「先輩!ありがとうございます!!!!」
「どういたしまして!」

***

「竹谷、今夜少し時間をくれないか。」
 その日の委員会後、先輩はいつになく真剣な表情で俺にそう言った。先輩が俺のことを名字で呼ぶときは、心臓がひときわ大きく波打つ。
「はい…、大丈夫です、けど。」
「そうか、ありがとう。では子の刻に門の前に。忍務時の服装で。」
 外出届けは私がまとめて出しておくから、と必要最低限と思われる事項だけを淡々と述べ、先輩は立ち去った。数秒遅れ、俺は慌てて返事をした。しかし既に先輩の姿はそこにはなく、ただ立ち尽くすしかない俺がそこに残されていた。
 俺は何かヘマをしただろうか。虫籠は補修したし、逃げ出した毒虫は捕獲した。先輩に懐いている狼の機嫌を損ねることもなかった。多分そうじゃない。委員会中のヘマなら、何も子の刻に、学園の外で待っていろなんて言われるわけがない。そういえば服装の指定をされた。ということは忍務であると考えて良いだろう。先生たちからは事前に何も聞かされていないから、先輩の独断?まさか。



 級友たちが寝静まった頃、俺は忍服に着替え足早に門へと向かう。昼間はほのかな陽気が漂い始めているが、朝晩はまだよく冷える。口当てを改めてしっかりと着用する。己の呼気でほんの少しだが温かくなる。それと同時に、得体の知れない事象へ足を進めることへの恐怖からなのか、呼吸の乱れに気付く。5年い組の会計員の先輩の姿がよぎる。三禁…。
 風も月明かりもない。忍には絶好の夜だと思う。耳を掠めるのは遠くで鳴く梟の声くらいだ。その時。
「竹谷。」
「っ、と、善法寺先輩…」
「竹谷も薬師寺先輩に呼ばれたのかい?」
 暗闇に響いた声の主は、俺と同じく忍務服に身を包んだ、5年は組 保健委員会の善法寺伊作先輩だった。普段は不運が人間の形をして歩いているような先輩であるが、こうやって忍務に向かう姿は、やはり先輩として堂々たるものだと感じざるを得ない。人を看る優しい目元も、気のせいではない、人を射る鋭い形をしている。
 そんな善法寺先輩は薬師寺先輩に呼ばれたらしい。薬師寺先輩こと、薬師寺壷助先輩は6年ろ組に所属する、現保健委員会委員長だ。通称・不運委員会の委員長というだけあって、さすがの不運を誇っているが、どちらかというと最近はそれをも上回る善法寺先輩の不運に巻き込まれつつある。柔らかな口調と、ソレとは正反対のまっすぐとした目の持ち主だ。
「いえ、俺は苗字先輩に…」
「なるほど…」
「ちっ、苗字先輩もいるのか。」
 気配無く後ろから聞こえた声は5年い組 作法委員の立花仙蔵先輩のものだった。学園一女装の似合うそのご尊顔は、目元以外を忍服に包まれていてもわかるほど嫌悪に満ちており、少なくとも彼の所属する作法委員会の後輩たちには見せられない。
「仙蔵も呼ばれたってことは…」
「私は吉祥先輩にだ。」
 吉祥宝治郎先輩、6年い組、現作法委員会委員長。立花先輩とは対照的に女装はてんで駄目だそうだが、化粧を任せたら右に出る者は居ない。男らしい顔つきとは裏腹の細くしなやかな指のギャップには驚かされたことがある。以前俺が女装実習を補修になった際は、「化粧がなってない」と直々にお叱りを受け、その手によって顔面を整えられた。歴代作法委員長一男らしく、そして作法に厳しい人である。
「なんでこのメンツなんだろう…。」
 善法寺先輩の呟きはもっともである。保健、作法、生物委員委員長に呼ばれる、それぞれの委員の、いわゆる時期委員長。何が行われるかは想像も出来ない。
 思案を巡らせる俺達は気付けば門の前にいた。まだ先輩達はいらっしゃっていないようだ。再び静寂が俺達3人を包み込む。
 呼び出しておいて遅れてすまない、と吉祥先輩を先頭に、少し多めの荷物を持った先輩方が現れたのは数分後のことであった。

