煙草の煙が「非常口」と書かれた扉にぶつかる。ぼんやりとそれを眺めていたところ、頭上から「やあ」と声が降りてきた。それと同時に、ハボックは反射的に顔を上げた。そこに立っていたのは、懐かしさを感じるには鮮明すぎる青に身を包んだ女性であった。無意識に胸と肩に付けられた立派な星の数を確認し、即座に背筋が伸びる。
「苗字中将!?」
「元気そうで何よりだな、ハボック少尉。」
 ハボックの未だ感覚の鈍い下肢に、心なしか力が入る。苗字は至ってにこやかであり、その表情に裏がないことは明白だが、やはりその階級と経験値から滲み出る迫力があるのだ。
 腰掛けている車椅子が軋む。
「リハビリはサボりか?」
「まさか、休憩ですよ。中将はなぜ病院に?」
「健康診断でちょっと引っかかってしまってね。これから再検査さ。」
 面倒だ、と言わんばかりの深い溜息をついて苗字は彼の左にしゃがみ込んだ。立ったままだと、苗字がハボックを見下ろす視線になるのが気になったらしい。
 退役しているとは言えども「上官」で、それでなくても女性である苗字の前である。更には気を遣って目線まで下げられた。些か気まずさを感じたハボックは煙草の火を消そうと、自前の灰皿に手をかける。当然、病院内は禁煙なのだ。
 しかし、それは阻まれた。
「あぁ、気にせず吸ってくれ。寧ろ1本分けてくれないか。」
 彼女がハボックを見上げて言うことには、共犯宣言だった。



「……女運、なさすぎではないか?」
「言わんでください……」
 煙草を1本吸い終わるまでに掻い摘んで話したのは、苗字が「約束の日」にハボックが成した功績への礼と、ハボックは下肢障害を抱えた経緯であった。
 ソラリス……いや、人造人間・ラストとの話は実に興味深そうに聞いていた苗字が、最後に述べた感想は他からも幾度となく聞いたことのあるものだったので、ハボックは頭を抱え、今度こそ煙草の火を消した。
 いい男なのに見る目はないんだな、とトドメの一言を発してから、苗字も同じようにハボックの灰皿に煙草を押し付けた。
 話の上手い逸らし方がわからないハボックは、思い切って話題を変える。
「中将も、煙草吸われるんすね。」
「普段は全く。上官に付き合わされたりで、たまにね。処世術だよ。」
 寧ろ煙は苦手だと言って笑い、彼女は立ち上がる。そんな彼女の部下が、平素より爆音と硝煙を愛しているのはなんという皮肉なのだろう。得てして、世の中とはそういうものだ、とハボックも理解していないわけではなかったが。
 軍服の裾に着いたらしい埃を払い、苗字は言う。
「休憩の邪魔をして悪かったね。そろそろ観念して再検査に行って来るよ。」
「いや、俺なんぞに話しかけていただいて、ありがとうございました。」
「謙遜は良くないね、ハボック少尉、君はとても優秀だよ。」
「もう少尉でもないですよ。」
「いつでも歓迎している、ということだよ。」
 東の国との混血児であるという彼女のエキゾチックな微笑みは、今のハボックの心臓には悪かった。
 そんな心情を見破ったのか、高らかに苗字は笑いながら「非常口」と書かれた扉を押して出て行った。重い扉が閉まった途端、ハボックは突然隔離された感覚に襲われる。暫く身動きが取れずに扉を眺めていたが、突如身震いを起こし、次の瞬間には「そろそろリハビリに戻ろう」という気になった。車椅子の車輪に手をかけて展開する。
「おや、サボりですか?」
「…休憩っすよ……」
 展開したハボックの目と鼻の先に立っていたのは、紅蓮の男。二つ名に反して涼やかな視線と声色をハボックに落としている。本日2度目の問い掛けに、実に冷静に返事ができたと感嘆した。
「そうですか。ところで、苗字中将を見ていませんか?」
 ハボックのことなどまるで興味を示さず、紅蓮の男―あゾルフ・J・キンブリーは言う。用件は、それ、らしい。
 再検査に戻る、と言っていたが、この男の様子だ。割と本気で検査を抜け出してきたのかもしれない。嘘はつきたくはないが、極力最も上の者を守るべきか。
「いや……知りませんね…」
 目を逸らしてはバレると思い、至ってシンプルに、そして平静を装い答えた。それに対してキンブリーは、そうですか、とだけ答える。ほ、と安心したのもつかの間。
「ところでハボック元少尉、病院で煙草を吸いすぎなのでは?」
 手元の灰皿を、キンブリーは優美に指差す。思わず手元に目を落とせば、自分が吸った煙草と、紛れもなく赤い口紅の残る吸い殻が入っていた。
 嫌な汗が背中を伝う。
「……まぁいいです、どうせそこの扉から出て行ったのでしょう。追いかけます。」
 すたすたと去っていくキンブリーの最中に、気持ちばかりの敬礼を投げかける。若干の苛立ちすら垣間見えるその歩みに、あの男もああいう感情があるのか、とハボックはある種の安心を覚えた。
 今度こそリハビリに戻ろうと車輪に手をかけたところで、またそれは阻まれる。
「君は本当にいい男だね。軍に再入隊したら是非私のところにおいで。」
「……出て行ったんじゃなかったんすか?」
「すぐにキンブリーが追ってくるのも、君が嘘つくの下手なのもわかっていたから、扉の裏に隠れてたんだ。キンブリーが去ったと同時に、こっちに入ってきた。」
 イタズラを成功させた子供のように苗字は言う。
「流石、軍師様。」
「お褒めに預かり光栄だね。」
 人懐っこい笑顔も作戦なのだろうか。そうなら少しは嵌められてみたい、と思ったところで、やはり自分の女運の悪さをハボックは呪った。
フィルターの向こう側の人

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