人は口を揃えて彼女をこう評する。「1級呪術師の中で現在最も特級に近い」と。
 その評価に異を唱える者は少ない。異を唱える者は、おおよそ古い考えの年寄りと、大した成果を上げきれない若輩ばかりだ。なにしろ、高専1年後半の段階で1級推薦を受け、3年生となった今は基本的に1級あるいは特級に近しい任務ばかりを請け負っているという。日に幾つも任務を掛け持ちすることが、もはやデフォルトになった彼女の姿を高専で見かけることは、ほぼない。報告書の提出や怪我の手当てなどで訪れてはいるようだが、そのタイミングは彼女次第である。同級生ですら最後に顔を見たのはいつだろうと言い出す始末だ。
 そういうわけだから、今年の東京高専の新入生は彼女―苗字名前をまだ知らない。



「なんでそんな任務を詰め込んでるんですか」
「さあ?苗字先輩の考えてることは私にもわからないよ。なにせ、ほとんど顔を合わせないから」
 夏油から返ってきた茶目っ気たっぷりの答えに、新入生の七海は聞く相手を間違えたのでは、と後悔をしていた。入学してから時折名前を聞く「苗字」という2つ上の先輩が大変に強くて、激務だという噂を聞いた同期の灰原が「夏油さんにどんな人か聞きに行こう!」と七海を誘い出したのだ。実のところ、断る隙は与えられなかった。
 灰原は目論見が外れたことへの落胆からか、唇を尖らせていた。
「まぁ顔を合わせたとしてもあの人すぐ逃げるでしょ」
「たしかにね」
 一服から戻ってきたばかりの家入が口を挟んできた。彼女が纏ってきた煙草の香りが七海の鼻を掠める。なぜ誰も咎めないのか、という疑問は入学してから割と早い段階で捨てたのだが、それは早計だったかもしれないと思い始めている。
「逃げる?なんでですか?」
 方程式の理屈を問うかのような無垢な目を輝かせて灰原が問う。うーん、と少し言葉を濁しながら夏油と家入が答えることには、
「恐いんだって、私が」
「厳密には夏油と五条がガラが悪いから、だ」
とのことだった。酷いよね、と夏油は付け加えたが、七海がフォローしなかったのを見て「え、七海生意気じゃない?」と言い出したので「そういうところなのでは?」と反射的に返していた。かなり強めのデコピンを喰らった。
 ちなみに家入は悪びれもなく喫煙する人間ではあるが、同性かつ反転術式を使えるということもあり、比較的医務室で出くわすことがあるという。同性の特権だと自慢する姿に、夏油が苦虫をみ潰したような顔をしていた。
「じゃあ七海も避けられそうだね!」
 七海にとって予想外の灰原からの暴投は、僕は対象になりません、と自覚及び宣言をしているようにしか聞こえなかった。夏油と家入の笑い声で、頭が痛くなったのは言うまでもない。



「お、苗字パイセーン、元気ィ?」
「…五条君は相変わらず元気そうで」
 にやにやと口角を上げた五条の呼びかけに、少し前を歩いていた苗字が肩を震わせてからゆっくりと振り返る。声の主などすぐに解っていたにも関わらず、一縷の望みでも賭けていたのだろうか、じっとりとその声の発生源を確認してから、苗字はようやく返答をした。
 制服のスカートからじっくりと伸びた脚には、ほんの少しの血が滲んでいる。しかし苗字はそんなことを気にも留めず、その上、五条のことも半ば無視をして本来の進行方向に向き直った。それが心底面白くない五条は、苗字の背中を追いかけた。
「昼間にここ来んの珍しくね?」
「週に1回くらいは来てるよ」
「俺全然会わねーけど」
「そりゃ五条くんを避けて動いてるから」
「ひっでぇ」
 苗字の右側を歩く五条は、今更彼女と目が合わないことは気にない。脚の怪我も、気にしてはやらない。どうせ鬱陶しいと物語る態度しか返ってこないのだから、やるだけ無駄なのだ。
 短いようで長い高専の廊下を無言で歩く。苗字は今日もただ報告書を提出するためだけにここに来たのだろう。そしてまた、新しい任務を自身に回すよう教師に頼み込み、1時間後には発つに違いない。
 そんな生活をしていたらじきに死んでしまう、と周りは苗字の心配をするが、それがどうしたと言わんばかりの本人の態度がその心配を加速させる。教師とて苗字を死なせたいわけではないが、彼女が任務をすし詰めにしているおかげで案件がパンクしないで済んでいるのもまた悲しい事実なのである。
 苗字の真意も知らずに、呪術界は多少うまく回ってしまっていた。
「今日も死ねなかったんだな、どんまい」
「……次こそ、死んでみせるよ」
 彼女は誰よりも生きることに真面目すぎた。
 それゆえに、生きることに臆した。



