きっとこれは恋じゃない


 ――お元気ですか。
 無理をして働いていませんか。誰かに騙されていませんか。ちゃんと笑って過ごせていますか。さくらさんはきっと僕を心配してくれているのだろうけど、僕はずっと、さくらさんのことが心配です。
 僕は先月、高校を卒業しました。この時代に来てから気付くと五年が経っていて――

 
 日曜日の朝、春の陽気を照りかえす白い便箋が、かさりと穏やかな音を立てる。流れるように綴られた黒いインクを指先でなぞって、「騙されていませんかって、なに」と笑い混じりにこぼした独り言が、君を忘れなかったこの部屋に溶けていった。本棚の上には、少し不恰好なお守りがしずかに佇んでいる。

『僕、さくらさんが好きだよ』

 瞬間、鮮やかなままのそんな声が頭にこだまして、心臓の縮むような感覚に思わず息を詰まらせた。昨日からずっとこんな調子で、何度同じことを繰りかえしたかわからない。
『これからちゃんと、好きになってもらうから』
 ……だめだめ、思い出すな。
『会うたび好きって言ってあげる』
「うう……だめだってば……」
 記憶に話しかけたって当然のれんに腕押し、それに一度思い出したら際限なく溢れてくる。私のなかで昨日の君は――無一郎くんは、容赦なく、好き、だなんてうまく噛み砕けないことを言い続けていた。

 それは、つい昨日のこと。かつて不思議な巡りあいをした大切な男の子が、久しぶりに私に会いにきてくれた。ほんとうに嬉しくて、その気持ちに嘘はなくて、けれど――
 この小さな部屋で出会って、私たちふたりしか知らない時間をたくさん過ごしてきた。君が、無一郎くんが、大切だった。あの頃も、会えない四年もずっと。そっけなくされることの方が多かったし、言うことも結構きついし、でもいつだって君の心の奥底には優しさがあった。確かにそう思わせてくれた視線や言葉があって、そこから伝播した優しさは、ずっと私の心に残されたまま。気持ちも存在もかけがえのないもので、でも。
 やっぱり、頷けないと思う。君にはとびきり幸せになってほしくて、そのとき私がそばにいられたらなって、全く思わないわけじゃない。……でもそれはきっと、私にはできないことだ。いくつも年上で、たいした取り柄もなくて、まあちょっと料理はできるかもしれないけれど人並みだろうし。錯覚でも勘違いでもないなんて言ってはいたけれど、君のように強くまっすぐ生きてきた、そんな素敵なひとに好いてもらえるだけの理由を私は持ち合わせていない。私のそばで暮らすしかなかったあの頃と違って、君はなんだってできて、どこへだって行ける。そんな眩しい自由も手に入れた君は、きっとそのうち私の平凡さに気がついてしまうと思うから。
「……そっか、私、こわいんだ」
 こぼした独り言がほろり、落っこちて溶けて、妙に納得したような心地になった。今も、きっとこれからも君は大切な存在で、いつだって手を差し伸べられる場所にいたいから。近付きすぎてしまわないように、離れる理由が見つからないように。そうやってただ、同じ世界で息をしていられたら、それだけでいいのだと思う。


