カルピスに恋する




※現パロ
SHISHAMOの「恋する」という曲の歌詞が、作中後半に出てきます。そのシーンは歌詞と照らし合わせていただいた方が、お話がわかりやすいかと思います。







私と善逸は、高校に入ってからずーっと友達だった。大親友、ちょっと恥ずかしい言い方だけど、そう言っても良かったような気がしている。
どうして過去形なのかって?
それは、高校で丸2年と少しを善逸と一緒に過ごしてきた私が、もう善逸のことを友達だと思えなくなってしまったから、だ。




高校入学1日目、隣の席に座っていたのが善逸だった。私の彼への第一印象は「関わりたくない」だ。
だってキラッキラの金髪で、気怠げな表情をしていて、明らかに素行不良のヤンキーだと思わせる雰囲気があったから。

でもそんな私の気持ちも知らずに、担任教師は「とりあえず隣の人と自己紹介し合ってみよう」なんて言い出して。
恐る恐る隣を見ると、その色素の薄い瞳と視線がかち合った。あれ、綺麗だな、そんなことを考えた瞬間。


「ギャァーッ女の子がこっち見てる!!!!」


一瞬、誰がそんな叫び声を出したのかと焦って周りを見回した。
でもそれは、少しざわついていたクラス中の注目が、一気に彼に集まったことで分かってしまう。
隣の、金髪ヤンキーだ。
改めて隣を見ると、さっきの気怠げな表情はどこへやら、真っ赤な顔を押さえてプルプルする彼がいる。私が思わず吹き出すと、ピンと張り詰めていた教室の空気が緩んで、皆が彼を見て笑った。

後から聞いた話だが、この時の気怠げな表情はモテるためだったんだとか。
何故かモテる彼のお兄さんの真似をしたかったらしい。
「お前のせいで高校デビュー失敗した!」なんて、意味のわからない責められ方をしたりしたっけ。


そんなこんなで、私と善逸はよく話すようになった。
すぐ女の子にデレデレする善逸でも、しょっちゅう関わる私にはどんどん慣れていったようで、自然とお互い気兼ねなく話せる仲になっていった。
私のほうも、ノリがよくて面白い善逸と過ごすのが楽しくて、二人で遊んだりもすっかり普通のことになっていた。


お互いに、恋愛相談もたくさんし合った。私は冨岡先生が大好きで、善逸は「やめとけやめとけ」と常に言っていた。


「冨岡先生、かっこいいのに」
「はぁ〜、お前なぁ、俺なんてほぼ毎日殴られてんだぞ?あんなスパルタ暴力教師のどこが良いんだよ」
「冨岡先生を悪く言わないで!クールで多くを語らない感じ、格好良いじゃん!」
「ふーん、お前はああいう感じが好みなの?」
「そうだよ!タイプにどんぴしゃなんです!ホームランだよ」 


そうかよ、って楽しそうに笑っていた善逸。
彼にも好きな女の子が居たらしくて、よく話を聞いた。ふわふわして女の子らしくてすっごく可愛い、私みたいなハキハキした女とは真逆の感じの子だったなあ。


「お互い、好みが真逆だよねえ」
「な。でもだから、こうやって友達で居られるんだろ」
「そうだね。善逸はね、私のマブダチだよ」
「マブ…初めて聞いたわそんなん!やめろよ死語!」


軽くデコピンされて、「やっぱ善逸は冨岡先生とぜんっぜん違うなあもう」なんて言った私。
あーあ、なんであんなこと言っちゃったんだろう。


今まで、こんなにも仲が良い男友達なんて出来たことがなかった。なんでも話せて、誰より信頼できて、「お互いの結婚式のスピーチしようね」なんてゆびきりして。
だからね、だから私、これがまさか恋になってしまうなんて、思いもしなかった。
今もこれからも、大人になってお酒が飲めるようになってからも、くだらないことでずっと笑い合っていけるんじゃないかって、ずっと素敵な友達でいられるんじゃないかって、なんとなく思っていたから。


 

