苗字名前は、必要以上に圧の強い人間に対する拒絶反応は凄まじいものの、基本的には優しく、面倒見が良い。新入生の引率においては彼らの特性を見極めた上で役割分担をさせ、タイミングを見て手を貸す。滅多に高専に顔を見せることはなくなってしまってからも、偶然見かけた後輩(この場合は五条や夏油、七海を指さないのは自明である)に話かけられれば笑顔で応対し、悩み相談には喜んで乗っていた。
 勿論、それは後輩に対してではなく自分より経験のある術師や、年上の補助監督にも当てはまった。変わり者の多い呪術師という人種の中にあって、世間一般の礼儀や気遣いをできる苗字は「まとも」だったのだ。死ぬために呪術師を続けている、という内なる狂気さえ除けば。
「た、苗字さん、そのくらいで…」
「…だそうだ、彼女が優しくてよかったですね」
「く、っそ…覚えてろよ」
 古典的すぎる捨て台詞を吐いてその場から立ち去った男は、苗字がよく世話になっている女性補助監督・山田を先程までナンパしていた。大通りに面した商業ビルの一角に出現した呪霊を祓いに来た苗字を、次の任務地に送るためにビル前で待っていたところを話しかけられたのだという。苗字がビルから出てきたとき、すでに男の手は山田の腕を握っていた。明らかに迷惑そうな顔で男をあしらおうとしている山田を見て、苗字は男の腕を関節ごと捻り上げた。みっともない声で呻き声をあげた男は、なんだお前、と苗字に怒鳴った。しかし苗字は「夜蛾先生の方が普通に怖いな」としか思っていなかったため、そのまま捻り上げる力を強くした。
 呻き声が悲鳴に変わりかけた瞬間、山田は往来する群衆の視線が集まりつつあるのを感じ、慌てて苗字を止めに入る。苗字はそれに応じ、男を離した。そして例の捨て台詞を吐いて去ったのだ。
「すみません、お手を煩わせて…」
「いや、気にしないでください。咄嗟の時に動けないのは仕方のないことです」
「…私、今、苗字さんに惚れそうです」
「七海君みたいな人はこれ以上対応できないのでやめてください。それより運転はできそうですか?次の場所、急がないようなら少し時間空けてからでも」
「いえ、大丈夫です!あと七海さん、相変わらずなんですね」
 七海建人が苗字名前を追いかけ回しているのは、学生の頃から高専の名物と化していた。





「パイセン、補助監督を誑かしたってほんと?」
「語弊しかない」
 補助監督の山田をナンパ男から救って数日後の夜10時、苗字の携帯電話に後輩・五条悟から着信があった。急ぎでない限りはメッセージを寄越す彼が電話をしてくる以上は緊急かと思い折り返せば、開口一番そんなことを言う。その時点で通話を終了してもよかったのだが、五条はそのまま次の仕事の話を始めた。明日大阪の方で1級呪霊を祓ってきてほしいということだった。新幹線はすでに取っているという。それを先に言え、と思った。
 詳細は先程メールで送ったから、と五条は言ったが、概要を口頭で話し出す。苗字はそれを頭に叩き込みながらも、パソコンを立ち上げてメールを確認した。メールボックスはまだ彼からのメールを受信していなかった。マウスでカチカチと送受信ボタンを連打しながら、彼の言葉を聞く。メールを受信するより先に、五条からの説明が終わった。
「ちなみに、さっきの話だけどさ」
「補助監督の話?」
「そうそう。色々尾ひれがついちゃってるみたいで、なんかややこしい話になってるっぽいよ」
「…私は山田さんをナンパ男から引き離しただけなんだけど」
「山田って女だよね?僕が聞いた話だと、男の補助監督を誑かしたって」
 苗字さんに惚れそうです、と言っていた山田を思い出していた。恐らく、高専に戻ってからその話を誰かに話したのだろう。その「惚れそうです」という部分が「惚れた」に変わり、苗字に惚れたという動作の主が勝手に男性にすり替わったことは容易に想像がついた。