 ◇


 昨日の帰り際に連絡先を交換して、その夜に次の日の予定を訊ねられて。そうして「ゆっくり話したいな」「ご飯でも食べに行こう」なんて誘いを断る理由も見つからず、それに会いたい気持ちも抑えきれなくて、私はさっそく日曜の午後も無一郎くんに明け渡すことになってしまった。
 待ち合わせはいつか一緒に行った古民家カフェで、すこし早く着いてしまってそわそわしていれば、「さくらさん」とまだちっとも慣れない声が、慣れない呼び方で私を呼ぶ。ゆっくりゆっくり振り返って「こんにちは……」と返してしまうと、私のいかにも不自然な態度に無一郎くんはくすくす笑ってみせた。
「ごめんね、待った?」
「や、ぜんぜん待ってないけど……あの」
「なに?」
「な、なまえで、よぶの?」
 ぱちぱちと瞬きをした後、ふっと目元をゆるめて「うん」と頷く無一郎くんが妙に大人っぽくてどきりとしてしまう。それから「だってそう言ったのはさくらさんでしょ」と追いかけられると、数年前の妙にテンションの上がった自分の言動が頭をよぎった。
「さくらさんって呼んで、って。言ってたよ」
「そうだったかも……」
「ね」
 ……ね、じゃないんですよ。当時はちっとも呼ぶ気もなさそうに冷たくしてきたくせに。それにずっと前の言葉を覚えられているのもなんだか落ち着かないし、と口元をむずむずさせていれば、「あの時はごめん」と無一郎くんが眉を下げるから、心でも読まれたのかと身構えてしまう。
「僕もいろいろ必死だったのと、単純に恥ずかしくて」
「……」
「どうしても嫌ならやめるけど……でも」
「…………」
「せっかく、また会えたから。僕もちゃんと名前で呼びたい」
 ストレートすぎる物言いが心臓に突き刺さりそうで、ごまかすみたいについ咳払いしてしまうと、無一郎くんは不思議そうに首を傾げている。
 ふわふわ柔らかい表情に、素直な言葉たち。何もかもが変わったわけじゃなくて、あの頃の無一郎くんの態度の片鱗にみていた優しい雰囲気がちゃんと感じられて、だからこそ惑わされてしまう。……これは思春期が明けたせいかな。どうしよう、思春期明け、怖すぎる。「会うたび好きって言ってあげる」と、そうは言ってもそんなわけないでしょ……なんてちょっと思っていた言葉も急に現実味を帯びて、身体がじんわり熱くなるような心地がしてくる。
「……大丈夫?」
 心配そうな声色といっしょに覗き込まれて、つい一歩後ずさってしまいながら「だいじょうぶ」と上擦った声でなんとか返事をする。うつむきがちに目を合わせないままに、とりあえず誤解を解こうと口を開いた。
「あの、うん、すごく大丈夫。その、呼び方も、嫌とかじゃないから……」
「……うん、ふふ、そっか」
 恐る恐る顔を上げてみると、ゆるく微笑んだ無一郎くんがどこか楽しそうに私を見つめている。「ほんとに大丈夫? 顔赤いよ」なんて言ってくるその態度には余裕が滲んでいて、「面白がってるでしょ……」とつい文句を言ってしまうと、「そんなんじゃないよ」と無一郎くんは楽しそうに笑っていた。
 
