなくて、その、えっと〜……」
 勢いにまかせて一通り言い切って、そして。やばい、言葉続かなくなった。知られたくなくて、なんなんだっけ。ただダメなところを突然カミングアウトしただけで終わってしまいそうで、依然顔を見られないオレのことを、「一色さん」って。小鳩さんの声がおもむろに呼んだ。オレの都合のいい妄想じゃなかったら、ものすごく優しい声色で。
「知ってますよ」
「…………へ?」
「だから、知ってます」
「な、なにを……」
「一色さんがちょっとだけ抜けてるんだな、ってこと」
「へっ、えっ、なんで!?」
 つい顔を上げてしまうと、カウンターの向こう側には、いつも通り――いや、もしかしたらいつもよりも、柔らかい表情の小鳩さんがいる。オレを見つめる眼差しにも、あたたかい色が灯っているような気がした。そうして少し肩をすくめたかと思うと、笑い混じりに「言っていいのかな」って小鳩さんは小さくつぶやいた。
「だって一色さん、たまに声に出てるから……」
「……あ、」
 言われて思い至ったのは、「モノローグのつもりで小声でしゃべってるぞマヌケ」とか、「君のひとり言はくちびるを動かすから読みやすい」とか、ロンに最近よく言われていること。
「ってことはオレ、結構がっつりしゃべってた……!?」
「うーん、そこそこに?」
 小さく笑いをこぼす小鳩さんの前で、ついぽかんと口を開けてしまう。え、じゃあ、いろいろ筒抜けだったってこと? いやオレほんとにこれ直さなきゃ、良くないことまでしゃべってないよな……。混乱で考えがまとまらなくて、でももうなんだかとにかく恥ずかしくて、みっともなく顔が熱くなってきてしまってどうしようもないままに、乾いた笑いがこぼれてゆく。
「はは……なんか、幻滅しました、よね」
 すると小鳩さんは目を見開いたかと思うと、ぱちぱち、瞬きを数回繰り返して。それからふっと緩めて、「そんなわけないですよ」って、まるでオレの妄想みたいに都合のいいことを言う。
「知ってたんです、ずっと。……それでも」
 一瞬目を伏せた彼女が、ふわりと顔を上げる。ゆるやかで、でもまっすぐな瞳と、かすかに赤い目の縁に、オレはなんにも言えなくなる。
「そんなところもぜんぶ含めて、一色さんのこと、素敵な人だと思ってるんです」
 穏やかに響く夢みたいな声が、光の差しこむお店の中にさらりと溶けて消えてゆく。その余韻を追いかけるように、「オレも、」って飛び出していった声は上擦っていて、でももうなりふり構っていられない。
「オレも……、小鳩さんのこと、素敵だって思って、ます……」
「……ふふ、ほんとですか」
「うん、えっと、本当……」
「……嬉しい」
 あの日花開いたのとはきっと少し違う、君の優しさが滲んだ笑顔から。それから、ほんのり染まった柔らかな頬から、どうやったって目を逸らせない。きっとまだ何も変わらなくて、でもたぶん、オレたちはこのままじゃなくなるかもしれない、って。次の一歩を踏み出せるまで、君のところにたどり着くまで、あとどれくらいかかるのかもわからないけれど、今この瞬間近付いた一歩を、ただ大切にしたいと思った。






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