「何をするか気になっているだろうが、時間もあまりないのでな。着いてきてくれ。」
 長い黒髪を靡かせて吉祥先輩は颯爽と駆け出す。流れるようなその動きは、さすが作法委員長と感嘆するほか無い。現地で説明するから、と申し訳なさそうに目で語りかける薬師寺先輩もそれに続く。置いてかれまいと俺や立花先輩、善法寺先輩も足を踏み出した。そんな俺達を護るように苗字先輩が追走する。
 こういう時、2歳しか違わないはずの先輩の背中が何よりも大きく見える。たった2歳、ではなく、先に2度積み重ねた365日という月日の重みを、わかりやすすぎる形で垣間見るのだ。それは男も女も関係ない。ふとした姿、言葉、動き、それら全てが「一瞬でも立ち止まるな」と自分に脅しかけてくるようでいけない。後方から俺を見据えているであろう苗字先輩には、俺の背中は酷く小さく見えるに違いない。まだ予測すら立っていないこれから起こる何かに、未だ怯えを否定できずにいるのだから。
 裏山を抜け、裏々山を越え、些か肺を刺すような痛みが出始めた頃、先頭を駆けていた吉祥先輩がその速度を緩めた。
「苗字、この辺か?」
「ああ。その先の大木の影に。」
 集合してからようやく聞いた苗字先輩の声に安堵すら覚える。それと同時に、知りたくなかった周囲の環境に気付く。
 じっとりと重く湿った深い森の地面、気配と名の付く全てを失った空気、そして、見慣れた制服。
「薬師寺先輩、この子は…」
「うん。数日前、4年生が戦地実習に出かけてね、」
 この子だけが学園に戻らなかった。
 薬師寺先輩がそう続けて見つめたその先、俺達のそらせない視線の先には、馴染みある紫色の忍服に身を包んだ虚ろな少年が横たわっていた。半分ほど開かれたその瞳は白く濁り、どこともなくこの世界を眺めている。夥しい量の出血により、紫だったその服は見る影も無くどす黒くなっている。それでもなお、紫だとわかるのは同級だからだろうか。今の俺にはわからない。
 4年生から本格的に始まる戦地実習により、学園の生徒は時折命を落とす。どうしようもない事故のような死であったり、実力が伴わなかったことによる死であったり、原因は様々だ。そんな現実に3年生も終わる頃には気付くが、多くの生徒は気づかない振りをして、そして気付く。下級生に不安を与えぬようにと、上級生が同級の死をけして話題にしないことにも。
「もうわかっただろう、ハチ。私たちがお前たちに引き継ぎたいのは、これだ。」
 何も語らぬ同級から目を逸らさず、苗字先輩は残酷な言葉を吐いた。
「僕たち保健委員は、亡くなった生徒をできるだけ綺麗な身体に縫合する。」
「私たち作法委員は、できるだけ生前の健康な姿に整える。」
「そして私たち生物委員は、その子を親御の下へ還す。」
 そして先輩方はそれぞれ持ち寄った荷物を広げた。
 そこからは早かった。
 見たこともない道具を滑らかな手つきで動かし、血潮が流れ切った傷口を瞬く間に塞ぐ薬師寺先輩。始めこそ視点の定まらなかった様子の善法寺先輩も、暫くすれば食い入るようにその手順をその目に焼き付けんばかりだった。同時進行で汚れた身体と生気を失った顔に色を付ける吉祥先輩は、この暗闇の中でも生前の彼を精密に緻密に再現していった。
 俺は彼に詳しいわけではなかった。組も違ったし、実習でペアを組んだこともない。だが戦地実習で命を落とすほどの奴でもなかった。少なくとも俺よりは優れた4年生だったと思う。真面目な努力家であったことは人づてに聞いていたし、それでいて気さくな一面もあったから友人も多かった。
 俺はその「友人」の1人にはなれなかったのだけれども。

「こんなもんかな。」
「上出来だよ壷助。」
「わかっただろう、仙蔵、善法寺、竹谷。私たち作法・保健・生物委員長は、命を落とした生徒を拾い上げる忍務を与えられている。そして、私たちが卒業した後のそれぞれの委員の長はお前達だ。」
「しかし、吉祥先輩、」
 まだ苗字先輩は何もしていないではありませんか。
 立花先輩の責めるようなその口調は、生物委員ではなく苗字先輩に向けられていた。立花先輩は幾度となく苗字先輩が気にくわないと公言しているが、そこまでとは、と、こんな時ではあるが実感してしまう。
 だが、極めて冷静に苗字先輩は口を開く。
「竹谷、お前のモットーはなんだ?」
「関わったら、最後まで。」
「そうだ、それはひいては生物委員のポリシーだ。わかったな立花、我々生物委員は、最後の最期を引き受けさせてもらうよ。」
 目を細めて、一呼吸ほどの皮肉を込めて、苗字先輩はそう言い放った。間髪入れずに、俺に彼(だったもの)を抱えて着いてくるように指示し、その場を立ち去った。その手には風呂敷一つ分の荷物。
「竹谷、苗字さんに着いていって。僕たちは、本当にここまでなんだよ。」
 おやすみ、と、医療道具を善法寺先輩と片付けながら薬師寺先輩は言う。その隣には、立花先輩を小声で叱りつける吉祥先輩。ある意味では見慣れたこの光景を離れ、苗字先輩に着いていくことは、なんだか怖ろしく思えた。見たこともない苗字先輩をみぞおちにねじ込まれた感覚がずっと続いている。形容はしがたい。まるで真夜中の墓場を歩いているような気持ちだ。大丈夫だと言い聞かせても、一歩踏み出す度に、自分の身じろぎのかすかな音一つに、過敏になる。
 それでいて先輩の指示に逆らうことも出来ないので、彼を持ち上げる。重力に逆らい硬直した彼は悲しいほどの重みを感じさせた、