 苗字名前は元より真面目で、なおかつ勉強も運動も人並みかそれ以上にはよくできた。通知簿は4か5が当然で、悪くて3。何事においてもそんな具合だったからだろう、両親を含めた周りからの期待は大きかった。寝ても覚めても膨れ上がった期待が苗字の影となって後を追う。だが、それでも苗字はその大きすぎる期待に応え続けた。
 元より、真面目だったからだ。
 高専に入学しても生まれ持った気質は変わらなかった。座学も任務も、人一倍努力をしたことは本人も誇りにしていたし、教員や補助監督、同級生もよく理解をしていた。そして、やはり、期待は肥大化する一方だった。
 ある日、同級生が死んだ。苗字と同じ任務に出ていた、女子だった。呪霊に突き飛ばされた衝撃で首と胴体が分かれた。苗字が息をのんだ瞬間には、既に息はなかった。
苗字にとって、初めての同級生の死だった。
それまでにも、民間人が巻き込まれたり、一緒に任務に出た先輩が目の前で大怪我をすることは度々あった。全てに心を痛めてはいたが、どこかで「よくあることだ」と心の内を守っていた自覚はあった。慣れていかなければ、我慢しなければ、自分が強くなればもう少しましな結果に、そう思っていた矢先のことだった。
 この日を境に、苗字は生きることが怖くなった。
 生きている限り呪術師であり続けるであろう自身の人生に、自信を持てなくなった。今まではきっと運が良かっただけなのだ。おおよそ全てのことにおいて人並みかそれ以上にできたのも、今となっては足枷にしかならない。これ以上は誰の期待にも応えられないのではないか。明日の朝、太陽が昇るのを見て、その日一日をやり過ごすのが、堪らなく億劫に思えた。
 1人、寮の部屋で、文房具として買ったはずのカッターを手にした。震える手で、手首に当ててみる。ひんやりとした刃先が、薄い皮膚に当たって苗字の体温を静かに受け取る。生きているということを、嫌な形で知らされてしまって、興覚めをした。こんな自分が臆病であったことに、少しだけ驚いた。
 自らの手で命の幕引きすらできず、生を全うしようとする自身の生来の真面目さには心底嫌気がさしたが、しかし、その気質を使わない手はなかった。
 それから苗字は、毎日、飽きる程の任務を予定に入れた。
 いずれ呪霊が自身を殺してくれるのを期待して。
「また死ねなかった」
 呪霊を祓い終える度に彼女が洩らす落胆を聞いた者はいない。



「え、苗字先輩、高専に来てたの」
「おう、相変わらずだった」 
 ざわざわと木々が揺らめく高専の中庭で、普段は切れ長の瞳を丸くさせた夏油が五条を問い詰める。大したことじゃないと言わんばかりの五条の返答に、言ってくれよと夏油は肩を落とした。
 苗字に用事があったわけではない。あるのはただ、なかなか学内に姿を現さない苗字と久々に顔を合わせたい、あわよくば揶揄いたいという気持ちだけだった。苗字が彼らを避けるには十分すぎる理由である。
「すぐ死にそうなのに全然死なねーのな」
「こら悟、不謹慎極まりないし先輩に失礼」
 苗字が任務をすし詰めにしている理由を知っているのは五条悟だけだ。ゆえに、今の五条の言葉の裏を夏油は解していない。ただただ、特級である自分より格下の女性を貶している…それだけの言動に見えていただろう。
 五条がそれを見抜いたのは何がきっかけであったか。五条本人もあまりよく覚えていない。思い出せるのは、彼女の戦い方が五条の「眼」には特攻に見えたことだけだ。
「灰原と七海にも会わせたかったんだけどな」
「灰原はともかく七海のことはビビって帰りそうだろ」
「…灰原も同じこと言って七海を怒らせてたよ」
「ウケる」
 笑える箇所は全くなかった。



