季節もすっかり秋めいてきた日曜日の朝。こういう季節が1番服装に困るよね、と毎年お決まりになってしまった言葉を漏らしながら着たのはチェック柄のAラインワンピースだった。ショップの店員さんに、今年はチェックが流行なんですよ、と乗せられて買ってしまったが、町の窓ガラスに映る私は悪くない。首元から滑り込む秋の風は少し肌寒さを実感させるが、ハーフアップにした髪がそれを和らげてくれる。猛烈に熱かった夏はずっと1つにまとめていたから、久々のヘアアレンジに新鮮さが蘇る。ついでに、デザインとセール価格に誘惑されて前の冬に買ったカシミヤの靴下が温かい。
 駅前の時計台は色とりどりの花咲く花壇で囲われている。前日に降った雨で花壇も花も、全てが濡れている。花壇に座って待つのは諦めた。周りには、私と同じように誰かを待つ人がちらほらと見える。たった3cmの高さのパンプスだけで、気分が上擦ってしまう。
 サコッシュから取り出した携帯には、特に何の通知も来ていない。相変わらず連絡無精だ。
 夫とは、朝から2人で出かける予定だったが、早朝に会社のセキュリティが作動したとかで慌てて出て行った。普段は見たとおり朝に弱いくせに、ああいうときは目にも留まらぬ早さで支度をしていく。その姿に、なんとも人間くさい一面もあるものだと実は嬉しく思っている。
 これは昼まで戻らないだろうと思いゆっくりと起床した私の携帯には、10時半に駅前で待っていろ、とだけメッセージが来ていた。わかりづらいようで、内心では出かけるのを楽しみにしていたらしい。拗ねていたわけではないけれども、忘れられていなかったことに安心と満足を覚えて「さて、何を着よう」とにやける顔を隠すこともせずにクローゼットを開いたのだが、結局冒頭の常套句を漏らしたのだった。
「苗字さん?」
 斜め右前から投げかけられた名前に、思わず顔をあげた。そこに立っていたのはシンプルな白のワイシャツに、紺色のスキニーを履いた同年代の爽やかな印象の男性だった。細いフレームの今時の丸眼鏡と、その向こうで細められているのは薄い二重瞼が印象的な瞳だった。あぁ、どこかで見たことがある、と掠れる記憶を手繰り寄せる。私の旧姓を呼んだということは、学生時代の知り合いだ。
「覚えてないかな、高校の時に少しだけ付き合ってたんだけど。」
「…あ、ああ!」
 なんということか、元彼というやつだった。彼の言うとおり、高校2年生の時に少しだけお付き合いをして、すぐに別れてしまった。そう、ちょうどこれくらいの季節のことだ。紅葉が散って、息が白くなるくらいの頃には別れを告げていた。
「偶然だね、お互い地元でもないのに。」
「ほんとに。僕は今仕事でこっちに居るんだけど、苗字さんは?」
「私も就職と結婚を機に、こっちに。」
「、そっか、結婚したんだ。」
 柔和な彼の伏せられた目を見て、高校時代の仲の良い友人にも結婚の報告をしていたことは黙っていた。彼とは喧嘩別れをしたわけではないが、当てつけのような報告をしたかったわけでもない。どう取り繕ったところで、それを言ってしまうことは無駄だったからだ。
 鞄の中で微かに携帯が震えた気がしたが、目の前の“同級生”との再会もないがしろに出来ない優柔不断な私が居る。
「髪、伸びたよね。」
「そうかな…」
「そうだよ、高校の時はもう少し短くてさ、僕はその時の髪型が可愛くて好きで、」
 私はもう、その頃の彼のことをほとんど覚えていない。どんな話をしたとか、一緒に下校した日の空の色とか、彼はきっと色々と覚えているのだろう。初めて手を繋いだ時の温もりとか、別れを告げた夜の冬の匂いとか、噛み締めた奥歯の痛みとか、鮮明に思い出しては未だ尚、宝箱みたいな胸の内に潜めてはたまに開いているんだろう。悲しいほどに愚かしいし、だからこそそういうところを他の誰にちゃんと愛されて欲しいと願った。私には荷が重かったのだろうと、もう10年も前になりそうな当時の私に寄り添った。
