あなたの瞳で染め上げて




「なまえ、準備できた?」
 洗面所にひょっこりと顔を覗かせた豹馬くんの、なめらかな毛先がぴょんと跳ねる。ポニーテールにしてまとめられた赤い髪は相変わらずほんとうに綺麗で、何年経っても飽きずにやきもちをやきそうになってしまうほど。……そんな豹馬くんを何年もずっと見つめていられるのは、紛れもないわたしの特権だと思うわけだけど。
 そして今日わたしたちは朝から出かける約束をしていて、豹馬くんはすっかり準備を終えていて、わたしは身支度が終わるまであと少しといったところだった。
「うー、ごめん、あとちょっと」
 待たせている申し訳なさから謝ったものの、豹馬くんはこういうとき急かしたりはしない。案の定「いーよ謝んなくて」と言ってくれた豹馬くんは、そのままリビングのほうにでも戻るのかと思いきや、柔い足音を響かせてわたしのほうへ近づいてきて。え、なんて思っているあいだに、鏡越しに視線が交わった。
「リップまだ?」
「あ、え、うん、まだ」
 豹馬くんが言い当てたとおりにわたしの唇はまだうすい色をしていて、何色を乗せるかすら今から決めるところだった。すると豹馬くんはちょっと散らかった化粧品たちを見つめて、わたしがなんとなく何も言えないまま待っていると、「俺が選んでい?」なんて言う。再びわたしのほうを向いた豹馬くんの表情は、いたずらを思いついた少年のような無邪気さに満ちているはずなのに、その瞳が一瞬、焼け付いてしまいそうな光を孕んだのをわたしは見逃せなかった。なんとなく目を逸らして、あわてたまんま「いいよ」と言ってしまってから、「え、リップの色だよね?」と順序のおかしな質問をすると、「そ」と豹馬くんはみじかく答える。
 どうやらわたしの気の急いた「いいよ」をそのまま受け取ることにしたらしく、豹馬くんの指がリップの入ったケースからひとつを摘んで、ぱか、と小さな音を立てて蓋を開ける。ふーん、と品定めをするようにそれを見つめて、かちりと蓋を閉めて、また次を摘んで。
「どうしたのいきなり」
「なんとなく。普段どんなん使ってんのか普通にキョーミあるし」
 豹馬くんはすごくおしゃれが好きで、服やアクセサリーはもちろんのこと、香水にもこだわりがあるし、メイクも詳しいわけではないものの関心は持っていて。わたしがちょっと普段と違うアイシャドウを使ったときも、「その色似合ってる」なんて細かいところに気がついてくれたりするのが嬉しかった。けれど積極的に選びたがるとかそんなことはなかったから、今までにないことにわたしはちょっとだけ戸惑っていて──でもなんだか、わたしの好きなものに嬉しそうに触れる豹馬くんを見て、わくわくしてしまうわたしもいたりなんかして。
「似たよーな色いっぱいあんのな」
「えー、ちゃんと違う色だよ」
「そもそもすげー数だし」
「豹馬くんも似たよーなスニーカーいっぱい買うじゃん」
「似たよーなのじゃねえんだけど」
「じゃあわたしのも違うよ」
 こそこそ言い合いをして、くすくす笑って、洗面所の鏡にうつるわたしたちは鮮やかに色付いている。まあリップはついつい買い過ぎてしまうし、でもつけられる色は限られているから、豹馬くんの指摘も当たらずとも遠からずなわけだけど。でも実際そんなことはどうでもよくって、今はただふわふわ漂うわたあめみたいな幸せに満たされていたいから、黙って豹馬くんの手元をながめていた。
「これどーやって開けんの」
「ここ押して、ほら」
「おー開いた」
 変わったケースに目を輝かせたり、いろんな色を一通り確かめたりした豹馬くんは、「っし」と小さく声をこぼしてから、「これにしよ」と黒くつやめくリップケースをひらひらしてみせた。頷いて、「選んでくれてありがと」とちょっと照れくさくなりつつ言ってから手を差し出したけれど、豹馬くんは渡してくれるどころかひょいと持ち上げてみせて、わたしの手のひらは空を切ってしまう。つい目を瞬かせてしまうと、そのまばたきのあいだに豹馬くんは顔を寄せてきて、彼のお気に入りの香水が体温といっしょに香って、そのまま。
「俺がやりたい」
 耳元で、そう、ささめく。柔らかでやさしい甘さが、とたんに重くどろついたものに姿を変えてしまったような。低くおだやかなはずなのに、どこか甘えるような響きを含んだその声はまるで呪文みたいで、まんまとかかったわたしはいとも簡単に動きを止められてしまった。鏡の向こうで間抜けな顔をして固まるわたしの頬は赤くなっていて、鏡越しに目を合わせてくれた豹馬くんのするどい視線に射抜かれて、どんどん止められなくなってゆく。
 豹馬くんの手のひらがわたしの頬に触れようとしているのに、鏡に映るその光景はまるで知らない映画のワンシーンのようで。触れて、その手が熱くて、不可抗力で顔を上げてやっと、それが現実だと思い知る。
「だめ?」
 ……だめ、なはずない。細めた瞳でわたしを射抜いて、かるく口角を上げてみせる豹馬くんはわかっていて訊いている。だってわたしはいつだって、あなたのおねだりを断れない。「だめじゃない」と答えた声は消え入りそうで、つい尖らせてしまった唇に視線が注がれているような気すらしてきて、慌てて唇をしまいこむみたいに口を閉じると、豹馬くんはちいさく吹き出した。「それやめろって」と口元を撫ぜる親指に、ひとりでに力がゆるんでしまう。
「んじゃ、そのままこっち向いてて」
「うん……」
「目ぇ逸らすなよ」
 ばくばく暴れまわる心臓に急かされるように「うん」と返事をしてしまったけれど、目まで逸らさないでいる必要はないんじゃ、なんて。そんなことは言えないまま、わたしから手を離して軽く目を伏せた豹馬くんの睫毛を見つめていた。
 ぱか、とさっき何度か聞いた音がして、衣擦れのあとに視線がかえってくる。柔らかく影をおとす睫毛がゆれて、視界の端にうつる手はきっとリップを携えているから、豹馬くんにそうされる前にわたしはかるく顎をあげていた。好きにして、なんて口にするつもりはないけれど、言外にそう伝えているようなわたしを見た豹馬くんは、すこし眦を下げてみせて。「そ、いいこ」なんて言いながらまた頬に触れてくる。いくら見つめていたって飽きることはない瞳は、虹彩の模様まで美しいのだから敵わない。
 
