どうしてかわからない


 君と再会して、まるでとんでもない非日常に飛び込んだような気がしてしまったけれど、当たり前のように何の変哲もない日常は続いている。そして私に自分の日常があるように、無一郎くんにも当たり前の日常がある。連絡を取り合っていたここ数日、「いま講義終わったよ」とか、「九時までバイトだからまた後で連絡するね」とか何気ないメッセージをもらって、なんとなく感じていただけのそのことをまざまざと実感させられていた。
 あのころ私のそれとぴったり重なっていた無一郎くんの毎日は、至極当然のことだけれど、今はまるで違うものに姿を変えている。……いや、あのころがちょっぴり特別だっただけで、こっちが普通。無一郎くんは新しい世界で、自分で選んだ日常をたしかに生きていて――その事実にじんわり感動が押し寄せて、その隙間からほんの少しの寂しさが顔を出しそうになるから、なんとか抑え込んでいた。

 そうして君の生きる毎日の輪郭がみえてきた頃、ゆるい疑問が首をもたげる。……ご飯、どうしてるんだろう。いやでも、あれから何年も経っているわけだし、料理くらいはマスターしているんじゃないだろうか。でもどうだろう、産屋敷家みたいなすごいところに住んでいたのなら、専属シェフが作ったスペシャルメニューが三食ばっちり出てきていたのかもしれない。待って、そもそも無一郎くん、今はどこに住んでるんだろう。産屋敷家? 一人暮らし? そんな初歩的なことも訊いていなかった自分に呆れつつ、ちょうど今日のお昼ご飯の話になったタイミングで、「昨日の夜は何食べたの?」と送ってみることにした。
 ……そして。「ラーメン」と答えてきた無一郎くんに少し嫌な予感がしつつ、ほんのり掘り下げて訊いてみると、いろんな種類のカップラーメンをローテーションで食べていることが判明して……
「だめじゃん!」
「えっ!? なにがですか!?」
「あごめん! 独り言!」
 職場の休憩室でつい大声をあげてしまい、「さくらさんって独り言でかいんですよね」と後輩ちゃんにため息をつかれてしまった。いやでも、それどころではない。おそらく一人暮らしで、まともなものを食べていないと言われては見過ごせない。どういう立ち位置だろうと自分でも思うけれど、なんだろう、かつて養っていた責任感、みたいな? そんなこんなで、ほぼ勢いで「今日ご飯食べにくる?」と送ってしまうと、「いいの?」なんて、あの輝く瞳が透けて見えるようなメッセージが返ってくるから、つい意味もなく目を細めてしまった。……もしかしたら、こうやって言わせるために話してきたのかもしれない、とは思う。でもそれで放っておける私ではないので、結局まんまと策略にはまっていることになる。まあ、うん、いっか。
 仕事終わりなのに大丈夫なの、って無一郎くんは私を気遣ってくれたけれど、別に今更どうってことない。あのころの方が仕事もきつかったしそれに比べたら。……ただ、ちょっと、緊張はするかもしれない。人に食べてもらうのがずいぶん久しぶりだというのもあるし、その相手が無一郎くんだからというのもある。それから、うん、会うたび……ってやつ、あの攻撃もまた食らうかもしれないし。でも、やっぱりまた無一郎くんにご飯を振る舞えることが楽しみな自分もいる。どきどきとわくわくが混ざり合う複雑な気持ちを抱えて午後の仕事を終えるころ、「じゃあ駅で待ち合わせでいい?」なんてメッセージが届いていた。

