アルマ・ホプキンス伍長は、足が震えていることを取り繕うこともできなかった。それは、呼び出された人気のない書庫が肌寒いからではない。目の前に佇む苗字名前が、階級を思わせない親しみやすさと、それでいてやはり強制力のある視線を自分へと向けていたからである。

 ホプキンスが国家錬金術師機関に属する技術研究局に配属されたのは、例の国家ぐるみの計画が国全体を揺るがす少し前のことであった。一般公募で軍人となった彼女は、無論錬金術に明るいわけではなかった。寧ろ化学やら科学やらといった科目は、追試こそ免れたもののいつも赤点すれすれであった。そんな彼女が軍属になったのは、地元で企業務めするよりいくらか給与面が好待遇だったからに過ぎない。そうは言っても射撃やランニングといった、ホプキンスがやはり苦手とした訓練はあったのだが、持ち前の根性でどうにか士官学校はそれなりの成績で卒業できたのである。
 その後、憲兵や拘留場での勤務になるか、とひやひやしていたホプキンスではあったが、彼女の性質を見た当時の指導官がひそかにではあるが、書類仕事が主である技術研究局への推薦状を書いていたのだ。
 かくして、アルマ・ホプキンスは毎日書類を受領し、大きな問題がないかを確認、専門の査定班に書類を渡し、査定が終われば証明書を発行、などといったルーティンをこなす日々を開始した。
 しかしそんな平々凡々な生活も、驚くほど突然崩れ去ろうとしている。その原因は先般の国家事件ではない。あれは彼女の知らないうちに勃発し、気が付けば終わっていた。
 そうではない。彼女にとっての日常の崩壊は、苗字名前が直々に自分を訪ねてきて、そして言ったことによるのだ。
「ホプキンス伍長、君に折り入って頼みがある」
 折り入って、と苗字は言ったが、ホプキンスが苗字と対面するのは今日が初めてのことだった。もちろん、苗字名前中将の経歴や活躍の話は士官学校で十二分すぎるほどに聞いた。イシュヴァール戦は彼女がいなければ今も続いていたやもしれぬ、だとか、先の国家事件鎮火も彼女の手中だった、だとか。
 どれが本当でどれが誇張なのかはホプキンスには判らない。しかし、今の彼女に判別できるのは、苗字の言うところの『頼み』というのは確実に『命令』を意味するものであるということだ。
「わ、私にできることでしたら…」
 あまりに弱弱しい返事だったとホプキンスは自らを叱咤した。士官学校時代であれば、指導官に怒鳴られていたに違いない。
 しかし苗字はホプキンスのその返事にいたく感激した様子で、礼を言い、すぐさま用件を伝えた。
「国家錬金術師の排斥処分名簿の、S項の書類を私に貸してもらいたい」
「え、っと、」
 一切の迷いのない頼み、否、命令だった。
 苗字の言わんとすることを、ホプキンスは全て理解できたわけではない。それでも、彼女が言えることがあった。
「あ、あれはいくら苗字中将殿からの命令であっても、勝手に持ち出すことはできません。まして、私になんて…」
「おや、私は一度も命令だとは言っていない。ホプキンス伍長、君に、頼んでいるのだ」
 狭い書庫だ。苗字はホプキンスを威圧しないようにという意図であろうか、背後の書棚に背中を預けた。同時に組まれた腕の動きにあわせて、胸元の階級章が揺れる。
「排斥処分名簿など、誰かが処分されたときくらいしか探されない。伍長が持ち出してくれさえすれば、私が受け取ってから返却するまでのほんの数十分だ。誰にもバレやしない」
「で、でも」
「ホプキンス伍長」
 語気を強めて上官から呼ばれる名前に掛かる重みを、ホプキンスは嫌というほど習った。
「勤務時間中に長時間持ち場から離れている方が余程怪しいのではないか、と私は危惧するがね」
「…し、しかし、」
 呼び出したのはあなたではないか、なんて口が裂けても言えない。
「あぁ、私は確かに頼みだと言ったが、君がこれを命令と捉えていたのなら、そうだな、これは『命令』だ」
 ホプキンスは悟る。これがこの国の軍師と呼ばれる所以なのだ、と。それがたとえ、自らが掘った墓穴に嵌っただけだとしても、それを逃がしてくれるような甘さはない人なのだと、思い知らされた。
 先程より更に小さな声で、了解の言葉を告げると、あろうことか大変美しい顔で苗字が微笑んだので、ホプキンスは泣きたくなった。



