尾形が帰ってこない夜は随分と久しぶりだ。泊まりがけの出張などは年に数回程度だし、仕事終わりに飲みに行くことはまずない。仕事が終わればすぐに家に帰ってくるので、晩ご飯を作るべく私は毎日ダッシュで職場から帰ってきている。まあ週の半分程は尾形の方が早く帰ってきており、そういう時は所謂「男飯」みたいなのを作って待ってくれている。これがまた仕事終わりの空腹を存分に満たしてくれるので私は好きだ。今後歳を重ねていったときの胃もたれが怖いところでもあるので、そろそろ和食の作り方を教えてやろうとは思っている。
 まぁとにかくそんなわけで、尾形が突然「社内の飲み会に顔出してくる」と言い出したのだ。そう、ちょうど昨日の今くらいの時間だ。面白いバラエティも終わりに近づく22時、言うタイミングを図っていたようだった。珍しいこともあるもんだね、と笑えば、新入社員歓迎会だから強制参加なのだと嫌そうな顔をした。普段付き合いが悪いことをとやかく言わないような、良い職場らしい尾形の勤め先が「強制参加」とは。そしてそれを突っぱねず、なんだかんだ行こうとするのだから尾形も悪い人間じゃないと私は内心頷く。見た目は本当に悪人面だけれど。
 1人で過ごす夜は静かだ。華金を楽しんでいる(いや、楽しんではいないだろうけど)尾形に内緒で、彼の秘蔵ウイスキーを飲んでやろうか、とも思ったが、後が怖いので安売りしていたカップアイスを頬張った。じんわりと広がる冷たい甘みが、意外な寂しさを内包しているようで苦笑するしかない。
 普段はあんなに「まだ帰ってくるなよ」と思いながら晩ご飯を作っているのに、私も天の邪鬼なもので、「まだ帰ってこないのだろうか」と溜息を漏らす。間違ってもそんなことを思っていたなんて、帰ってきた尾形には言わないけれど、少しだけなら滲ませても許されると思うのだ。
「“迎えは要らない?”」
 可愛げも何もないメッセージを送る。要らない、と返ってきたらふて寝でもしてやろう。そう思ったのだが、意外や意外、すぐさま既読が付いた。普段は手の空いたときにしか携帯を見ない連絡無精の男が。
 ちょうど連絡しようとしてた、と返事が来る。あぁ、職場の飲み会に出ていても、隅っこに私の姿を置いていたことを感じ、無意識のうちに頬が緩む。
「“30分後に来てくれ”」
 飲み会も終盤らしい。今から少し身なりを整えてから出れば、ちょうど指定の時間に到着できるだろう。私はバネのように立ち上がり、空になったアイスのカップをシンクに投げ出した。





