月が綺麗な夜なので




 そんなに遅くなんねーと思う、ってわたしの頭を軽く撫でて、豹馬くんは日が暮れる頃に仲間内での飲み会に出かけていった。子どもじゃあるまいし、年上ゆえの変なプライドだってあるし、行かないで、なんて言わないけれど。ちょっと下がり始めた気温とか、もうすぐ豹馬くんがイギリスに戻っていってしまうことだとか、じわり、じわりと。紙に滲むインクみたいに広がるのは、きっと「寂しい」って、そんな名前がついてしまう感情。
 わたしも豹馬くんもどちらかといえばよくお酒を飲むほうで、家にはあれこれとお酒や割り材が揃っている。……別に、寂しいからとかじゃなくて。なんとなくグラスを手に取って、小さくこぼしたため息がやけに静かな部屋に響く。シーズン中は会えることのほうが珍しくて、そのあいだ当然この家にはわたししか帰ってくることはない。だからひとりの夜なんてすっかり慣れているはずで、それなのに、豹馬くんが近くにいると欲張りになってしまう。

 何杯目だっけなあ、って、ふわふわ覚束ない思考のなかで数えてみる。顔が熱くなる感覚が久しぶりで、ちょっと飲みすぎたかもなあと思いつつも、なんとなく手が止められないでいた。溶けた氷でグラスはじっとりと汗をかいていて、ぽたり、脚に冷たいしずくが落ちてくる。なんだか泣いてるみたい、って。そう思うと目頭まで熱くなって、心がぐらりと揺れてしまって、視界が滲んできて──
 途端、するりと滑るみたいに、手の中から冷たさが飛び出していった。どきりと心臓が跳ね上がって、まわらない頭で状況を理解するよりも早く、焦がれた声が聞こえてきて。
「はいストーップ」
「あ、」
 弾かれたみたいに振り返ると、「なにしてんの、なまえ」って。蛍光灯の逆光の中、くらむ視界に眩しい色がうつる。……豹馬くん? まばたきを繰り返してしまうと、すこし顔をしかめた豹馬くんが立っていて、彼の手の中でからんと氷が鳴いていた。
「……え、あれ……豹馬くん?」
「ん、豹馬くんだけど」
「なんで……」
「なんでって、帰ってきたに決まってんじゃん」
 なんで、豹馬くん、なんでいるんだろう。帰ってきたって、あれ、いま何時だっけ、ねえ、豹馬くん。まとまらない思考をかき集めるわたしの前にしゃがんで、ずいっと顔を覗き込んでくる豹馬くんに、思わず軽くのけぞってしまう。
「こら逃げんな」
「っ、わ」
 片手でほっぺたを挟むみたいに掴んできた豹馬くんに、やめてって言ってみたけれど、口までゆがんだせいでうまく言葉にならない。「真っ赤じゃん。飲み過ぎだろ」なんて言ってくる豹馬くんの手が冷たく感じたのは、たぶんわたしの顔が熱いせい。
 けれどそれも束の間、豹馬くんはふっと手を離してしまって。そのままもう片方の手に持っていたわたしの飲みかけのグラスを一気に煽るから、何度か豹馬くんの喉が動くあいだ、もう充分に熱い身体がまた火照ってゆくような気がしてしまう。テーブルにグラスがぶつかって、残された氷が揺れる音でつい肩を震わせると、「もう今日は終わりな」なんて、豹馬くんは軽く眉を上げた。
「んー……」
「ほーら、頭まわってねーじゃん」
「そんなことない……たぶん」
「あるっつーの。もう寝んぞ」
 わしゃわしゃ、頭が揺れるぐらい髪をかき回されて、ぐらぐら揺れる視界に目がまわる。小さく呻いてしまうとその手は止まって、そして。手のひらは頭に乗っけたまま、「なまえ、寂しかった?」って、目を細めた豹馬くんがわたしを見つめている。
 うん……うーん、寂しかった、のかな。寂しかったような、そんな気がするけれど、今は。目の前に豹馬くんがいて、ぬくもりが触れていて、君の香りがして、ちゃんと帰ってきてくれた。だから、もう。
 ようやくほどけ始めた混乱の中、「さみしくないよ」ってこぼした声は本心だったはずなのに、焼け付くみたいな喉がつんと涙腺を刺してしまう。止める間もなく滲んであふれたしずくを、顎まで伝ってしまうより早く、豹馬くんの指が受け止めてくれた。
「強がり」
「……違うもん」
「意地っ張り」
 むっとするわたしの頬をかるくつねって、豹馬くんはふっと脱力するように笑ってみせる。今は、ほんとに違うのに。でもなんだかどっちでもよくなって、つられるみたいに笑おうとして、けれどまたほろりと涙はこぼれてきて、そんなぐちゃぐちゃの感情ごと受け止めるみたいに、豹馬くんはわたしを抱きしめてくれる。
「ホンット可愛いな、素直じゃなくて」
「……」
「怒るか泣くかどっちかにしろよ」
「怒ってないし……」
 背中をとんとんゆるく叩いて、次は髪を撫でつけて、そうやってわたしに触れてくれる豹馬くんの手のぬくもりを、わたしはちゃんと感じられる。
「よしよししてやるから機嫌直せよ」
 怒ってないってば、と口を尖らせかけたけれど、よしよししてもらえるのはやぶさかではない。黙りこくっていると、喉の奥で小さく笑った豹馬くんが、「それか、抱っこで寝室連れてってやろーか」なんて。また魅力的な提案をしてくるものだから、普段は閉じ込めている甘えたい気持ちが、じわじわと湧き上がってきてしまう。
「……んー……」
「なに」
「…………どっちもがいい」
「はいはい。仰せのままに」
 ぱっと離れた豹馬くんは、一瞬、わたしのおでこに触れるだけの口づけをくれる。けれどその余韻に浸る間もなく、ひょいっと軽々横抱きにされてしまうから、わああ、なんて間抜けな声が漏れていった。
「じたばたすんなよ」
「お、重くない?」
「ぜんぜん。よゆー」
 俺のことなんだと思ってんの、なんて言って豹馬くんは笑う。プロサッカー選手ゆえの鍛え抜かれた肉体の話をしているのだろうけれど、そんな何気ない問いかけに、わたしがとっさに思い浮かべたのはいつかの小さな君だった。まだ背丈が変わらないようなころに、どうしてだったかわたしをおんぶしようとした豹馬くんは、「重い、ムリ」なんて失礼なことを言ってくるからわたしは怒ってしまって。そんなささいなケンカを、なんの変哲もないゆるやかな仲直りを繰り返して、わたしたちは今日も隣にいる。……そう思うとたまらなくなって、首元にぎゅっと抱きついた。
「……昔、重いって言われた気がする」
「あー……んー、俺は覚えてねーからノーカンで」
 明らかに心当たりのある顔をしているけれど、まあそう言うのなら、覚えてないってことにしておいてあげようかな。心地よいぬくもりに揺られながら、まだベッドに着かないといいのになあ、なんて、ばかみたいなことを考えている。



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