懐かしい出来事を思い出した。
俺が名前と結婚する前の日の話だ。
あの日の名前の行動に、特別に深い意図はなかったのだろうと、俺は確信している。


 毎週巡ってくるような普通の日曜の朝、名前はスーパーに行ってくると財布と携帯だけを持って出かけようとしていた。窓の外をみやれば、雲1つ見えず目に痛いほどの青いが広がっていた。日の光は既に町を刺している。車を出そうかと提案するも、運動ついでに歩いて行くとやんわりと断られた。なら日傘を持っていけ、と部屋の隅に忘れ去られたように転がっていたそれを名前に投げた。運動ついでに、と名前が言うときは基本的に体重が増えたときなのを知っている。体重を気にする程度の美容意識があるくせに紫外線は気にならんのか。甚だ疑問だ。
名前がよく行くスーパ−はここから徒歩15分程の駅前にある。じっくり品定めをしてくるだろうから、帰宅は1時間は後になるだろう。ベランダに干した洗濯物が早くも乾いていく様を見ながら、冷蔵庫の麦茶が少なかったことを思い出した。帰宅早々喉が渇いたなんだと騒ぐ名前は簡単に想像できる。耐えがたい暑さに負けてエアコンの電源を入れてから、重い腰をあげた。まだ麦茶のティーバッグはあっただろうか。無ければ買い出しに追加要請をしよう。

 大きな音をたてて玄関が開く音で目が覚めた。心地よく冷えたリビングで俺は暇を持てあました後に微睡み、結局遅めの二度寝をかましていたらしい。ご丁寧にソファに横たわって。玄関からは遠いはずのこの部屋に、想像上の外の熱気が入り込んできたようで夏が嫌になる。
 暑さにあてられたのか、急き立てるような「ただいま」が聞こえたので、覚醒しきていない喉から「おかえり」を絞り出した。名前の姿を、睡眠と起床の半ばを揺蕩うこの目が捉える。スーパーに行っていた筈の名前の手には、有るはずのない色彩があった。
「なんだそれ。」
「え、花束。」
 この家に花瓶なんてないのに、なんだってそんな立派な花束買ってきたんだ。慈善活動か何かか。考えるより先にそう言葉が口を出る。しかし名前は臆することなく返答をする。
「ちゃんと話を聞いてよ。」
「浮気相手にでも贈るか?」
「もー!!!話を聞けってば!!」
 スーパーのレジ袋を乱暴に床に落とし、花束は抱えたままでソファに侵入してくる。横たわっていた俺の脚を無理矢理に退かして、俺を座らせる。むっとした顔をしながらも、それは悪巧みをしている餓鬼のような笑顔も含んでいる。どう考えても面倒が待っている気がするものの、困ったことに惚れた弱みってのもある。否が応でも向き合う形になった。
「帰ってくる途中に花屋さんがあるんだけど、そこで少しずつ売れ残ってる花があったわけ。」
「…やっぱり慈善活動か。」
「違うよ。その少しずつ売れ残ってた花がさ、どうしてか百之助さんに思えた。」
 丸く迷いのないその双眸が、真っ直ぐに俺を見透かしていた。思わず弾かれるようにその目から逃れようとすれば、許さないと言わんばかりに名前の右手が俺の顎を掴んだ。
 細く柔い筈のその指が、頑丈な拘束具にも思えた。
「目を逸らさないでもらえる?」
「何が言いたいんだお前は。」
「せっかく咲いたのに誰も選ばれなかった花だとしても、私は自分の意思でその花を選ぶよ。」
 顎を掴んでいた手を、流れるような動きで頬に移し、そして名前はトドメの一言を放った。
「私と結婚してください。」
 エアコンの稼働音と、壁に掛けた時計の秒針の音だけが部屋に響き渡る。ベランダで風に揺られるシャツは、どことなく異世界の物のように感じる。名前の、ありふれたブラウンの目がちかちかとして眩しい。そういえばさっきつくった麦茶はちゃんとできただろうか。もはや何が要因かわからず顔を赤くしている名前に、ひとまず麦茶を飲ませなければ。
 ごちゃごちゃと頭の回転が悪くなった俺が、挙げ句の果てに出した答えは、馬鹿みたいに情けがなかった。
「幸せになりたいなら、他を当たれよ…。」
 考えなくても分かる。名前の手は、その気になればいつだって振りほどける。だのにそうしないのは、どこか浅いところで俺が期待をしているからだ。わかっている。
 そんな言葉に名前は怒りもせずに笑った。
「自分の生い立ちのことでそう言ってるなら、そうだね、一緒に不幸になろう。」
 そう言ってご立派な花束を俺の腕の中に押しつけて、それごと俺を抱きしめた。しっとりと汗ばんだ名前の身体が、俺の弱いところにまで浸透するような感覚を起こした。俺は無意識にその背中に腕を回す。
 2人一緒なら不幸だってちょっとは楽しいかもしれないし、と耳の横で聞こえた声がこそばゆくて仕方が無い。
「で、答えは?」
「……世界で1番不幸な花嫁にしてやる。」
「あはは、上等!」





「今週の日曜日、鯉登が結婚の挨拶に来たいって。」
「例の間男様か。」
「まーだそれ言ってんの?」
 暑い暑いと言いながら名前が茹でたそうめんが、涼しげな器に盛られている。夏を感じる光景だ。こうやって夏を思うと、世にも奇妙なプロポーズを受けた日を思い出す。
「夜景の見えるレストランで指輪渡したって。ベタすぎるけど、それが様になる顔面をお持ちだからねぇ。」
 白いシャツにそうめんつゆを飛ばしながら名前は頷いている。黙って布巾を差し出せば、それ机拭くやつだから、と怒られた。
「そういえば、あの日の花束だが。」
「うん?」
「花言葉とか、調べたのか。」
「まさか!本当に、尾形みたいだな、って思って衝動的に買った。」
「やっぱりな。」
 確信が真実になった。それでこそ名前だ。
ただ、何故か結婚してから俺の名前を呼ばなくなったことに関しては追求しそびれている。
 まぁいい。
こいつを世界で1番不幸にするにはまだ時間がかかりそうだ。もうしばらくはこのままでもいいだろう。

夏はまた巡る。
Hallelujah

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