 七海は自販機の前で眉を顰めていた。密かに気に入っていた缶コーヒーの取り扱いがなくなっていたからである。甘すぎず、かと言って苦すぎることもなく、七海が好んで買っているパン屋のパン生地とよく合った。
 残念ではあるが、自販機での取り扱い商品が入れ替わることは珍しいことではない。そう言い聞かせて、少しだけムッとしてしまった心情を律する。これが大人になるということだ、と納得させるかのように。
 飲みたかった缶コーヒーがないのであれば、無理にこの自販機で買う必要もない。一度その機械に飲み込ませた小銭を吐き出させようと、レバーを押す。幾つも自販機が並んだこの場所で、じゃらじゃらと小銭が音を立てると、やけに煩く感じるものだ。
 目当ての商品があったため、他に飲みたいものがあるわけもなく、販売中のラインナップをぼんやりと眺めてみる。
 数十秒考えあぐねてみたものの、どれも今の自分の気分にはそぐわないように思えたので、諦めることにした。部屋に置いてあるお茶でいい。数分を無駄にしてしまったな、と思いながら踵を返したところで、七海はひゅっと息をのんだ。
 大股で歩けば七海の4歩くらい後ろに、見知らぬ女が立っていた。胸元の高さで切り揃えられた黒い髪と、真夜中の街灯のように瞬く瞳が印象的だった。自分と同じような制服を着ていることから、同じく高専の生徒であることは明白だ。
「え、っと、もしかして新入生?」
「はい、七海建人といいます」
「3年の、苗字名前です」
 お互いに軽い会釈を交わす。
 七海は思わず口にした。
「貴女が、苗字さんですか」
「え」
 苗字の顔が怯えた色を滲ませる。七海は思ったことを素直に口にしたことを失敗だったと悟る。
「誰かから、私のことを…?硝子ちゃんかな?」
「いえ、五条さんと夏油さんからです」
「…さようなら、次の任務があるので………在学中にお会いすることはもうないでしょう…」
「ちょっと待ってください超展開すぎます」
 七海は急いで苗字を引き留めたものの、流石1級呪術師といったところか、瞬く間に走り去ってしまった。
初めましてからさようならまで、約10秒。食パンを加えた女子高生が運命の相手と曲がり角でぶつかっても、もう少し会話してるのではないだろうか。自販機の前で立ち尽くす自分の姿を俯瞰的に見てみたら、かなり滑稽だと気づいた七海は、慌てて走り出した。
 何故追いかけようと思ったのか、その理由は後々になって自ら白状することになる。

「あれが私の初恋であり、初めての一目惚れでした」



 ぶすくれた苗字を、同じようにぶすくれた七海が抱きしめている光景は、誰が見ても異様であった。不幸中の幸いは、周囲に誰も居ないことだ。補助監督が張った帳の中には、二人だけだった。

 10月某日、灰原が体調を崩した。気温の起伏が不安定な時期だ。寝込んでしまった灰原の様子を看るために部屋を訪れた七海が、腹でも出して寝ていたんだろう、と冗談交じりに励ました言葉に、灰原は目を逸らした。瞬間、七海は自分の冗談は現実のものだったと悟った。
 灰原との共同任務が入っていた七海は、欠員が出た旨を補助監督に電話で伝えた。灰原の心配と、欠員補充の必要に駆られた補助監督は「10分ください」と言って電話を切った。任務内容は七海と灰原が居れば、どうにかなるような程度であることは資料からも理解していた。しかし、流石に1人で、となると不安の残る要素はあった。イレギュラーにもすぐ対応をする補助監督に感謝と申し訳なさを抱きながら、七海は返事を待った。
 10分と言わず、6分で着信があった。
『運よく1級の方が1人空いてたので、来ていただけることになりました!』
「1級…贅沢な助っ人ですね」
『はい…でも快く受けていただけたので私もほっとしてます。すぐこちらへいらっしゃるそうなので、10分後に校門前にお願いします』
 補助監督との通話を切って、携帯電話を制服のポケットに突っ込む。準備は既にできている。鉈を入れた鞄を持ち上げて校門へと向かった。
 それにしても、急遽任務を引き受けてくれた1級呪術師とは誰だろう。狭くて広い業界だ、きっと初対面の術師に違いない。足を引っ張らないようにしなければ。鞄を持つ手を、いつもより強めてしまうのも致し方ないことだった。
 校門前には既に車が停まっており、補助監督が社外で待機していた。待たせてしまっていることに焦った七海は、足早に車に近づいた。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、私もたった今車を回してきたところです。あ、」
「はい?」
 七海と話していたはずの補助監督が、七海より少し後方に視線を移した。反射的に振り返ると、いつかのように苗字が立っていた。とてつもない既視感である。前回と異なるのは、苗字の顔に悲壮感が張り付いている点だが。
「苗字1級呪術師、本当に突然すみません」
「い、いえ、山田さんには1年生のころからお世話になってますしこれくらいどうってことは…どうってことは…」
 補助監督・山田を労わりながらも、苗字の視線はその横の七海に注がれている。「七海の存在は問題だ」とでも言いたいのだろう、本心では。
 人は第一印象が全て、とはよく言ったものだ。苗字にとって、七海の第一印象はプラスでもゼロでもなく、マイナスからのスタートである。まず、五条と夏油経由で自身のことを知られていたこと。次に、全力で逃げた筈が気づいたら捕獲されていたこと。最後に、「一目惚れしました」と告白されたこと。この悪印象3セットが唯一にして最大の原因だ。呪術界で生きていく自信を失いながらも、死ぬために呪術界から逃げず、毎日を生きている苗字にとって、七海建人という人間は蜘蛛の巣のように自分に纏わりつく煩わしい存在になっていた。
「苗字さんでしたか」
「ご期待に沿えず申し訳ございません」
「いえ、とても嬉しいです」
 なんの衒いもなく、思ったことをそのまま伝えてみたが、苗字には響かないようでそそくさと後部座席に乗り込んでしまった。その一部始終を見ていた山田は、あぁなるほどと2度頷いてから七海に微笑み、そうしてから運転席に身を滑り込ませた。社外に取り残された七海に、早く乗って、と苗字が不機嫌そうに言い放った。