 そうなってくると、新たな面倒が頭を掠める。
「まさかと思うけど、そのバカみたいな噂、七海君の耳に入ったりしてないよね」
「あいつ、人3人くらい殺せそうな顔してたよ」
「最悪だ」
 電話越しの笑い声に苗字は顔を顰めた。五条からのメールはようやく受信したが、迷惑メールの多さにうんざりもした。





 大阪での任務自体は何も問題は発生せず、すんなりと終わった。苗字が、この呪霊相手なら死ねる、とすら思う間もなかった程だ。呆気ない仕事終わりで拍子抜けをしたので、せっかくだからと暫く大阪を観光して回った。五条がとってくれていた帰りの新幹線まで妙に時間が余ってしまったのも理由の1つだ。
 そうは言っても、大阪は月に何度か任務で訪れている。今となってはそれほど見たいものがあるわけでもない。さっさと時間変更して帰ればよかったと後悔したころには、予定時間まで1時間を切っていた。
「無事に帰れそう?」
 五条から送られてきたメッセージに目を通す。学生の頃から何かと苗字に絡みついてきた後輩であるが、それは今も変わらない。恐らく苗字の真意を知っている数少ない人物であること、そして何より五条と同様に今の呪術界を安定させているのが苗字という人間であることから、そう易々と死なせるわけにはいかないと考えているのだろう。彼女が仮に死んだとしたら、際限のない呪霊の増加を防げない。
 予定通りの新幹線に乗り込んだ旨を送信したらすぐに既読がついた。見たこともないキャラクター(正直少し気持ち悪い)が「了解」と言っているスタンプが送られてきて、彼とのやりとりは終了した。生徒に薦められて買ったのか、と推測はしたものの、正解が欲しいわけでもなかった苗字は考えるのをやめて、さっさと自分の座席に座り、そして目を閉じた。

 ふ、と目を覚ました時にはすでに新横浜を過ぎていた。凭れ掛かっていた窓の向こうは、もう真っ暗だった。どれだけ熟睡してしまっても、東京駅に到着する寸前で目覚められるようになったのも、所謂「慣れ」だ。少し凝ってしまた首を回して、一息をつく。時間を確認しようと携帯電話を見る。「迎え要る?」という五条からのメッセージには「伊地知君でお願いします」と返した。人を指定しなければ十中八九山田が来る。今彼女と会えば、怒りはしないがチクチクと嫌味を言ってしまいそうだった。勿論、彼女が傷つかない程度に、ではあるが。
 欠伸を噛み殺した苗字の横では、出張帰りらしいサラリーマンが座っていた。任務によっては銃器が大きい場合もあり、その場合は座席を追加して取ることもあるが、今回はそうではなかった。隣に人が乗っているのは珍しいことではない。何も気にしていませんよ、と言うように、苗字は窓の外に視線を向けた。しかしその行動を見透かしたかのように、サラリーマンは苗字に話しかけた。
「ご旅行帰りですか?」
 撫でつけた黒と白の混じる髪、皺の刻まれた柔和な表情、度の強そうな眼鏡。乱れのないスーツからは堅苦しさではなく品の良さを感じる。苗字は答えた。
「いえ、仕事で大阪に」
「そうでしたか」
 サラリーマンは少し目を見開いて答えた。苗字が、自身と同じようなスーツではなくパーカーにジーンズを履いていたことに驚いたらしかった。荷物も財布と携帯、少しの資料と隠し持った銃器くらいなもので、勤め人のようには見えなかったのだろう。失敬な話である。
 そうなると次の質問は決まっていた。
「失礼ですが、どのようなお仕事を?」
 失礼だと思うなら聞くな、と苗字は思う。紳士面をしているのはどうやら外側だけのようだ。