「おい、人の嫁さん捕まえて何やってやがる。」
 彼との間に割って入ってきた男はどうだ。この人は彼のように雰囲気の柔らかい人ではないし、私のちょっとした変化に気付いているくせにそれを口にしてはくれない。たまに見せる嫉妬はねちっこい割に、踏ん切りの付かない態度をとるもんだから、私がついに業を煮やして逆プロポーズをしてやった。
 世の女性の多くは彼の方が魅力的に見えるのだと知っている。それでも私は面倒で傲慢な、人間くさい男を選んだ。
 好きで好きで仕方ないからだ。
 そんなこと、お互いに言わないけど。
「尾形、違う、高校の同級生と偶然会っただけだから。」
「すみません、久しぶりに会ったのでつい長話してしまって…この方がさっき話してた旦那さん?」
「そう、この後予定あるから、この辺でごめん。」
「うん、またね、苗字さん。」
 睨みをきかしている夫を引き離すように、矢継ぎ早に言い訳染みた会話を交わし、足早に立ち去った。またね、という彼の言葉には肯定も否定もできなかった。また、なんてもう来ないのだ。どんな意味でも。
 骨太の夫の腕を引きながら彼に背を向けて歩き出した私を、その腕で引き寄せてから夫は後ろを見やった。ふん、と鼻を鳴らしたことから、まだ彼はこちらを眺めていたのかもしれない。珍しく私の腰に回された腕によって、私は振り返ることが出来なかったから、予測でしかないが。
「俺からの着信そっちのけで元彼と駄弁るとはな。」
「…ごめん……」
 不機嫌な低い声で、溜息交じりに聞こえた言葉に、素直に謝るしかできなかった。同級生、なんて、その場しのぎの退屈な誤魔化しだった。
「これ見よがしにお前を旧姓で呼びやがる。性根の腐った元彼だな。」
 普段は私の歩幅に合わせて歩く夫が、今日はやけに大股に歩く。3cmのヒールが憎い。それでも私に巻き付いた腕は離れようとしないから、半ば引きずられるようにして私も着いていく。
 性根の腐った―――私にはそうは見えていなかったけれど、もしかしたら本心では見抜いていたのかもしれない。一度懐に入れた者を手放したくない、ただの独占欲の強い男だったのかもしれない。そうじゃなければ、あそこで私を見かけたとしても声を掛けることは躊躇ったかもしれないし、昔の髪型を褒めなかったかもしれない。またね、と言って手を振るなど、絶対にしなかった。
「お前はもう尾形名前だろ。よそ見すんな。」
「よそ見なんか、してない。」
 不意に立ち止まって向き合う。黒のTシャツにミルクティー色のジャケット、デニムパンツと革靴。さっきの彼のように爽やかな印象など1つもないけど、私が好きなのはこの人だと嫌でも認識させられる。
「……もしかして帰って着替えてきた?」
「仕事服で出かけられるわけねーだろ。それに1回帰るなら待ち合わせなんざするか。着替え持って行って、会社出る前に着替えたんだよ。」
 アホか、とまた身体を引かれて歩き出す。今度は少し冷えてしまった私の右手を、汗ばんだ左手で握りながらだ。私の手を引きながら半歩前を歩く夫の首筋には、うっすらと汗が滲んでいる。
「…走ったの?」
「悪いか。」
「全然。」
「感謝しろ。」
「うん、ありがとう。」
「…………そのワンピース、初めて見た。」
「そう、おろしたて。」
「髪下ろしてるのも久々に見た。」
「首元の防御。」
「何からだよ。」
 珍しく笑った。
 彼のことを思い出せなかったのはこの男の存在が全て上書きしていったからだ。きっとそうだ。ちゃんと今の私を見てくれる。滅多に口にはしないし、可愛いとか似合ってるとかは口が裂けても言ってくれないけど、それもご愛嬌。
「百之助さん、大好き。」
「なんだ突然、気持ち悪い。」
 言葉とは裏腹、握りしめる手が強くなった。
嘘八百のバラッド

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