2級呪霊3体の討伐、そう任務概要が記された書類に目を通す苗字の横で、七海は言い知れぬ緊張を抱いていた。本当にこれが「ガラが悪いから」という理由だけで五条と夏油を避ける人間なのだろうか、と思わないではいられなかった。真夜中の街灯のようだと思っていた瞳が、白刃のように鋭い眼差しで資料を熟読している。山田が苗字に渡すための資料の準備が間に合わなかったため七海の手持ちを貸したのだが、先程まで自分が持っていた資料を今この瞬間に苗字が持っているという事実だけで緊張に拍車がかかった。
「七海君」
「はい」
「基本的に私は手を出さないから、できるところまで頑張ってみて」
「え、」
「五条君から聞いてる限りの情報で鑑みたけど、多分七海君1人でどうにかなるはずだから」
 苗字は読み終えた資料の端を膝の上で揃えてからクリップで止め直し、そのまま七海に返した。七海は両手で資料を受け取るが、数枚のコピー用紙の束程度のはずのそれがずしりと質量を持ったように感じた。
「もちろん、まずいなと思ったら援護はするけど、呪具の相性的にも私より七海君の方が向いてると思うし」
「五条さんから、何を聞いたんですか」
「七海君が私について聞かされたことと同じようなことじゃないかな」
「根に持ってますか?」
「それなりに」
「でも私は五条さんから苗字さんの術式などは聞いてません」
「私も別に七海君の術式は聞いてないよ。呪具は聞いてたけど」
 言い訳じみた反論もあえなく躱されてしまい、視線まで窓の外に移されてしまった。
 バックミラー越しに山田が笑う。
「あの苗字さんがちゃんと先輩してるのは新鮮ですね」
「2年の時は何回か後輩を引率したりしてましたよ。今年は初めてですけど」
 七海は口角が緩むのを自覚した。
 そうか、今年は初めてなのか。
 たったそれだけのことで少し気分が浮ついてしまうなど、誰にも言えやしない。だが、嬉しいと思ってしまったことは、受け入れることにした。

「闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓え」
 山田が帳を張る。今にも崩れそうな製鉄工場跡地、その一帯がみるみるうちに帳に包まれる。
 七海は鉈を、苗字は2丁の拳銃を手に、現場に向き合っていた。
 苗字の拳銃は彼女の構築術式によって生成されたものである。その拳銃から打ち出された弾丸は、旋条によって弾丸に刻み込まれる苗字の呪力を帯びて対象に到達する。拳銃のみならずライフル銃やショットガンの生成もしているというから、近距離、遠距離を問わない。
 呪力消費の激しい構築術式において多種多様な呪具を生成し、あまつさえ絶え間ない任務を捌く苗字の体力の無尽蔵さを七海は今になって恐ろしく感じた。
 行ってきます。
 この言葉を口にする度、七海は嘘にしないようにしようと誓い、一方で苗字はいつか嘘にしてしまうことに内心で謝罪している。
 お気をつけて。
 全ての補助監督が、心の底からそう願って声を掛けていることを知っているからこそだ。