「ハチ、さっき壷助と宝治郎が手を動かしている間、何を考えていた。」
「え…っ」
 作法委員、保健委員の先輩方を背にし、わが委員長を追いかけてすぐ、そう問われた。苗字先輩は真っ直ぐに前方のみを見て歩いているためだろうか、窘められている、と感じた。
「あ、いや、責めているわけじゃないよ。ハチのことだから、その彼のことはよく知らないまでも、知っている限りのことを思い出しているのではないかと、そう感じたのだ。」
「…さすがですね、先輩。」
「4年もね、ハチの先輩をしていたら、それくらいはわかるよ。」
 口当ての下で、ふふっ、と笑った音がした。後方からは当然表情を窺い知ることは出来ないけれど、きっと少し幼い顔をしている気がした。
 そういえば、今日先輩が笑ったのは初めてかもなぁ。
「ハチのその少しばかりの思い出は、きっと今から役に立つ。」
「今から?」
「そう、今からこの子の親御さんの下に行く。そして、彼がどのような学園生活を送っていたか、話してやるのだ。親御さんにとって、私たちにとって、いかに誇り有る息子であり後輩であり同級生であったか。」
 それはどうしたって作法にも保健にも荷が重い。命あるものを一心に見て、診て、看る、私たちでなければ。
 その言葉は先輩自身に言い聞かせるようであったし、俺の奥深くに刻みつけるための刺青のようでもあった。
「ほら、急ごう、夜が明けてしまう。」
 夜なんて明けなければいいと、本気で願った。



 あれから数日後、俺は反芻していた。あの夜ではなく、夜が明けて、彼の実家に辿り着いた後のことを。
 今にも起き上がりそうな、しかし二度と動かない彼を見て親御さんは崩れ落ちた。大の大人が、全身から力を失う姿を見たのはこれが初めてのことだった。
「何が正しいのかわからなくなるだろう。だからこそ3つの委員が結託しているのだ。」
 なんてことないように吉祥先輩はそう励ましてくださったが、どうも俺には難しい。これから生徒が命を落とす度、この難しさと向き合っていくのだろう。しかしそれを面倒だとは不思議と思わない。何故だろう。
 それでも少しだけ眠れなくなり薬師寺先輩の下を訪れた時、先輩はこうおっしゃった。
「伊作と仙蔵はともかく、竹谷は来年委員長ではなくあくまで代理になるわけだから、苗字さんは始め引き継ぎを渋ったんだよ。君の性質を鑑みると、荷の重さに押しつぶされるかもしれない、とね。でも、君の4年間を一番側で見てきた『先輩』は他ならぬ苗字さんだから、最後はその性質に賭けたんだよ、寧ろね。」
 信頼されているんだよ。不眠によく聞くという薬を煎じながら先輩は笑った。その手は度重なる不運のせいだろう、傷まみれではあったが、あの彼の痛ましい戦場の爪痕残る身体から掬いあげた。そのこと思い出し、ふと心が軽くなるのを感じた。

「っと、ハチ、医務室にいたのか。」
「あ、苗字先輩!」
「苗字さん、これから委員会?」
「ああ、行くぞハチ、孫兵も待ってる。」
「はい!薬師寺先輩ありがとうございました!」
 眠れず悩むのはまた明日にしよう。今はとにかく苗字先輩に着いていって、委員会の仕事を全うしよう。
「先輩!ありがとうございます!!!!」
 俺にあんな大きな荷物を分け与えてくれて。
 さすがの先輩も、何に対しての礼だがは察しが付かなかったようだけれども、どこかのいけいけどんどんさながらのはつらつとした声で「どういたしまして!」と返してくれた。その瞳の奥底に欠片ほどの暗闇が沈んでいることには気付いていたけれど、それは俺が今抱え込もうとしている物と同じ色をしているから、まだ気付かないで良いのだと蓋をした。
墓標に刻みたい感傷

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