 呪術師です、などとは口が裂けても言えない。正直に仕事だったと答えた数秒前の自分を殴り飛ばしたくなった。旅行か、と聞かれたときに頷いておけばよかったのだ。他の術師はこういう質問にどう答えているのだろう、と苗字は思う。不意に「教師」と名乗れる五条を羨ましく思った。
 思考を逡巡させ、何も応えない苗字を不審に思ったサラリーマンは、ぐいっと彼女に身体を近づける。
「もしかして、家出ですか?」
 そんなことをする年齢はとうに過ぎた。紳士面の向こう側に隠されていた下卑た表情が見える。家出した少女を自宅に招き入れて犯罪行為を行う大人がいるという。新聞でも、テレビでも、ネットニュースでも騒がれている話だ。この男もそういう側の人間なのだろうか。
 湿った掌が、苗字の腕を掴む。「咄嗟の時に動けないのは仕方ない」というのは言い訳でもなんでもなく、一種の防衛反応だと苗字は考えている。下手に動くよりも安全なこともある。しかし、その手が彼女の身体に伸びる。
 車内アナウンスが、品川駅への到着を知らせた。





 サラリーマンを駅員室に突き出し、警察がやってきて事情を話しているうちに思ったより時間が経っていた。伊地知から「東京駅に到着されてますか?」と心配のメッセージが届いていたことに気付いた頃には、品川駅で途中下車したことをすっかり忘れていたし、東京駅に予定通り到着していたとしても30分は経過していた時間だった。もう少し早く連絡を寄越してくれてもよかったのに、と苗字は思ったが、伊地知のことだから逆に気を遣ってくれていたのだろうとも思った。駅に限らず女性トイレはとても混み合うという話をしたことがあったからだ。
「申し訳ないのだけど、品川駅に来て欲しいです」
 事情を話す必要はないだろうと判断し、それだけを返信した。幸いすぐに既読がつき「すぐ向かいます」と返ってきた。
 事情はどうあれ伊地知を無用に待たせてしまったわけだから、彼を待つ間に近くの自販機で缶コーヒーを2つ買った。1つは自分のだ。
 駅前のロータリーに向かいながら、苗字は考える。山田に絡んできたナンパ男や、先程のサラリーマンに対しての嫌悪感と、七海に対する拒絶は何がどう違うのか。見知った人間だからか、という関係性由来の理由は通用しない。初対面の時点で逃げ出した苗字からすれば、ナンパ男やサラリーマンと大した差は感じないのだ。寧ろ、奴らと比べることで七海に罪悪感すら抱いた。
「…好きではない」
 確かめるように口にした言葉に、1人頷いた。嫌いではないが苦手であるし、その言葉に偽りはなかった。それは七海に対してだけではなく、五条に対してもであったし、かつての夏油傑に対しても同様であったから、間違いはないはずだ。
 そうこうしているうちに駅構内を抜け出し、ロータリーに出た。ちょうど伊地知の車がこちらに向かってくるのも見えた。停車しているタクシーの合間を縫って、伊地知の車が近づく。それに合わせて苗字も歩み寄った。後部座席の扉を開いた瞬間、苗字の顔が引きつった。
「どうも、こんばんは」
「…伊地知君、報連相は社会人の基本だと思うんだけど」
「すみません…七海さんが言うなと仰ったので…」
 先程まで思考の片隅にいた七海が乗っていた。ハンドルを握る伊地知が泣きそうな顔で震えている。いつまでもここに停車しているわけにもいかないので、苗字は諦めて車に乗り込んだ。後部座席は諦めて、助手席にだ。
「…すみません、苗字さんを待ってる間に近くで任務をされていた七海さんのピックアップを頼まれまして…」
「…もしかして、五条君に?」
「はい…」
 本日3度目の謝罪を口にしてから伊地知は車を発進させた。
 無言の空間が3人を包む。バックミラーを見なくてもわかる、七海からの痛いほどの視線が苗字を刺している。原因は間違いなく例の噂だ。どうしたものか、と苗字は考えてみるものの、漠然とした死にたさしかせり上がってこなかった。