 結末から言えば、3体だと報告されていた呪霊は倍の数以上居た。しかし報告書上で言われていた、3体、も嘘ではなかったと苗字は確信している。何故ならば、相対した呪霊が目の前で気まぐれに増殖をしたからだ。この場合は無性生殖になるのだろうか、などと悠長なことを考えている余裕も、七海の成長を促す暇もなく、ホルスターに収めていた拳銃を手にした。
「後方援護は私に任せて、七海君は手近なところからひたすらぶった斬っていって」
「わかりました」
 死地にて、口調の荒くなる苗字の姿すら好ましいと七海は思ってしまったが、頭を振って目の前の呪霊に集中した。
 ぶった斬れるところから、と苗字は言った。呪霊は複数体居るが、どれか1つが「親」というわけではない。増殖する前に素早く祓うことができれば良い、所謂タイムアタック形式だ。
 聞きなれない銃声が背後から鳴り響き、落ち着きはしない。苗字と顔を合わせたのは片手で数えられる数、少なくとも自分への好意はない。なのに、彼女への無条件の信頼が「その弾丸は自分には当たらない」と確信を齎す。当然、苗字にとっても、後輩に向かって発砲するメリットは全くないため、七海の確信は確信として成立している。
 順調に、実にコンスタントに、呪霊の数は減っていった。
 それに比例して、苗字の表情が険しいものになっていることに、七海は感づいていた。その表情の理由を考えてしまった隙を狙って、最後の1体が七海の目の前から苗字の元へと距離を詰めた。七海の鉈は追いつかない。しかし七海の油断を嗤うように、苗字は左脚を後ろに引いて腰を落とす。真っ向から迫りくる呪霊を、拳銃を持ったまま手根で叩いて往なした。そのままの勢いで苗字の背後に転がった呪霊は、何が起こったかを把握することもなく弾丸を喰らい地に伏せた。動かなくなった呪霊に一瞥を与えた苗字の双眸は、次いで、油断をするなと雄弁に語って七海を貫く。
「申し訳ありません…」
「本当にね。私は後輩と心中する気はないよ」
 両手の拳銃をホルスターに戻した苗字は、一面に散らばった呪霊だったものを眺めて息を吐いた。声は続く。
「死ぬなら一人で死ぬから、安心して」
 その言葉で、彼女が先程見せた険しい表情に合点がいった。
「死にたいんですか、貴女」
 たった1人で、1級案件を山のように引き受けて捌き続ける彼女の真意に近づいた七海は、首元にナイフを突きつけられたような肝の冷える感覚に襲われる。「お前さえこの場に居なければ死ねるのに」、先程の表情が隠す本音はこんなところだろう。
 しかし苗字は七海の問いかけに対して、意外と言わんばかりに眉をひそめた。
「てっきり、そのあたりも五条君から聞かされてるかと思ったけど、そうでもないんだね。彼も案外常識がある…良識かな。まぁ、どっちでもいいけど」
「五条さんは知ってるんですね」
「育ちはいいくせに人の弱いところに土足で踏み込んでくるよ、あの子」
 失言だったなぁ、今のは忘れてね。
 苗字はそう言って、出口へと足を進めようとしたが、七海がそれを引き留めた。拳銃を握り続けているにしては細い手首を掴んで、想像より小さな身体を腕の中に引き入れた。無礼は承知だった。
「ちょっと、七海君、なんのつもり」
「苗字さんが何を思ってそう願うようになったかは知りませんが、もし死ぬときは私を呼んでください」
「は?なんで?」
「私も一緒に死にます」
「はあ?」
 五条や夏油、家入から聞いていたのは何も高専においてレアキャラだということだけではない。呪術師としては少々生きづらいのではないかと思うくらいには、他人に優しく、真面目過ぎる人だと、そういう風にも聞いていた。
 ならば、例え自分の言葉が彼女を縛り付ける「呪い」になったとしても、これが自分なりの「愛」だとわかってもらえなくても、苗字名前の優しさに付け込んで彼女を生かし続けるのであれば。
 呪術師から呪いは生まれない、なんてことは、知っていたけれど。
「クレバーな見た目なのに、結構とち狂ってるね、君」
 ホルスターに戻されていたはずの拳銃が、気づけば苗字の右手に戻り、銃口は七海の顎に突きつけられている。装填されているのは実弾だと車内で聞かされたばかりだった七海は、大人しく引き下がった。思ったよりすんなりと解放されたことに苗字は拍子抜けをしたようだが、すぐに取り繕って「帰るよ」と言って今度こそ出口へと向かった。
「惚れた女性を死なせたくないと思うのはそんなにおかしいですか」
 脈なしだとしても、本当に脈がなくなるまでに振り向かせたいと思うのも、そんなにおかしいのか。七海は苗字の背中に問いかけたが、返ってきた答えは実にそっけないものだった。
「私に惚れる時点で、十分におかしいよ」
 選ばれた言葉は優しいものだったが、シンプルな拒絶であることはすぐに理解した。思わず七海は年相応にぶすくれて、再度彼女の身体を閉じ込めた。今度こそ発砲か、良くて銃把で殴られるかと覚悟したが、心底呆れた時にしか出ないであろう深い溜息が返ってきただけであった。