***





なんの因果か私たちはずっと同じクラスで、三年生のクラス替えでも同じになったとき、二人でお腹を抱えて笑った。


「なまえ」


三年生になって、2ヶ月ほど。進路をもう考えないといけない時期で、今日は5限目に進路希望票が配られた。
手触りのあんまり良くないそのプリントに、クラスと名前を適当に書き込んでから、たくさん並んだ記入欄を見つめる。進学、就職、第一希望、第二希望、来週までに提出。ぼーっと活字を追って脳内で読み上げていた、そんな私の意識を引き戻したのは、善逸の短い声。


「どしたの?」


私が顔を上げると、椅子に跨るみたいに逆向きに座った善逸が、口と鼻のあいだにシャーペンを挟んでこちらを見ていた。


「…なにしてんの?」


少し笑いながら質問を重ねると、ちょっと誇らしげな顔をした善逸がシャーペンをつまみ上げて、くるくる回し始める。


「これ、トレーニングになるらしいよ」
「えぇ? うっそだぁ。なんの?」
「本当本当。表情筋に効いてなんか色々良いらしいよ。なまえちょっとググって」
「嫌だよ面倒くさい」


えー、とか口を尖らせている善逸から目を離して、また進路希望票を覗き込む。
進学か就職か、私はそんなことも決め切れていない。それに今はそれどころじゃない、好きな人とどうするかを考えなきゃいけないんだから。
こんなこと大人に言ったら、幼稚だと笑われてしまうんだろうけど、私は至って本気だった。


「…なまえは、どーすんの?」
「え?」
「進路。進学すんの?」


どきりと心臓が跳ねたけど、ただの進路の話題だったことに、安心したようなガッカリしたような。うーん、と首を傾げてみせると、善逸が目を瞑ってから「ふーん」と口角を上げた。


「ドキドキしてんじゃん。進路、決め切れてないんだね」
「お得意のアレですか? もー、やめてよ」


よくこうやって私の『音』を聞いてくる善逸に、恋心がバレてしまわないかと思ったこともあったな。
正直、結構ドキドキしてしまってると思うんだけど。
それでももう呆れるほどに善逸の態度は何にも変わらないので、私がドキドキしている時ぐらいはちょっと意識してくれないかな、なんて今は思ってしまっている。




善逸の手元で回るシャーペンが突然、バランスを崩して落ちた。床からそれを拾い上げて手渡すと、「ありがと」なんて甘い笑顔で善逸は笑った。


「今日さあ、カラオケ行かない?」
「今から?」


またくるくるとシャーペンを回し始めた善逸が、「そ」と短く答える。


「俺今日チャリで来てるから、駅前のとこまで乗せてけるし」
「ありがたいけど…二人乗り、また注意されちゃうかもよ?」
「見つかる前にお前がサッと降りれば問題なし!」
「えー、なんて人任せな」


くすくす笑ってから、「ま、いいよ」と答えると、善逸は小さくガッツポーズをしてみせた。
チャイムが鳴って、担任が入ってくる。五限で終わりだから、今からホームルームだ。

あっさり私に背中を向けて座り直す善逸を見ていると、いろんな感情が湧いてくる。大きな背中だなあ、とか、相変わらず綺麗な金髪だなあ、とか。
二人でカラオケに行くのだって珍しいことじゃないけど、善逸はすっごく歌が上手いから、今行ったらもっともっと好きになってしまうかも、なんて、ね。

くだらないことを考えていたらホームルームの時間はすぐに過ぎて、私より早く帰り支度を済ませた善逸が「早く行こーよー」なんて急かしてくる。


「はいはい、カラオケは逃げないよ」
「わかってないなぁお前。混んでくるかもしれないだろ」
 

また「はいはい」なんて適当に返事をしながら、カバンを肩に掛けながら立ち上がると、机に座るみたいにしていた善逸も「よっ」なんて声をあげて立ち上がった。
並んで廊下を歩くと、善逸の方が頭ひとつ分身長が高くて、思わず「大きくなったね善逸」なんて言ってしまった。


「は?なにが?」
「身長伸びたよね、すっごく」
「ん、まぁね。高校入って10センチとか伸びたよ」
「へ、そんなに? 成長期だ」
「一時期、成長痛で寝れんかったしなあ」 