 なんやかんやありつつも席につくと、さくらさんの話も聞かせてよ、と無一郎くんは言う。そういえば私のほうは近況を話していなかったことに思い至って、転職したこと、写真と旅行が趣味になったこと、そうやってざっくり会えなかったあいだの話をすると、それは楽しそうに私の話を聞いてくれた。程なくして運ばれてきたオムライスを口に運びながら、「ちゃんと休んでる?」なんて言うから、こくこく頷いた。
「もう残業まみれになったりしてない?」
「うん、かなりマシになったよ」
「よかった。無理してないかなって心配してたから」
 そういえば手紙にもそう書いてくれていたな、って。頭の隅で思い出しながらも、こうやって無一郎くんと話ができることが、私のなかでまだ現実味を帯びていなかった。だって、なんだかぜんぶが夢みたいで――そういえば私は、君と出逢って過ごした日々のこともそんなふうに思っていたなあ。そんな懐かしい気持ちを噛み締めつつ、「無一郎くんも大丈夫なの?」と訊ねれば、「僕?」と首を傾げてみせる無一郎くん。
「うん。勉強とかいろいろ、大変じゃない?」
「心配してくれるの?」
「そりゃ……無一郎くん、なんか無理しがちだから」
 私の言葉に「そうかな、大丈夫だよ」なんて軽く笑う無一郎くんは、あんまり私にそんな話をしたくないような風にも見えて、私の前ではかっこつけたいのかな、と自惚れにまみれた考えがよぎってしまったり。なんだか照れくさくなって、ばれないようにそれを頭から追い出していると、「じゃあさ」と話題が切り替わる予感にぱっと顔を上げた。
「写真って、どうして始めたの。前はあんまり撮ってなかったよね」
「ああ、それはね、無一郎くんに……」
 と、少し気を緩めたままそこまで言ってしまって、慌てて口を塞ぐけれど、時すでに遅し。むしろとっさに変な態度をとってしまったせいで、無一郎くんは「僕が何?」と食いついてきて、まって、なんだかすごく悪い顔をしてる気がする。いたずらっ子みたいに楽しげで、それでいて逃してくれない圧も携えているような……。
「……まちがえました」
「はいウソ。なに、教えてよ」
 ばっさり切り捨てられて、頬杖をついた無一郎くんはやっぱり楽しそうに口元を歪めている。……絶対からかってる、これはからかわれている。さっきもだけど、慌てる私を見て面白がっているに違いなくて、「年上をからかわないで」とムッとした表情で言い返してみたけれど、「真剣だってば」と軽くあしらわれるばかりで。……それどころか。
「ごめんね。かわいいから、意地悪したくなるんだ」
 爆弾を落っことされて、頭をぐるぐる回った理解できない文字列に脳みそが処理落ちして、つい「なんて?」とばかみたいな返答をしてしまうと、無一郎くんも馬鹿正直に「かわいいから」と繰り返してしまおうとする。「言わなくていいよ!」と慌てて遮ってしまった。
「さくらさんが聞き返してきたんじゃん」
「そっ……そうだけど」
「ねえ」
 だめだ流されちゃう、ってこの空気を立て直そうと言葉を探していたのに、無一郎くんの視線ひとつでいとも容易く思考が止まる。柔く細められた瞳が私を突き刺して、つぎの言葉を待つことしかできなくなる。
「それだけ慌てるってことはさ」
「う、ん……」
「ちゃんと意識してくれてる、ってことでいいんだよね」
 えっと、とおぼつかない言葉がこぼれていって、頷いてもいないのに、無一郎くんは「嬉しい」なんて言って表情をゆるめてしまう。……意識、してる、させられ、てる。何か言わなきゃ、と頭の中を引っ掻き回して、そうして「そのうち慣れるから……」とこぼした言葉に肯定が含まれているって、そう気づいたのは口に出した後だった。
 別に、こういうことに全く耐性がないわけじゃない。この四年半にもそれなりに、付き合ったりそれ以上だったりには発展しなかったけれどいろいろあるにはあって、ただ誰に対してもこんなにも心を動かされたことはなかった。だから戸惑ってしまうけれど、たぶん、いろんなイレギュラーが一気に襲いかかってきて混乱しているんだと思う。うん、そうに違いない。そうやって自分にも言い聞かせながら、にこにこ楽しそうな無一郎くんに降参するような心地で、「その、いつかまた会えたら、見せたいって思ってて」と。せめてもの抵抗として、小さな声で言ってみる。
「え?」
「さっきの……写真の、話」
 要領を得ない私の言葉を、戸惑いながらも頷いて受け止めてくれる無一郎くん。こんなにも歳下の男の子に緊張してどうするんだろう、なんて何度も思うけれどどうしようもなくて、小っ恥ずかしさをなんとか抑え込みながら、続けるための言葉を探して。
「無一郎くんといたころの写真なんて、ぜんぜん残ってなかったから……思い出を写真って残すって大事だなって、思って」
「……うん」
「また会えたら……そのときに、私が見てきたもの、見てほしいかも……って」
 情けなくもしどろもどろに言い切ると、無一郎くんは少しぽかんとしたような顔になって、そして。「そっか」って、優しさがじんわり滲み出したような、そんなあたたかい表情でつぶやいた。「そっか、そうなんだ」と。噛み締めるように言う声がほんとうに嬉しそうだから、ぎゅっと胸が締め付けられるような気さえする。うまく言葉が継げない私に無一郎くんが向けてくれる表情も視線も、春、昼下がりのぬくもりみたいな色をしている。
「さくらさんも、ずっと僕のこと考えてくれてたんだ」
「それは……」
「違うの」
 そんなんじゃなくて、と誤魔化したくなって。けれどそんな気持ちを、すんでのところで引っ込めた。
 だって。……だって私は、「山育ち」と言っていた君にとってはこんな景色が日常だったのかなあ、なんて、柔らかな自然に囲まれながら考えてしまったり。煤けた古い建物を見れば、君が生きていたころにはどんな姿をしていたのかな、なんて想像してしまったり。私が写真に収めたくなるような綺麗な場所、そんなこの世界にいま君がいたら、どんな顔を見せてくれるんだろう……って。シャッターを切るたび思いを巡らせていた私の真ん中には、ちゃんと君が、無一郎くんがいてくれたんだから。
 あの日々をたったひとことで否定してしまうのも、君と出会って変わった私を隠して引っ込めてしまうのも、嫌で。「違わないよ」とこぼしてしまうと、無一郎くんは一瞬だけ目を丸くして、それから「うん」とまたぽかぽかの笑顔で頷いた。
 君はそっけなかったけれど、微かに揺らぐ喜怒哀楽はいつだって豊かだったのを知っている。たった数センチのきらめきまで読み取れるくらい君を見ていた私には、むき出しの感情が眩しくてたまらない。
「ねえ、今度見せてよ」
「うん……」
 まっすぐさに勝てないまま、うなだれるみたいにそう答えてから、ふと思い出す。全部じゃないけど、スマホにちょっと写真があったかも。「今ちょっと見る?」とスマホを取り出して尋ねれば、無一郎くんは少し考えた後、「いいや」と静かに首を横に振った。
「そ、そう……?」
「うん。だってさ、次会う理由がなくなっちゃうでしょ」
 だから次に取っとくよ、なんて付け足されて。数秒ぽかんと口を開けてしまってから、どきどき湧き上がってくる鼓動をなんとか噛み殺すみたいに口をつぐむ私は、ひどく間抜けな顔をしていたと思う。