 最寄り駅に着いてすぐ、探すまでもなく無一郎くんは見つかった。ずいぶん伸びた身長に、すらりと流れる長い黒髪、毛先を彩る淡いグリーン。今は後ろ姿しか見えないけれど、これであの顔の整い具合ときたら。雑然とした景色の中で一際輝いているように見えて、あのころ、十四歳の無一郎くんに声をかけるのとはずいぶん違う緊張感がはしっていた。それでも、君を見つけて疲れが和らぐあの感覚が久しぶりで、懐かしい気持ちもじわりと湧き出てくる。
 そーっと、そーっと歩み寄って、ちょっと屈んでしまいながら無一郎くんに近づいていく私は側からみたら危ない人だったかもしれない。けれどなかなかあと一歩を踏み出せなくて、どうしよう、どうやって声かけよう、なんて考えては喉に言葉がつっかえる。そうしてやっと覚悟を決めて名前を呼ぼうとしたその瞬間、ふわり、目の前の髪が翻った。
「さくらさん」
「あ、」
「いつになったら声かけてくれるの」
 待ってたのに、と。そう言われて、ばっちり、交わった視線。思考がぷつんと切れて声を忘れて、ひとしきり口をぱくぱくさせてしまってから、「きづいてたんだ……」とひどく情けない声がこぼれてゆく。び、びっくり、した。色素の薄い瞳に私がうつっていて、それはふっと柔らかにゆるむ。
「そりゃね。いつもそうだったでしょ」
「……たしかに」
 そう、無一郎くんの言う通り、私は背後を取れた試しがなかった。脅かそうとしたっていつも「何してるの」と瞬時に気付かれ呆れられて、後ろに目でもついているのかと思ったほど。今もその研ぎ澄まされた感覚は健在らしく、私がにじり寄っていた段階から気づいていたというのだから恥ずかしいことこの上ない。
 その気まずさをごまかすみたいに「とりあえず向かおっか」と殊更に明るく言ってみると、無一郎くんは「ほんとにいいの」なんてすこし眉をひそめる。あれ、仕事終わりなのにって件はもう解決したと思っていたけれど、まだなにか不安要素があったかな。
「さっき送ったけど、昨日作った煮物あるから大丈夫だって。ご飯炊いてお味噌汁作るぐらいだし」
「そうじゃなくて……はあ、まあいいや」
 ……こ、これはどういう呆れ? ちょっと理解できないままだけれど、とりあえずゆったり歩き出した無一郎くんに着いていくことにした。追いついて隣に並んで、ほんとうに久しぶりに、懐かしい帰り道を並んで歩いてゆく。
 いつか一緒に寄ったコンビニは移転してしまったり、逆に新しいお店がいくつかできていたり、否応なく時は流れて景色は変わる。ひとりで何度も何度も歩いて、そんな寂しさにはすっかり慣れたはずだったのに。君が隣にいる事実が、乗り越えてきた四年半をすっかり元に戻してしまうみたいだった。
 並んだ影が、ゆらゆら揺れる。ほとんど陽の落ちた道で、アスファルトが擦れている。
「……背、伸びたね」
 ふと口をついて出た言葉と、「でしょ」なんて笑った横顔。そうして気が付いたのは、君の歩幅が小さいこと。見上げなきゃいけなくなった背丈、羨ましいほど長い脚、そんな私たちの歩幅が同じはずはない。ああ、もう、どうしようなあ。こんなにも素敵なのに、どうして私なんだろう。いたたまれなくて、でもちょっと嬉しくて、うまくまとまらない感情で、ずっと胸がちくちくしている。



「えーっと……ちょっと散らかってるから、五分ぐらいもらえると……」
「……今更じゃない?」
「なにが!?」
「前は僕が掃除してたでしょ」
「それは……あっ」
 玄関まで招き入れてから人並みの恥じらいを発揮する私を、無一郎くんはばっさり斬り捨てて、そうして靴を脱いで上がってしまおうとする。いや、そうなんだけど。言う通りなんだけど。今は君が掃除してるわけじゃないし、っていうか、なんだろう、無一郎くん、怒ってる? このばっさり感、この子特有のマイペースかと思ったけれど、なんだかそれにしてはちょっと強引すぎるような……。そうやってモヤモヤ考えながら私も靴を脱いで、まあいいかなあと諦めてしまおうとした瞬間、「まって!」と止めてしまったのは、あるものの存在に思い至ったからだった。
「した……」
「……?」
「…………せっ、洗濯物……片付けていい?」
 言いかけて、とっさに引っ込めたけれど。ぼんやりした瞳にじわじわ光が入り込んで、はっと目を見開いた無一郎くんの表情は、明らかに気付いてしまった時のそれだった。……下着、干してるから、と。そんな私の言わんとしたことを汲み取ったらしく、数秒ぴたりと固まって。
「ごめん」
「いや、うん、」
「片付いたら呼んで」
 そうして私の横を素早く通り過ぎていった無一郎くんは、靴をつっかけてそのまま家を出ていった。いや、何もそこまでしなくても。そう思ったけれど、一緒に暮らしていた頃、私の下着類は一応見せないように気をつけていたから、さすがにそのあたりは「今更」とはならなかったらしい。それに、ちらりと覗いた耳が、頬が、ほんのり赤くなっていたのを私は見逃せなかった。
 …………か、かわいい、かもしれない。なんでもかんでも余裕たっぷりに成長したのかと思いきや、やっぱり十代の男の子。そんな一面を見せつけられて、胸の奥がぎゅうっと狭くなるような心地がしてきて、慌ててぶんぶんと首を横に振った。