 1年の頃、報告書を確認してもらうという名目の下で交換した苗字の連絡先が、七海の携帯の中で光っている。

 彼女との連絡先の交換には、下心がなかったと言えば嘘になるが、一応きちんと名目は名目として正しく機能した。書き上げた報告書をメールで転送したら、数分と経たず「問題ないと思うよ。今日はお疲れ様」と簡潔な返信が来た。たったそれだけの文面だったが、苗字から返信があったことが嬉しくてメールが自動消去されないように保存をした。
苗字が今日も生きているかどうかを確かめるため、ほぼ毎日メールを送った。日単位で返信が来ない時などは胃が引きちぎれるのではないかと思うほどに痛み疼いたが、「任務でした。今回も死ねませんでした」と不必要な敬語を使用した、最高潮に不機嫌な返信が来れば、脱力に似た安心を得て自然と頬が緩むのを感じたものだ。
 その光景を五条に目撃されたときには、「なに、彼女?うわ、七海のくせに?」とニヤニヤとされたが、「違います、ちょっと黙っててください」といつもの無表情を必死で捻り出して反論したことも同時に思い出される。
 電話は、していない。電話をかけるに足りる理由が七海には用意できなかったのだ。ただでさえ日に幾つもの任務を抱える苗字の邪魔にはなりたくなかったのと、七海自身が実力を上げていたことでそれなりに多忙になっていったからだ。風の噂で苗字が怪我をしたと耳にしても、精々下心が滲まないような心配の言葉を羅列したメールを送信することくらいだった。
 一度だけ、苗字から電話がかかってきたことがある。灰原が死んだ時だった。
 厳密には彼の死から3日経った時だ。そう言えば、と、あの任務に出る前に生存確認のメールをしていたことが記憶に浮上する。あれほどに待ちわびた苗字からの連絡であるのに、通話ボタンを押す指が動かない。着信画面に大きく表示される、苗字名前、という名前が、今はもう遠い存在に思えた。
 震える親指で、通話ボタンを押すために必要だった感情は、祈りに近かった。
「もしもし、七海です…」
『やっと出た…灰原君のことは聞いたよ』
「そうですか…」
『七海君、今どこ』
 電話越しに聞こえる苗字の声が、恐ろしく懐かしく響いた。
 誰とも会える気分でもなかった七海は、滅多に人が来ない裏庭に居た。そのことを苗字に伝えたら、ものの3分で姿を見せた。制服のところどころが解れており、あまり優れているように見えない顔色から、任務帰りにここへ直行したであろうことが馬鹿でもわかる。
 任務帰りの苗字ではあるが、今日は「死ねなかった」などと口にすることはなかった。七海も、少し貴女の気持ちが解った気がします、とは言わなかった。
 相変わらずの真夜中の街灯の如き瞬きを見せる瞳が、珍しく真っ直ぐに七海を捉えている。あまりにもそれが眩しくて、七海は目を伏せた。その代わりに腕を伸ばして小さな背中に回した。いつかのように拒まれはしない。苗字の穏やかな鼓動が薄皮一枚の背中を隔てて七海の掌を打った。
 苗字の腕が徐に辺りの空気を掻いて、優しく七海の背中を撫でた。

 以降、その時のことをお互い蒸し返すことはしなかった。それまで通り、壁打ち同然の七海のメールに、気分次第で返信をする苗字がいただけだ。
 そして七海は、携帯の液晶に煌々と映し出される苗字の名前の下の、通話ボタンを押した。七海から苗字に電話をかけるのは、これが初めてだった。タイミングが良かったのだろうか、5つ目のコールで繋がった。
『はい、もしもし』
「ご無沙汰しています、七海です」
『毎日メールが来てるからこっちは全然ご無沙汰じゃないんだけど』
「ちゃんと読んでくれているならよかったです」
『…何も用がないなら切るけど』
「いえ、ちゃんと用はあります」
 苗字が高専を卒業して2年、もうすぐまた春が来る。
 メールではなく、会って話しておきたかったが、学生の頃よりも更に多忙を極めている苗字に「会いたいです」と言えるわけもなく、電話をした。
「私は、呪術師を辞めます」
それが、七海が苗字に電話をかけるために用意できた、精一杯の理由だった。