 ……ちがう、落ち着け私、これは恋じゃない。こんなにも歳の差があって、私は大人で、君をまだ守るべき子どもだと思っていて、だからこれは恋にはならなくて、君が大切で、それだけ。私に否定する資格はないけれど、無一郎くんのその気持ちだって、いつか魔法が解けるに違いないのだから。ぐっと息を吸い込んで、「いつでも会いにきたらいいよ」と、声が震えてしまわないように言った。
「ご飯食べにおいでって、私言ったでしょ」
「ふふ、うん、そうだったね」
「あの頃みたいに、ふつうに……」
 ふつうってなんだろう、と口に出してすぐ思って、そうやって言葉が止まった一瞬、無一郎くんが私を呼ぶ。やっぱりあの頃とは違う、「さくらさん」なんて呼び方で。
「僕はね。さくらさんのこと、好きだよ」
「……」
「それだけ忘れないでおいてね」
 心を見透かしたように釘を刺されて、顔に熱が集まるのを止められない。つい顔を覆ってしまう私に、無一郎くんが笑うような気配がして、ああもう情けない。
 君を傷つけたくなくて、でも私も傷つくのが怖くって。そんな自分勝手な感情を引きずったまま、君の“好き”を突っぱねられないでいる。前途多難だと思うのに、ただ君が目の前にいてくれる事実に胸は高鳴って、きっと素直じゃないのは私の理性だけだった。



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