本当に、かっこよくなったなぁ、って思う。
一年のときはわりときっちり着ていた制服も、今は程よく着崩されていて、緩んだネクタイや捲られた袖がよく似合う。いつしか髪の毛もセットしてくるようになって、少し分け目が作られた前髪はなんというか目に毒だ。もちろん良い意味で。

駐輪場に着くと、善逸はポケットから可愛い鈴のキーホルダーがついた鍵を取り出して、がちゃん、と自転車のロックを外した。
まだ一年のとき、鍵なくしかけたからキーホルダー付けようかな…なんて言う善逸に、これなんかどうよ!と私の家にあったものを持ってきて渡したのだが、そこからずっと、私があげたものを付けてくれている。


「カゴに鞄乗せなよ」
「え、いいよ」
「なんで遠慮すんの、いいから乗せて」
「あ、ありがとう」


二人分の荷物を乗せた自転車を、善逸が押して歩いてくれる。
さりげない優しさに、どんどん格好よくなっていく見た目。入学したてはそうでも無かったけど、最近の善逸は女子たちに一目置かれていた。何にも考えていなかったけど、お互いに恋人ができたら私たちはどうなっちゃうんだろうなあ。

ぼーっと思考に沈みながら歩く私に、善逸は「そろそろ二人乗り、良いかなあ?」と聞いてくる。
校内だと冨岡先生が竹刀を持って走ってくるので、いつも離れた場所から二人乗りをしていた。いや、本当は二人乗りはダメだけどね。
前まで冨岡先生に絡まれるのが嬉しくて善逸を巻き込んだりしていたけど、いつからかもう、そんなことはしなくなっていた。いや相変わらず、冨岡先生はイケメンだとは思っているけど、そういうんじゃないというか。


「いいんじゃないかな、結構離れたし」
「校門出てすぐじゃトミセン追いついてくるもんな」
「はは、そんなことあったね」
「でもなまえは嬉しいだろ、構ってもらえて」
「んー、まあ、そうかな」


そんな会話をしながら、善逸の自転車の後ろに乗って、善逸の腰に手を回す。
少し前までなんの抵抗もなくできていたそれが、いつのまにか難しくなっていた。

最近こうやって、難しくなったことが増えた。
「我妻と付き合ってるの?」なんて聞かれて「そんなわけないじゃん!善逸と私はマブダチだもん!」って答えるのも、女の子にデレデレする善逸の背中を叩くのも、「これ飲む?」なんて自然に間接キスをするのも、善逸のジャージを借りるのも、全部、全部。難しくなってしまって、大袈裟だけど生きづらいな。
だって恋愛って本当に、面倒で難しい。私はただ善逸と一緒に居たいだけなのに、好きになってしまったばっかりに、それが難しくなるなんて。

回した手から、善逸の体温が伝わってくる。シャツは少しだけ汗で湿っていて、小さく息を吸い込んだ鼻をくすぐるのは、いつも善逸が使っている制汗剤の爽やかな香りと、ほんの少しの汗の匂い。


「え、なに、汗臭い?」


私が息を吸い込んだ音が聞こえたのか、少し焦ったような声が聞こえてくる。なんだかかわいらしくて、笑いが込み上げた。


「…うーん、ちょっと?」
「うわ!ごめんなさいねえ!だって今日暑いからさあ」
「悪いとは言ってないけどね」


そう言いながら、ちょっぴり勇気を出して背中に顔をつけてみると、当たり前だけど善逸の匂いが濃くなって、ほっぺたまで善逸の温もりが伝わってくる。
なんだかまるで、抱き締められてるみたいだ。そんなことを考えて、少し泣きそうになった。

そうだね。ただ一緒に居たいだけなんて、嘘。本当は善逸にも私のこと、好きになってもらいたい。他の女の子みたいに可愛がられたい。
できることなら、抱き締められたい。少しずつ欲張りになっている自分がいることに、気付かないふりをしていたかった。