「パイセーン、最近どう?」
 溜まりに溜まった報告書を高専に届けに来た帰り、苗字は五条に捕まった。ガラの悪さに拍車をかけていたサングラスは、怪しさ満点の包帯になったが、無論それくらいで五条への警戒心がどうにかなるわけもない。苗字は聞こえなかった振りをして通り過ぎようと試みた。
 試みただけであった。
「ちょっとぉ!可愛い後輩を無視するのは酷くない?」
「…最近どう?って聞かれても、どうもこうもこの通り死ねてないよ」
「いや、うん、まさか僕もパイセンが死んでるようには見えてないよ」
「素晴らしい眼をお持ちだね」
「ありがとー…ってそうじゃなくて、僕が聞いてるのは七海のことなんだけど」
 学生の頃から考えれば、表層部分は幾らか丸くなった五条は会話をしやすくなった。しかし会話の種が面倒なことに変わりはなく、多少なりとも無茶をしてでも先程の逃亡を決行すべきだったと苗字は悔いた。
 久しぶりに聞いた二つ下の後輩の名前に、ふと携帯電話を取り出してメールボックスを開いた。
「…卒業してからメール来てないね」
「今気づいたの?」
「うん」
「あんなに毎日来てたんだよね?」
「なんで五条君がそれを知ってるかはさておき、まぁ、忙しいんじゃないかな。証券会社ってかなり忙しいイメージあるし」
 それこそ呪術師より酷いんじゃないか、と苗字は付け加えた。腑に落ちないと五条は文句を連ねる。
「あんなに慕ってくれてたのに、気にならないわけ?」
「私のことなんか忘れて、呪術も呪霊も関係ない世界で平和に生きてくれているなら、それに越したことはないでしょ」
 それが苗字の本心の全てだった。
 たとえとち狂った愛情を自分に向けてきていた後輩だとしても、生きていてほしい。
 ただそれだけだった。
「七海の与り知らぬところで、パイセンは死のうとしてるのに?」
「私が死んでも、七海君に連絡したりしないでね」
 後追いなんかされたら目も当てられない、と言って、苗字はその場を後にした。
 五条は苗字を追いかけることはしなかったが、その後ろ姿を見て「少し痩せたよなぁ」と口の端を吊り上げて笑っていた。



「あっ、パイセン、お疲れサマンサー」
「高専に来るたび待ち伏せするのやめてくれる?」
 苗字が高専に顔を出すことは、月に1回あるかないかといった頻度になっていた。
卒業して5年、後進教育のために教師を続けている五条悟は、死にたがりの先輩をかつての学び舎で待つことを覚えた。かつて彼女を追いかけていた後輩の代わりになったつもりではない。ただ、苗字名前という人材を今の呪術界から失うことが単純に痛手なのだ。
 しかし、今となっては前者も理由だった、と後付けしても構わないような気がしている。
「今日は本当にちゃんと用があるんだってー」
「前はそう言ってスイパラに付き合わされた」
「え、でもあそこのお店のブラウニー美味しかったでしょ?」
「…」
 無言は肯定。五条は満足げに笑みを浮かべたが、このままではまた苗字がこの場を去ってしまうことは容易に予測できた。慌てて本題を切り出す。
「あいつ、戻ってくるって」
「どいつ」
「七海」
「どこに」
「呪術界に」
「バカなの?」
「本人に言ってやってよ」
「やだよ、会いたくない」
 頑なな拒絶は今に始まったことではない。何年経っても変わらないその態度に、五条は呆れるよりも感心した。少しは情でも湧いたかと期待すらしていたが、見当違いだったようだ。
 次の任務が控えていると尤もらしい理由を添えて、やはり苗字は帰る意思を見せた。昇降口へと繋がる階段へと身体の向きを変えた、その瞬間だった。
「相変わらず素っ気ないですが、生きているようで何よりです」
「うわ…」
「人の顔を見るなりその反応はどうかと思いますが、貴女の顔に免じて我慢します」
「狂気がレベルアップしてやがる」
 階段を昇ってきたのは当の本人だったのだから、苗字の顔が引きつるのは自然の摂理だった。五条は、絶対に自分には見せないような柔い言葉を苗字に与える七海を見て、新しい玩具を見つけた幼子のように目を輝かせている。包帯の向こう側で、ではあるが。
「音信不通になってすみませんでした」
「音信不通のままでよかったのに」
「メールを作成はしたんですが送信ボタンが押せなくて。気づけば保存ボックスがパンパンに」
「いやもうほんと怖い、帰る」
 七海の身体で階段が封じられてしまったため、苗字は仕方なく後退して廊下の窓を開け放ち、飛び降りた。
 ちなみに、ここは校舎の3階、着地点はコンクリートだ。
 コンクリートが悲鳴を上げる。どうやら上手く受け身をとったようで、次に聞こえたのはパタパタという足音だった。全速力で走って逃げたらしい。
「…追いかけないの?」
 開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込んでいる。その窓をじっと見つめながら、動きを止めていた七海に、五条は思わずそう声を掛けた。半ば放心状態だった七海は、五条の声でようやく覚醒をした。
「そうですね、身体も鈍っているので、鬼ごっこはちょうどいいです」
「ほんとさー、七海はパイセン絡むと面白いよね」
「見世物じゃありません」
「はいはい」
 五条に対する態度はやはり揶揄い甲斐のないものであるが、そうであればあるほど対苗字への態度が面白くて仕方ないのだから、五条は喜んで受け入れた。
 苗字が潜った窓枠は、七海が通り抜けるには小さかった。