 とりあえず手に持った缶コーヒーを、信号待ちのタイミングを見計らって伊地知に渡した。自分のために買ったもう1本は、仕方ないので七海に渡した。予想外だったのだろう、七海は拒むことなく素直にそれを受け取った。苗字自身の分を渡されたことには気づいていただろう。
「まぁ…私も碌に連絡せず待たせてしまったし、おあいこか…ごめんね」
「いえ…そんな…」
「それで、なんでこんな遅くなったんです」
 苗字と伊地知の間を割るように、七海が口を挟む。苗字が今一番触れてほしくない話題であったが、後日提出する報告書に空白の時間を記載するわけにもいかない。遅かれ早かれ、ある程度の関係者の耳には入る話ではある。1秒の葛藤の末、苗字は事の顛末を手短に話した。伊地知は「えっ」と驚いた声をあげたが、七海は静かに「伊地知君、車を停めてください」と地を這うような声で言った。
「えっ、ここでですか?!」
「はい、今すぐその男をぶちのめしに行きます」
「やめなさい!全部警察に任せてあるんだから!」
「どうせ示談にさせられるんです。それならその前に一発、」
「おおおお落ち着いてください七海さん」
 流石に扉のロックを外して飛び出すような無謀をすることはなかったが、今にもそうしそうな七海を運転席と助手席からNOを出す2人は、眼に見えて焦っていた。こうなるから言いたくなかったのだ、と苗字はやはり後悔をするとともに、こうなることが解っていた自分にも嫌気がさす。思い上がりも甚だしく、その思い上がりが思い上がりでないことを突きつけられたからだ。
 2人が必死に引き留めた末に七海は不服そうではあるものの車内にとどまった。
「怪我はないですか」
「ないよ」
「それはよかったです」
「高専関係の弁護士もいますから、いざとなったらお繋ぎしますね」
 苗字が面倒見が良いのは今に始まったことではない。しかし彼女が蒔いた種が、少しずつ彼女自身に幸福をもたらしていることに、苗字自身は気づけていなかった。





「で、パイセンに何も聞けずじまい?七海も案外ビビり?」
「あの流れで聞けるわけないでしょう、五条さんじゃあるまいし」
「ああぁ!?」
 苗字からの報告書を確認した五条が七海に電話したのは、苗字に関する噂が誰の記憶からも消えた頃だった。
 予想通り、相手は示談を求めてきたが、伊地知が言っていた弁護士の介入により刑事事件に持ち込まれた。弁護士は「あとは上手いことやっておきます」というふんわりとしたことを言っていたが、それは冗談ではなく本気だったらしいと知ったのも最近である。
「そもそも苗字さんは男を誑かす人ではありませんから。ただ、誰に対しても優しいだけです」
「へいへい。苗字過激派のお前が言うならそうなんだろうよ」
 そうは言いつつ、七海はなぜそんな噂が流れたのか、事実を知っているわけではない。なんとなく事実に尾ひれがつきまくった結果なのだということがわかるだけだった。
 五条の口ぶりからも、彼が事実を知っていることは察していた。そこに至る経緯が、苗字自ら話したというわけではなさそうなことも。五条になら話すのか、と七海は柄にもなく嫉妬もしたが、噂が事実ではないということだけで今は安心している。
「もういいですか、切りますよ」
 返事は聞かずに、七海は電話を切った。
 通話画面から素早くチャットアプリに切り替えて、苗字のアカウントを呼び出す。
「生きてますか」
 ほとんど日課のようになってしまったその6文字のメッセージに、既読はまだつかない。しかし彼女は、自分が先程口にした通り、優しいのでじきが返事がくることだろう。「今日もまた死ねなかった」などと、ふざけたことを抜かしながら。
ダフネ

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