「くっつくなよ、汗臭いんだろ」
「悪いとは言ってないってば」
「俺が嫌だよ、汗臭いって思われるの」 


生温い風を切る自転車が、キキッと音を立てて止まる。周りを見回すともう駅前で、降りないとお巡りさんに注意されてしまうかもしれない。
たん、とローファーを鳴らして飛び降りると、善逸にくっついていた頬が、腕が、さっきまで生温かったはずの風に晒されて、一気に冷めていく。
くっついていても許される時間が終わって、体温が交わらない距離で歩くことが、いつものことなのに妙に寂しく感じた。

二人で連れ立ってカラオケ店に入ると、聞き覚えのあるBGMに包まれる。あ、これ善逸が好きなバンドだ。


「フリータイムでいい?」
「うん」


善逸がペンを握って、『アガツマ』と名字を書く。
その手や文字ですらなんだか愛しく思えてきて、ベタだけどぶんぶんと頭を振ると、「なにやってんの」と善逸が笑う。
「なんでも」と返事をすると、善逸はなにも言わずに歩き出すから、私も黙ってついて行った。


私たちは音楽の好みが合って、いや、いつも話すからお互い無意識に合わせていて。だからお互いが歌う曲に、あんまり知らないものはなかった。

でもひとつ。本当にしょっちゅう聴くのに、一度も善逸に教えたこともなければ、カラオケで歌ったこともない歌があった。初めて聴いた時は他人事だと思っていたのに、今はほかのどんな歌よりも、胸に刺さってしまうようなその歌詞。
私の気持ちを代弁するようなそれを、善逸にも聞いてほしいと思ってしまう私がいた。だから今まで何度かカラオケで入れようとして…でも、ずっと勇気が出なかった。別になんでもないよって言えばいいし、きっと考えすぎなんだろうけど、今日もまた私は当たり障りのない歌を入れていく。


「あ、それ俺が歌いたかったやつ!」
「まーまー、後でまた入れたらいいでしょ」
「点数競うことになるじゃん!」
「いいじゃん、善逸のほうがずうっと上手なんだからさ」
「ええ?そんなことないよ」


いつもみたいなやり取りをして、時々笑い合って。こんな居心地のいい関係、想いを伝えるのはちょっとリスクが高すぎるなって、やっぱり思う。
そんなことを思っていると、私が歌い終わって、そこで音楽が切れた。


「あれ、善逸、入れないの?」


マイクを置いて聞くと、「んん」と小声で唸った善逸も、選曲パネルを机に置く。
それから、向かい側にいたのにわざわざこちらに移動してきて、一人分くらいの隙間を開けて隣に腰掛けた。私のほうをじっと見てくるから、「な、なに?」と言いながらつい目をそらしてしまう。


「…なまえさ、進路、どうすんの?」
「…え」


その数時間前にも聞いた気がする質問に、目が泳ぐ。冗談抜きでまるっきり決められていない私は、俯きながら小さく「わかんない」と答えると、「そっか」と短く返された。


「善逸は、どうするの?」
「…俺も、わかんない」
「…そっか」


目の前にある大きなモニターで、アイドルユニットが新曲の宣伝をする声がやけに大きく響いている。そんなこの部屋は、賑やかなはずなのに沈黙が重かった。


「俺たち、どうなんのかな」
「…どう、って?」
 

恐る恐る隣に視線を向けたけれど、善逸は自分の指を見つめるみたいに俯いていて、表情は見えない。


「…卒業したら…どう、なんのかな」
「…そつ、ぎょう」


ゆっくり顔を上げた善逸と、視線が交わる。ああそうだ、私たち、高校生じゃなくなったらどうなるんだろう。進学や就職や、そんな進路が決められなくたって、否応なく卒業はやってくるわけで。

私たちを繋ぐものは、ひどく不確かで不透明だ。だって卒業してしまってから、善逸に会う理由がうまく見つけられない。
友達だから?同級生だから?
もしかしたら、時々会えるかもしれないけど。今みたいにこうやって毎日くだらないことで笑い合って、だらだらと友達として過ごしていくなんて、きっともうできやしない。