「証券、会社勤めしてたとか…ぜぇ、嘘でしょ…ぜぇ…なにその体力、…」
「照々たる性差かと」
「呪霊に追われるより、恐ろし、かったんだけど!」
「それは申し訳ありません。数年ぶりにお会いできたのが、嬉しくて、つい…」
「嬉しくてつい、で、君は好きな相手を死ぬほど追いかけまわすのか…」
「私が貴女を好きなことはちゃんと伝わってたんですね、よかった」
「あぁ、クソ、また失言してしまった…」
 高専の校門を出てから長く続く山道。舗装はされているものの、ガードレールが所々拉げている。曲がりくねった道路に設けられた待避所しゃがみ込み、全力疾走の後遺症に噎せ返る苗字は七海を非難していた。
 しかしどんな非難も七海には届いていないようだった。寧ろ楽しんでいるのかとすら思う。企業勤めをして、嫌な方向に図太く成長してしまったのだろう。しかも、それは心身ともに。
 肩で大きく息をする苗字に、彼女とは対照的な凪いだ息で七海は話しかける。
「…苗字さん」
「なに」
「私は昔も今も変わらず貴女を心から愛してます」
 七海は片膝をついて、しゃがみ込んだまま立ち上がれずにいる苗字の目線を合わせた。
「貴女は、昔も今も変わらず死にたくて呪術師を続けているようですが、私個人の本音を言えば、死んでほしくありません。それでも貴女が死にたいと願うなら、その時は私も一緒に死にますから、どうか声を掛けて欲しいんです」
「…証券会社で病んだなら、いい精神科紹介するよ」
「学生の頃からずっと思っていたことです」
「なおさらだね」
「私を病んでいると言うなら、貴女こそ」
 それもそうか、とは口にしなかった。認めるのは癪だった。
 ようやく整ってきた呼吸だけが、山道に響く。遠くの方で車が走行しているらしい音が聞こえた。どうせその車は高専関係者のものであるが、今のこの状況を見られるのは誰からであっても避けたいところだ。観念して、苗字は立ち上がった。
「私に何も期待しないでね」
「見返り欲しさにやってるわけじゃありませんから、大丈夫です」
「大丈夫の定義、広辞苑で調べなよ」
 右見て、左見て、もう一度右を見て、車道に出た。高専の方向へ二人で歩く。七海の顔を見るのがなんとなく憚られて、苗字は彼の前を歩いた。
「私は、貴女の人生の中に居たいんです。できるなら、長生きをする貴女の人生に。それが叶わないなら、せめて、貴女の死の中に」
 じんわりと、チョコレートが熱に浮かされて溶けているような、そんな声色で七海は言った。その言葉に思わず、苗字は振り向いてしまった。勢いよく振り向いたものだから、傾斜のある道路に足を取られてふらつく。傾いた身体を支えたのは他でもない七海だった。
「やっと、振り向いてくださいましたね」
「卑怯だ」
「なんとでも仰ってください」
 七海はそう言うが早いか、苗字の身体を抱きすくめた。
 鬼ごっこでバテた苗字が、抵抗することはなかった。
「初めて会った時も、私は貴女を追いかけましたね。覚えてますか」
「あの時自販機の前を素通りすればよかったと毎日思ってる」
 言外に「覚えている」と答えた苗字に、思わず笑みを浮かべた七海は、あの日より長く伸びた苗字の髪を梳いた。身じろぎこそしたものの、苗字はそれでも抵抗はしなかった。
 そして、とっくにわかりきっていたことを、白状した。
「あれが私の初恋であり、初めての一目惚れでした」

恋をするには、あまりに正気な。

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