 数日後、苗字に手渡した国家錬金術師排斥処分名簿S項は、ものの10分で返却された。すぐに終わらせてやる、とその場での待機を命じられたホプキンスが見たのは、苗字が1枚の証明書類をライターで燃やし尽くしてしまう光景だった。それは間違いなく排斥処分について大総統が了承の意としてサインと捺印をしたものである。ホプキンスが声をあげる隙もなく、書類は燃えカスとなって消滅した。
「な、なにを!」
「排斥処分のための申請書類はどこかに残っているかもしれないが、この証明書が発行された形跡さえなければ処分はなかったことになるからな」
「こ、これ、追及されたらどうされるおつもりですか!」
「君もなかなかに頭が固いな。先日も言ったろう。排斥処分名簿など誰かが処分されたときくらいしか探されない。ましてや、処分された誰かをわざわざ探すことなど」
 もしそんなことがあって何者かが疑ったとして、証拠がなければ立証できない。
 証明書の申請日付もきっとイシュヴァール戦直後だ。戦後の急務でキングブラッドレイ元大総統閣下もサインを忘れたのだろう、と言えば誰もそれ以上追及できないさ。
 用意していたに違いない『言い訳』には一切の淀みがなかった。
「死人に口なし、とはよく言ったものだ」
「…何が目的なのですか」
「さて、ホプキンス伍長、この度は本当に助かったよ」
 わざとらしく調子を変えた苗字が、足元の燃えカスを拾って自身の軍服に隠した。
「聞いたところによると、君はもうすぐ地元の青年と入籍するそうじゃないか。彼の名は、確か印刷会社勤めの、アシュレイ・トンプソンだったかな」
「なぜ、それを…」
「世話になったから、私からもいずれきちんと祝わせてくれ。心から君の幸せを願っているよ」



 ホプキンスは苗字とのやりとりを思い出しながら、名簿を元あった棚に収納した。最後の言葉を脳内で反復する、また脚が、そして手が震える。苗字という人間の、威厳と畏怖というものを形として知覚したのだ。
 地元、入籍、彼の名と勤め先。
 幸せを願う、なんてそれはまるで…。
 あの時ほほ笑んだ苗字の顔は、酷く悍ましかった。ホプキンスは、先祖代々信仰している神に祈った。
「私は無実です…ですから、どうか私を裁かないでください…」









「私はてっきり、戦後に資格剥奪されたのだと思っていましたよ」
「そうであったら、軍属復帰は難しかったろうな。私の権限でも」
 憎々しいと言わんばかりの圧で押された現大総統の捺印に、キンブリーは思わず笑う。苗字班への配属命令の書面だ。キンブリーの珍しいタイプの笑いを見て、苗字もつられて笑った。手に持った今朝の新聞がなびく。
 彼の言う通り、確かに彼が戦後に収監された数日後の日付で、彼の国家錬金術師資格の排斥処分申請書が提出されていた。しかしその証明書自体は発行されておらず、事実上の資格有効状態であったのだ。
 その事実が判明してからすぐさま、国家錬金術師機関の技術研究局の管理部門が何度も確認をしたそうだが、排斥処分名簿にSolf J Kimbleeに関する書類は見つけられなかった。戦後処理のどたばたに申請書類が紛れてしまったという、見過ごせない事故であったが、例の国家事件で彼が表立って動いていなかったという『事実』もあり、上層部でもみ消されたというのが事の次第だ。
 だがそれを苗字がキンブリー本人に告げることはない。あくまでもみ消した事故に関係する張本人であるし、勘づいたならそれでいいが、そうでないなら一生「運が良かった」と思っていてくれればいいとさえ思っている。
「さて、今日もまた軍議だ。懲りないねぇ、御偉方は」
「貴女も世間から言わせたら御偉方の1人ですよ」
 キンブリーからの小言も、数年ぶりとなると許せるものだな。どうにも平和ボケした思考を振り払うかのように、苗字は朝刊を一瞥してから、デスク横のゴミ箱に投げ捨てた。



 新聞記事の一面より抜粋
『アメストリス軍の元伍長、退役翌日に駅で転落死』
 昨夜10時頃、アメストリス軍のアルマ・ホプキンス氏が地元の●●駅で転落、死亡した。
 ホプキンス氏は前日付でアメストリス軍を退役。●●駅から地元へ帰る途中だった。
 事故のあった時間帯はちょうど激しい雨が降っており、足を滑らせたことによる転落ではないかと見られている。
 ホプキンス氏は近く入籍予定だったとのことで、恋人である男性は悲痛な面持ちで語った。
「彼女は入籍したら、軍での出来事を綴った本を、僕の勤める出版社から出したいと言っていました。どれひとつとして僕は彼女の願いをかなえてあげられなかった。事故だとはわかっていますが、やりきれません」
全てが事故の範疇なのです

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