「ごめん変なこと言って。ちょっとトイレ行く」


立ち上がった善逸のポケットの中で、鍵にくっついていた鈴がちりんと鳴る。
私の返事を待たずに部屋を出た善逸を見送って、大きく息をついた。それから善逸の置いていった選曲パネルを手に取って、ゆっくり入力していく。

私ね、善逸は全然好みのタイプなんかじゃないよ。
善逸みたいな可愛らしい顔より、冨岡先生みたいなキリッとした顔が好き。
甘ったるく笑われるより、真剣に見つめられる方が好き。
情けなく泣き付かれながら名前を呼ばれるより、ビシッと低い声で呼ばれる方が好きだよ。
全部全部、話したよね。だから私の好みは、善逸が知ってる通り…の、はずだったのになあ。

ピピッ、と電子音がして、私の打ち込んだ曲名がモニターに吸い込まれていくと同時に、部屋のドアが開いた。


「善逸」
「…どした?」
「あの、ドリンクバーも、トイレも、行かないで、ね」
「え?」


善逸が聞き返してくる声は、部屋に響くドラムの音にかき消される。一度大きく深呼吸をすると、善逸がさっきよりも少し近くに座った気がした。

「わかった」と答えた善逸と、数秒、視線が交わって。また目線をモニターに向けて、息を吸い込んだ。


歌い出し、少し声が震える。やっぱり少し露骨すぎる選曲かな。だけど、私にはこれぐらいしかできないや。直接言って振られてしまったら、もう本当に後戻りできないから。逃げ道がないと、伝えたりなんかできないんだもん。

一番が終わった。間奏のあいだ右側は見られないまま、二番が始まる。今まで赤くなったことなんて無かったはずなのに、今、顔が熱くて仕方ない。声が時々震えて、入れっぱなしだった採点の音程バーからところどころ外れてしまう。マイクを握る手にも、汗がじんわり滲んで。せっかくリップを塗った唇もどんどん潤いが奪われて、かさかさになっていく。

二番も、終わって。少し長い間奏がやってくる。マイクを口元から外さないまま、ぎゅっと握りしめる。泣きそうになって唇を噛み締めてから、思い切り息を吸い込んだ。

もう採点バーが仕事をしないぐらい、がたがたに外れているけど。そんなことを気にする余裕もないぐらい、もう、歌詞を読み上げているみたいに、なんとか言葉を繋いでいく。


「悪ふざけでもいいから、一度私のこの手を握って」


右側を見られないけど、ちりん、小さな鈴の音が聞こえたような気がした。


「友達だなんて、思ったことはない、とか言って見せてよ」


じわり、目が熱くなった。がたがたの採点バーがぐらぐら滲んで、それでも思いっきり、もう一回息を吸い込む。


「一瞬でいいから、私のこと女の子だと、思って接してみてよ」




ごとん、なんて重たい音を立てて、マイクが床に転がった。歌われることのなくなったサビの音楽が、所在なく部屋に流れる。


「ずっと、俺は」


手首を掴まれてマイクを取り落とした私の右手を、善逸が両手で包み込む。顔が見られなくてその大きな手を見つめていると、私の目からこぼれ落ちた雫が、そこに数滴落ちた。


「女の子だと、思ってるよ、お前のこと」


顔を上げると、握られた手に力が込められる。
「聞いてよ!俺、握力65キロあった!」なんて言いながら、思い切り握られてその痛みから喧嘩しことをぼんやり思い出す。
当たり前ながら、その時よりも弱い力で握っているはずなのに、今はずっと力強く感じた。


「…悪ふざけ?」


かき鳴らされるギターに飲み込まれてしまいそうな、小さな声で問いかけてみる。でもいつも、善逸はこんな声だって、絶対に聞き逃さない。
彼は、ゆっくり首を横に振った。
握っていた手を片方だけ離して、その手で私の髪を耳にかけてから、唇を耳に寄せる。


「本気」


どくん、と、心臓が跳ね上がった。そしてその甘い音を紡ぎ終えた唇は、元の場所に戻ることはなくて。
あと数センチでもう溶け合ってしまいそうな距離で視線をからめた後、私の唇に吸い込まれるように触れ合った。


