苗字は次第に薄暗くなる空を眺めながら、帰路を急いでいた。今朝のラジオで聞いた天気予報では、夕方から深夜に掛けて土砂降りの雨だと言っていた。キャブでも捕まえようかとは考えたものの、先日当たった運転手がえらく運転の荒い男であったことを思い出した。同じ運転手を捕まる確率は低いが、それよりも折角のオフを車酔いで締めくくる可能性を厭忌し、結局は足早に通りを進むことに徹したのだ。
 右手には買い置きようの缶詰が数缶入った紙袋。幸か不幸か食事はほぼ軍の食堂で済ませられるし、会合があれば全て経費で落とされるコース料理が食べられる。偉くなればなるほど食事の心配が要らなくなったが、それに伴って体重が気になるようにはなった。年に数回実家に帰れば、「顔色が良くて安心したわ」なんていう客観的意見を母親から聞かされる。
 かっちりとした軍服を脱げば、どこにでもいるような、ありふれた人間であると苗字は自身を評価していた。人より少し学業の成績がよかったが、それも10年以上前の話だ。内戦で功績をあげもしたが、それもどれだけの犠牲の上に成り立ったものなのか、考えもしたくない。それでもやはり、彼女の出来の良い脳味噌にこびり付いて片時も離れやしないのだが。
 煉瓦造りの歩道に立つ街灯が瞬く。空は辛うじてまだ泣き出してはいない。
「おや、」
 苗字が空から真正面に視線を戻すと、よく知った女性が前から歩いてきていることに気付いた。普段はバレッタで留められた金色の髪を、今日はおろしているようだった。
「ホークアイ中尉、こんにちは」
「っ、苗字少将!」
 空いている左手で控えめに手を振れば、ホークアイもすぐに気付いたようだ。苗字と同様に買い物袋を左手に、右手には飼い犬に繋がったリード。敬礼をしようとした彼女の手は既に塞がってしまっていた。苗字もそれを察して、振っていた左手でそのままホークアイの動作を制した。
「お互い今日はオフなようだし、気にしなくていい」
「恐れ入ります…」
 軽く頭を下げたホークアイを見上げる彼女の愛犬の名は、なんと言ったか。
「…ブラックハヤテ号、だったか?」
「よくご存知ですね」
「マスタングから聞いた」
「大佐から、ですか」
「お前の所のハボックをうちに寄越せと交渉しに行った時かな。断られたけど」
 ホークアイが目を丸くしたのを見届けてから、苗字はすかさず「最後のは冗談だ」と笑った。ほっとしたような、苗字の冗談を咎めるような、複雑な表情をホークアイは浮かべながらも、口元は微笑んだ。
 この人は誰か、と主人に問いかけるように足下を回り続けるブラックハヤテ号。次第にそれも飽きたようで、その場に伏せた。女性2人が話し終わるのを大人しく待つようにしたようだった。
「ふふ、可愛いな」
「犬はお好きですか?」
「あぁ、好きだよ。主人に忠実だし」
「…マスタング大佐と同じ事を仰っておられます」
「それは心外だな、前言撤回だ」
 思わず吹きだして笑ってしまったホークアイを見て、苗字は「この人はそんな風に笑うこともあるのか」と内心では驚いていた。仕事中のホークアイはあまりに冷静で、淡々と任務をこなしていたイメージが強かったのだ。少なくとも、内戦以後での話ではあるが。
 しかし、休日の人となりは管轄外だしな、とそれ以上は何も考えることはせず、苗字は腰を落として、道に伏せていたブラックハヤテ号の頭を優しく撫でた。満足そうに目を細めた彼は、そのまま自ら苗字の手にその頭をすり寄せる。
「犬を飼っておられたことは、ありますか?」
「あー……、そうだな、昔に一度、シェパードを1匹だけ」
 身体の毛並みを整えてやる手の動きに合わせて、ブラックハヤテ号はまた目を細める。もう1度頭を撫でてほしいのか苗字の手を探し出し、その指を一舐めした。ホークアイは「こら」と窘めたが、苗字は「さっき食べたドーナツの粉砂糖でも残ってたかな」と笑った。
「私に危害をくわえそうな人にはよく襲いかかっていたよ。忠犬というより、番犬だった」
「少将のことを本当に好きだったのですね」
「…そうだったらいいね」
 ブラックハヤテ号の頬を両手で挟み、苗字は言う。「君は、ご主人をしっかり守りたまえよ」と。
 すでに空はブラックハヤテ号の名前に似た色に染まっていた。幸運なことに、まだ雨は降らない。しかし幾分か湿気を含んだ空気があたりを包み込んできている。
「足を止めさせてすまなかった」
「いえ、お話できて光栄でした。ハヤテ号も喜んでますし」
「なら安心した。じゃあ、気をつけて」
 会釈を返したホークアイと、一鳴きだけ甘えるように吠えたブラックハヤテ号に、苗字はやはり手を振った。遠ざかる1人と1匹の背中に、羨ましい懐かしさを覚えてしまう。
「今度はネコでも飼うか…」
 そんな苗字の意識を現実に呼び戻すかのように、1滴の雨粒が頬に落ちた。
Rain cats and dogs

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