 急いで洗濯物をタンスに押し込んで、それから慌てて部屋を片付けて、当初言っていた通りに五分ほど待たせてから呼びに行くと、律儀に「おじゃまします」なんて言って無一郎くんは入ってくる。一瞬見えた顔の赤みはもうすっかり引いていて、さっきなんとなく感じた強引さも鳴りを潜めているような気がする。
「まだちょっと散らかってるけど……」
「別にいいよ」
 適当に座ってて、と声をかけてから用意に取りかかって少し、「何か手伝うことある?」と、無一郎くんがひょっこりとキッチンを覗き込んでくる。あ、前にもこんなことあったな。ちょっと懐かしい気持ちになってしまいながら、「これ持っていってくれる?」とお箸を差し出すと、無一郎くんはそれをちらりと見遣って、なぜか受け取らないまま少し離れて立っている。
「ねえ、思ってたんだけどさ」
「ん?」
「こんな簡単に、部屋に上げていいの」
 突然投げかけられた質問に、えっ、と気の抜けた声がこぼれ落ちて。静かに向けられる真剣な瞳に、ざわざわと心が落ち着きを失ってゆく。しゅう、と炊飯器が音を立てて、無一郎くんはゆったりと視線をほどいて落とす。
「僕、さくらさんのこと狙ってる男なんだけど」
 そうやってたたみかけられて、ほわほわと緩んでいた心が、ぴんと張ってゆくような。……そうだ、うん、そう、無一郎くんはもうあのころの君じゃなくて、たくさんのことが違っていて、頭でも心でもわかっているはずで、でも君は変わらず君のままで、えっと、私は……。
 目を白黒させてしまう私を見兼ねたのか、無一郎くんが何か言いかけて。けれどそれより早く、私の口から「だって……」と情けない声がこぼれ落ちてゆく。
「無一郎くんは、無一郎くんだから……」
「……なにそれ」
「いやだって、無一郎くんはいろいろ別なんだもん」
 無一郎くんはへにゃりと唇を曲げて、なにそれ、ってまた言いたそうな顔をしているけれど、私のほうも上手い言葉が見つからない。この状況に、ぶつけられる言葉に、たしかに心臓はうるさくなってゆくのに、そんなんじゃなくて、と言い訳をしたい気持ちが治まってくれない。
 無一郎くんの気持ちを否定したいんじゃなくて、でも。君のことがずっと心配で、世話を焼けるのが嬉しくて、こうやってまたご飯をいっしょに食べられると思うとわくわくして、でも待って、良くないことなのかな、自分勝手だったかな、とか、頭の中がぐるぐるして――「お……追い出した方がいいかな」なんて。慌てた末に飛び出したそんな言葉を聞いて、無一郎くんはぱちくりと瞬きを繰り返す。そうして呆れてしまうみたいに、ため息をつくみたいに笑ってみせた。
「そうは言ってないけどさ」
 ふっと無一郎くんの纏う空気が軽くなって、つられるみたいに私の肩の力も抜けてゆく。……だって、やっぱり。私にとっては無一郎くんは無一郎くんで、私のことを狙う男だなんて言ってみせるけど、そんな俗っぽい存在には決してなり得ない。あのころから君の隣は心地よくて、今だってそれは変わらないのだから。
「だって無一郎くん、そんなずるいことしないでしょ」
 そう言ってから歩み寄ってお箸を差し出しなおすと、「どうかな」なんてつぶやきながら無一郎くんはそれを受け取ってくれる。そんな風に茶化しつつもそのまま元の場所に戻っていくんだから、やっぱりそうに違いないのだ。