「…唇、かさかさ、なのに」


離れてすぐ口をついて出た言葉は、なんとも可愛げのない台詞。うろたえる私を見て、善逸は眉を下げて笑った。


「…大丈夫」


そう言って、またゆっくり唇を寄せられて。慌てて目を閉じて受け入れると、握っていた手が解かれて、ゆるゆると背中に回された。

ギターとドラムのアウトロが消えるその瞬間、唇が離れて。


「なまえ」


善逸の琥珀色が、近い。こんなにもずっと近くにいたのに、私たちはずっと歩み寄ることができなくて。本当は一番遠い場所にいるのかもしれないと、何度も思った。
だけど、ずっとずっと焦がれたその色が、手の届く場所にある。目の前で、私を求めるみたいに揺らめいている。


「好き」


その言葉を聞いて、もうほとんど体が勝手に動いた。
気付くと善逸の背中に手を回して、その胸に顔を埋めていた。
思い切り息を吸い込んで、一度吐き出してから、「私も」なんて口に出したら、また涙がこぼれ落ちた。


「俺、卒業しても、毎日変わらずお前に会いたいよ」
「…うん、私、も」
「本当はずっと…こうやって、抱き締めたかったし」
「わ、たしも」
「…私も、しか言ってないじゃん」
「ご、めん」
「いいよ、ねえ、俺も…ずっと言えなくて、ごめん」


ぐりぐり顔を擦り付けると、「こら、服で涙拭かないの」なんて言われて、涙も止まらないのに小さく笑いが漏れてしまった。


「…俺さ、なまえが俺のこと好きになってくれるなんて思わなかった」
「な、なんで?」
「だって俺、お前の好みと丸っきり逆だよ。クールでもないし、ビビりだし、泣きますし…」


善逸の尻すぼみな言葉に、鼻をすすりながら「うん、ほんとだね」と返すと、「おっおまえ!」なんて声が飛んでくる。


「でも、ちゃんと好きだよ、善逸の全部が」


きっかけも思い出せないし、気付いたら離れたくなくなってしまっていて、どうしてか尋ねられてもすぐには答えられないけど。
ちゃんとまっすぐ、善逸に恋をしているのは確かだった。


「泣いちゃうとこも、いきなり1円玉立てて遊び始めるとこも、寝癖つけたまま学校くるとこも、すっごく好き」
「…俺だってなあ、好きだよ。カーディガンのボタン付け失敗して穴開けたとこも、しょっちゅう寝坊するとこも、既読無視ばっかするとこも大好きだからな」
「…なにそれ」
「なんだよ、なまえが言い出したくせに!」


体を離して、それから睨んでやろうと思ったけど。
目が合ったら吹き出してしまって、二人でしばらく笑い合って、それからもう一度、どちらからともなくキスをした。



善逸とはずっと友達だったし、これからもずっとそうなんだろうと思ってた。でもやっぱり、その可愛い笑顔を向けられるたびにドキドキするの。

こんなの、初めてだった。でもこれまでずっと、憧れみたいな恋愛しかしてこなかったから。
もしかしたらこれが、本当に恋するってことだったのかな、なんて。

さっき空いていた一人分の距離はもうなくなって、私たちはぴったり体をくっつけて座っていた。
善逸の太腿に置かれた手にそっと自分の手を重ねてみる。すぐに握り返されて、ゆっくり指が絡められた。
 

「本当は、かっこいいと思ってるよ」
「…俺だってなまえのこと、めちゃくちゃ可愛いと思ってるから」


目線を上げて善逸を見ると、細めた目から覗く琥珀色が、私を蕩けそうなほどの幸せに誘い込んでくる。
やっと、やっとだ。思わず、頬が緩んだ。ずうっと壁一枚隔てたところにいるみたいだった善逸の隣に、やっと来られたんだもん。

言い表せない程に嬉しくなって、でも善逸の熱い視線が少し恥ずかしくて。
照れ隠しに軽くほっぺをつねると、「やめろよ」なんて嬉しそうな声が聞こえてきた後、また唇に体温が重なった。



20200525




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