 まずは、下唇に。一心にわたしを見つめながら、その手で選んだ色で触れてくる。柔らかなつめたさはすっかり慣れた感触のはずなのに、ぎこちなく唇の上をすべっている間、コンマ一秒ごとに体温が上がってゆくみたいだった。だって、息遣いまで聞こえてくる。
 ──豹馬くんと経験していないことなんて、もうないと思っていたのに。きっとこうやって後から後から見つかって、それは一緒にいる限りずっと。そう考えて胸に広がるわたしのささやかな喜びは知られることのないまま、下唇の左端まで触れたそれが上唇の左端にうつって、どんどん色づけられてゆく。豹馬くんが決めた色に、豹馬くんの手で、いまこの瞬間。下唇よりもすこしなめらかにすべっていった感触は、寂しいけれど愛おしい。そうして、離れてゆく。ことん、と響いた何かを置く音は、終わりの合図みたいだった。
「ん、できた」
 どうしてだかずいぶんと久しぶりに声を聞いた気がしてしまうのは、この一瞬がひどく長い時間に感じられていたからかもしれない。ありがとう、と言いかけた唇の端に突然柔く触れられて、「わり、はみ出てた」なんて歯を見せて笑う豹馬くんには、わたしの抱える名残惜しさなんてもうとっくにばれてしまっているんだろう。ちょっと悔しくて、恥ずかしくて、そのむず痒さまでもを幸せだと感じてしまうのだからどうしようもない。
「……ありがとう」
「ん」
「……どう?」
「めちゃくちゃかわいい」
 即答して、それから「死ぬほどかわいい」とまで追いかけるように言った豹馬くんは、大袈裟だけどきっと真剣だ。けれどわたしがほんとうにかわいいのかなんて今はどうでもよくって、豹馬くんがその言葉をくれることこそがたまらなく嬉しくて、それだけでよかった。
 うつむきがちに抱きついて、それはリップの色をうつしてしまわないように。そんなわたしを受け止めてくれた豹馬くんは、なんにも言わずにわたしの髪をそっと撫でつけてくれる。しばらくそうしてから、「じゃあそろそろ行く?」と降ってきた声にうなずいて、そっと身体を離した。幸せだな、一緒にいられるの。当たり前のことを当たり前に思いながら、今日のこれからに想いを馳せる。
「今日はキス我慢しねえと」
「そうなの?」
「とれるだろそれ」
「でもごはん食べたりしても多少とれるよ」
「えー、嫌なんだけど」
「そんな無茶な」
 くすくす笑いながら玄関に向かって、豹馬くんは唇をとがらせたままシューズクローゼットを開ける。そうしてその手はふよふよとさまよって、どのスニーカーを手に取るべきか迷って、そこでわたしは「あっ」と声を上げていた。すると豹馬くんは振り返って、不思議そうに首を傾げる。
「豹馬くん」
「ん?」
「……わたしが選んでいい?」
 ぱち、ぱち、瞬いた目が途端に緩められて、そのままはじけて広がるみたいに笑顔が咲いてゆく。「いいよ」と笑ってくれた豹馬くんに、つられてわたしの唇も弧を描いていた。
「ぜんぶいいから迷うね」
「だろ」
 一緒に覗きこんで、一緒に迷って考えて、その先にあるのはあなたを彩る権利で、それを明け渡されたわたしはきっと特別。わくわくと抑えきれない気持ちが込み上げて、それは選ぶほうも選んでもらうほうも同じなんだってこと、豹馬くんも感じてくれていたらいいな。



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