 繁華街にある居酒屋の大広間でやると聞いていたため、まさか店の前に車をつけることもできず、近くのコインパーキングに停めた。場所をメッセージで送ろうとしたところで、店まで行った方が早い気がし、打ちかけた「今着いたよ」という5文字を消した。
 携帯と財布と車のキーだけを持って車外に出る。吹き溜まったような重く湿った空気が纏わり付く。そういえば台風が近いとニュースで言っていた。
 きらきらとしたネオンや、少々露出の高い服を着た女性と幸せそうな赤ら顔の男性。実に華金らしい光景だ。私は何となく満足をする。小綺麗にはしてきたが、こんな浮かれた夜の中では浮いていやしないか、と、ふと不安になった。
「お姉さん、1人?」
「おいやめろ!」
 居酒屋があるはずの通りの左側を、上を見ながら歩いていたら後ろから肩を力強く引っ張られた。いや、あまりに強いそれは、もはや捻られたに近い。思わず呻く。反射的に振り向くと、安っぽいスーツをまとった新卒らしい男性とそれを青い顔で制止する同年代の男性がいた。そのまた後方には何人かの同僚らしい会社員が数人、彼らもまた怒りと呆れが半々の表情をして私の肩に手を置いたままの男に駆け寄ってくる。
「お前、酔っ払いすぎだ!」
「申し訳ありません!こいつにはきちんと叱っておきますから!!」
「あれ?尾形さんの奥さんじゃないですか!!」
 ナンパ男より年次が上らしい上等なスーツの男性2人が、男を攫っていく。呆然とする私に声を掛けたのは、その後ろからフォローをしてくれたらしい細身でポニーテールがよく似合う女性。彼女は1度会ったことがある。たしか、尾形の同僚だ。ん、ということはこの集団は尾形の参加した社内飲み会のメンバーか。
「あ、ご無沙汰してます……。」
「ご結婚お祝いに伺って以来ですよね! すみません、彼、うちの新入社員なんですが今晩かなり飲み過ぎたみたいで…酔いが醒めてからきつく言っておきます。」
 申し訳ないくらいにぺこぺこと頭を下げる彼女は、以前結婚祝いに家に来てくれたとき尾形の同期だと言っていた。つまり私より幾つか年上なはず。次第に、肩を捻られたときの怖さよりも、彼女に頭を下げさせていることへの申し訳なさが勝ってくる。
「あの、怪我したわけじゃないですし……私は大丈夫ですから、」
「いや、しかし上司の奥さんに彼はとんでもないことをしましたよ!」
「あ、いや、ほんとに大丈夫ですから…」
 あまり騒ぎ立てるのも本意ではない。彼女自身それなりに飲んでいるらしく、少し興奮気味なことは明かだ。早いところ尾形を回収して帰りたい。
 というか、あまり騒ぎ立てると事の次第を知った尾形が面倒だ。それが私の本音。
「おい、なんの騒ぎだ。」
「あっ、尾形さん!!!!」
 私はゲームオーバーのようだ。ぎちぎちに先輩社員に絞められているナンパ男を一瞥し、尾形はその目に私の姿を認めた。来てたなら連絡くらい入れろよ、という不満そうな顔を隠そうともせず、同期女性から密告を受けている。
 騒ぎの全容を瞬時に理解した尾形は、それはそれは、もう、良い笑顔だった。
「明日は緊急会議ね。」
「あいつの夏のボーナスは飛ぶかもな、ははっ。」
 同期女性と二言三言、不穏な会話をした後、尾形は私の腕を引いて駐車場の方へと脚を踏み出した。
「俺はもう帰る。あとはお前らでどうにかしろ。」
 名前、帰るぞ。痺れるくらいの苛立ちを含んだ声に、このあと車内で訪れる2人きりの空間を私は酷く恐れた。





 ETCが入っていないというアナウンスの後に、想像通りの沈黙。それを打ち消すように私はシートベルトを右肩の上から引き下ろしてくる。しかしそれを止めたのは、他ならぬ尾形の手だ。普段よりも熱いその体温で、尾形がどれくらい飲んできたかは予想がつく。
「ん、なに。」
「なんで連絡しなかった。」
 その目は不満と不安が混ざり合った黒をしている。アルコールを摂取しただけとは言わせない潤みが、先程感じた怖いくらいの苛立ちなどとうに無いことを認識させてくれる。
 最適な答えを、尾形が納得できるようゆっくりと口にする。
「普段あまり携帯見ないから、駐車場の場所連絡するより店に迎えに行った方が早いかと思って。電話するのも邪魔かも知れないし。」
「その結果ああなってたら意味ねぇだろうが。」
 行き場を無くした左腕に広がる尾形の体温が、嫉妬で熱い。尾形が思うよりも私は思慮が浅いので、これくらいのことで愛されていることを実感してまた頬が緩みそうなのだ。それを尾形はきっと知らない。でも私は尾形が、自分だけが好きなのではないか、と常時思い悩んでいることを知っている。両親から見向きをされなかった過去から、自身に自信がないこと、それが嫉妬や束縛にも似た言動に現れていることも、同じように知っている。
「…心配しなくても、何にも靡いたりしないよ、私は。」
「お前くらいの女なら、もっと男前探してそいつにしときゃよかったんだ。何もこんな顔に傷のある男じゃなくても、その方がきっと幸せだったろうに。」
「尾形と一緒に不幸になると決めたのは私なんだから、勝手に私の“幸せ”を決めないでくれるかなぁ。」
 泣き言に近いその言葉は湿気の多い夏の夜によく溶ける。街灯も人気も少ない駐車場で、男女2人、緩やかに闇に飲み込まれ、それでも手を繋いでいる光景は、例えば先程の新卒男性から見れば滑稽なのだろうか。考えるだけ無駄だ。
 帰って水を飲んで、シャワーを浴びたら多分元の尾形に戻れる。そうだ、私は何でも知っている。尾形のことなら、なんだって。
「帰ろ。みぞれのカップかき氷買ってあるけど、食べるでしょ?」
「……食う。」
 やけに整った顔を不遜なまでに歪めた尾形に、私はある種の安心をし、再度シートベルトをしめた。サイドブレーキを下ろし、アクセルを踏む。
そうして私たちは、光を反射する金曜の夜の町に、さよならを告げた。
どうせ朝のシーツにくるまっているのがお似合いの私たちだ

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