 簡単なものでごめんね、なんて言いながら並べたご飯を、無一郎くんはずいぶんと嬉しそうに食べてくれた。いつかみたいに机を挟んで向かい合って、無一郎くんのくれる「おいしい」が久しぶりで、じわじわと滲んでくる多幸感。……あ、なんか、帰省してきた子どもを迎える親ってこういう気持ちなのかも。なんて、こんなことを口に出したら絶対に機嫌を損ねてしまうので我慢しつつ、何を話そうかと伺うように無一郎くんを見遣る。するとばっちり視線がかち合って、「あのさ」と、そうつぶやくように呼びかけてきた無一郎くんの声は静かだった。なんだかまだ刺々しいというか、深刻そう、というか。
「……どうしたの?」
「さくらさん、さ」
「うん、なに?」
「…………いつも、こうなの?」
「いつも? ……え、いつもって?」
 お箸を持つ手元が相変わらず綺麗で、なんとなくそっちに視線を落としてしまってから、また無一郎くんの顔のほうへ戻して。質問の意図をはかりかねていると、「付き合ってる人、いるの」なんて突拍子もない質問が飛んできて、とっさに「いないよ」と返した声は裏返った。
「い、いたら先に言ってるよ」
「……そう」
「どうしたのいきなり」
 ……うーん。どうしたの、って訊いたけれど、ちょっと見えてきてしまったかもしれない。察しのいい方ではないけれど超鈍感というほどでもない私は、ちょっとむくれているようにも見える無一郎くんの、今日の数々の言動を思い出して、少しずつ頭の中でパズルを組み立てていた。本当にいいのって再三の確認に、見当違いなことを言いながら頷く私に苛立った様子、そしてこの「いつも」。……無一郎くんは、私が。いつも男の人を家にあげていないかと、ご飯を振る舞っているんじゃないか、なんて、もしかしたらそんなふうに考えているんじゃないだろうか。
「……こうやって」
「うん……?」
「簡単に家に入れてるわけ」
 あ、ビンゴ。期せずして答えを手に入れてしまった私は、無一郎くんのじっとりとした視線を受け止めながら、ぐっと唇の内側を噛む。予想が的中したのと、無一郎くんのわかりやすい態度、それにちょっと幼い嫉妬がかわいくて、うっかりにやついてしまいそうになったからだった。と、そんな私の不審な挙動を見た無一郎くんは、ぐっと顔を顰めてみせる。
「……図星?」
「っふ、ぜんぜん」
「なに笑ってるの」
「笑ってません」
 このぐいぐい来る感じからして、正直あんまりそういうことは気にしないのかと思ってた。そっか、気にするんだ。……かわいい、とか、きっとそんなことを思っている場合ではないけれど。やっぱりずっと年下なんだなあ、なんて考えてしまう。依然むっとしている無一郎くんに向き直って、軽く深呼吸をしてなんとか笑いを引っ込めた。
「簡単に入れたりなんかしないよ。ほんとのほんと」
「……」
「だからさ、いつでもご飯食べに来ていいよ。無一郎くんにしかこんなこと言わないから安心して」
「……複雑」
 はあ、とため息をついて、「喜んでいいのかわからないし」なんて唇を尖らせてみせる。そうして居住まいを正して、空っぽになったお茶碗を持ち上げて「おかわりしていい?」ってまだちょっと機嫌が悪そうに訊いてくるから、つい吹き出してしまいながら「どうぞ」って答えてあげると、無一郎くんはご飯をよそいにキッチンに向かっていった。おかわりが自由でセルフ式なのは、前と同じ。
 名前をつけるのはひどく難しくて、枠にはまる関係のどれもが手を伸ばしても届かない私たち。でもやっぱり、君は他の人とはぜんぜん違う。嘘はついてないよ、男の人はひとっこひとり上げてない。
 ……今もそう。君は別。だって、男の人≠カゃない。

「……僕もさ」
 程なくしてほかほかのご飯を盛って戻ってきた無一郎くんが、座り直しながらじっと私を見つめてくる。「ん?」なんて、すっかり緩んだ気持ちのまま返事をすると、無一郎くんはすこし身を乗り出してきて。とっさに後ずさろうにも、座ったまんまじゃそれは叶わない。
「さくらさんは別だから。……特別」
「えっ……と、」
「こんなことするのも、言うのも、」
 まっすぐ私を貫いて、わずかな幼さをはらんで揺れる瞳。……かわいい、だけで、済ませてくれない。
「……好きなのも、さくらさんだけ。」
 そんな言葉に揺さぶられて、出掛かっていた声を引っ込めてしまう。たった数言で私の余裕を掻っ攫っていった無一郎くんは、ちょっと満足げにくすりと笑ってみせるから、「……なんで」と。私の唇からは、かわいくもなんともない疑問がこぼれ落ちてゆく。それでも、たくさん考えて悩んでいること。
「なんで、私のこと、そんなに……」
 ふわり、無一郎くんの視線が宙を彷徨ったのは一瞬だった。そうしてすぐ、「好きになるのに理由なんている?」なんて言って、ゆるく目を細めるその表情はあまりに綺麗で。はぐらかされたのか本心なのか、それすら読み取る余裕もなく思い切り顔を背けてしまう私の視界の外で、たぶん無一郎くんはまだ、ずっと、ちっぽけな私のことを見つめ続けていた。





- ナノ -