「あれ?苗字さんじゃないっすか」
「…たしか、猪野君、だっけ」
「はい!猪野っす!」
 苗字はたまにねじ込む休暇を買い出しで終わらせてしまうことが多い。家はほとんど風呂に入って洗濯をして寝るだけの場所になってしまっているから、食材を買うことは少ないが、それでも最低限の飲み物や非常食は置いている。時折、自棄になって飲むための酒も。
 今日も同様で、近所のスーパーと薬局に寄って必要なものを買っていただけで午前を消費していた。
 どれだけ平素より死にたいという願望を抱いていようが、不思議と腹は減る。餓死をしたいわけではないので、一旦荷物を家に置いてから、チェーンの喫茶店に入った。注文待ちの列でメニュー板を眺めていた苗字に後ろから声をかけたのは、後輩の猪野だった。
「お久しぶりっすね、元気してました?」
「それなりに。猪野君は?」
「見ての通りです、元気です」
 苗字の番が回ってきたために店員に呼びかけられる。さほど交流はないとは言えど後輩の手前、そのまま1人会計をするのも憚られた苗字は、レジ前から猪野を呼んだ。きょとんとした猪野に「一緒に払うから、おいで」と言って。
 良い意味で遠慮の無い猪野はすぐに寄ってきた。もちろん「ご馳走になります!」と言葉を添えながらだ。こういうのを「後輩力」とでも言うのだろうと苗字は思いながら、チャイラテとスコーンを頼んだ。猪野は少しだけ悩む素振りを見せてから、抹茶のフラペチーノを頼んでいた。
 会計を終え、列から外れて商品の出来上がりを待ちつつ、2人は会話を続けた。
「今日は休みですか?」
「うん。猪野君は?」
「俺も今日はオフなんすよ。苗字さんって休みの日はどうしてるんですか?」
「日用品の買い出しとか。たまにDVD見たり」
「へぇ、どんなのを?」
「昔のヒーローモノとか」
「意外」
 ドリンクの乗ったトレイを店員が差し出した。猪野がすかさずそれを受け取る。少しだけ温めてもらったスコーンの湯気と、2人分のドリンクの水面が揺れる。
 壁際のソファに苗字が、通路側の椅子に猪野が腰掛ける。たまたま会った流れはあるものの、奇妙な組み合わせではあった。
「暴れん坊将軍とかも好き」
「勧善懲悪系が好きなんですか」
「かもね。こういう仕事をしてると救いがないことの方が多いし。フィクションの世界では救いが欲しいのかも」
 スパイスの効いたチャイラテが脳天を刺激する。呪術師として生きることには慣れたつもりだが、それによって生じる疲弊は消えない。困っている誰かを助けるために命をかけて、それが報われてしまうフィクションの世界を羨ましく、そしてほんの少しだけ恨めしく思っていることに苗字は気付いた。
「なんか俺安心しました」
「なにに?」
「あの七海さんが尊敬する呪術師だから、なんていうか、こう、内心は無感情だったりすんのかなって思ってたんですよ、苗字さんのこと」
「失礼だな」
「あっ、すんません!」
 フラペチーノの上に乗った大量の生クリームを掬った猪野が、墓穴を掘ったと言わんばかりに謝った。他意がない発言だったことはわかっていた。猪野が言ったのは、いわば、子供の頃に見ていた大人が「大人」という超人的存在であったような、それくらいのことだ。猪野が、尊敬して止まない七海建人という呪術師を基準に置いたとき、苗字はかつての超人的存在としての「大人」にあたってしまうことは、言うまでも無いことだった。
「感情はあるよ」
「そう、っすよね…すみません」
「誰かの言うように呪術師なんてクソだと思うこともあるし、辞めてやろうかと思ったこともある。でも辞めたら、私の目標は達成されないし、って思って、ずっと続けてる」
「目標って?」
「…君の尊敬する『七海さん』にでも聞いてみな」
 答えてくれやしないだろうけど、とは言わなかった。頭を捻る猪野を眺めながらスコーンを千切って口に入れた。口内の水分が奪われる。すかさずチャイラテを口に含んだ。



 たわいもない会話をしていたところ、猪野の携帯に急遽仕事の電話が入ったのは5分前のこと。眉根を寄せてあからさまな不満を露わにした猪野は「やっぱりこの仕事ってクソっすよね」と言った。「そうだね」と苗字は静かに肯定し、残りのスコーンを猪野の口に突っ込んでやった、チョコの練り込まれたスコーンを咀嚼した猪野は、少々機嫌を取り戻したようだったが、代わりに深い溜息を溢した。
「また今度飯行きましょうね」
「君の言うそれは七海くんも来るでしょ。嫌だよ」
「かと言って苗字さんと2人とか、俺が七海さんに殺されますけど」
「…認めるのは癪だけど、そうかもしれない。まぁ、その場合は墓参りはしてあげるよ」
「殺される前提なのやめてもらっていいですか」
 補助監督が迎えにくると言っていたので、2人は道路に面した店の前で立ち話を続ける。普段1人で任務を行うことの多い苗字が誰かと長時間会話することは稀だった。否が応でも絡んでくる五条や、ほぼ苗字の専属補助監督になりつつある山田、あとは様々な意味で苗字を追い続けている七海を除けば、久しぶりの他者だった。
 遠くに見知った車が見える。
「じゃあ、ありがとうございました。苗字さんと話してみたかったんで嬉しかったっす」
「そう、ならよかった」
「七海さんに自慢しときます」
「骨は拾ってやる」
「あはは。飯の話、前向きに考えといてくださいね」
「気が向いたらね」
 目の前で停まった車に猪野が乗り込む。何度か担当してもらったことのある男性の補助監督が運転席に見えた。彼からも苗字が見えたようで、慌てて会釈をしている。苗字もゆっくりと頭を下げた。そんな光景をあまり気にすることなく、猪野は後部座席の窓を開けて、苗字に「じゃぁ、また」と言った。
 走り去る車を見送って、苗字は帰路へついた。
「また、か。どいつもこいつも私を生かそうとする」
 愚痴のように呟いた声は、雑踏に消えた。
尊敬の系譜

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