俺が惚れた女は化け物だった。
 そもそも生命力が桁外れだったのだ。自他共に認める「不死身」の杉元とはまた違うそれは、食欲という人間の三大欲求の1つに基づくものだった。空腹は人を鬼にする、と、深淵を携えた目で言ったあの日のことを、俺は今でも嫌と言うほど思い出す。
 人に産まれて、空腹より出でた業で鬼となったその女、苗字名前は食べることに執着して生きた。何よりも空腹を恐れた苗字は、何につけてもよく食べた。食べられるものはなんでも食べた。好き嫌いはないんです、とよく自慢げに語っていた。そして「じゃあ名前の好きな食べ物は何だ?」と屈託なく問うたアシリパに、困ったように笑って返したことも、また真実だった。好きな食べ物も、嫌いな食べ物もなかったのだ。苗字の中で、食べ物というのは万物等しく食べ物であって、嗜好品としての側面は一切無かった。生命を維持するための物質としか食べ物を見なしていない苗字を知り、俺はそこで「この女は化け物だな」と認識するに至ったのだ。
 そうして、どこまでも食に執着したまま女は死んだ。
 金塊を追う中で苗字はアシリパを庇って政府に身元を拘束され、手酷い待遇を受けたらしい。知ってる情報を全て吐け、と、穴という穴全てを陵辱されてもなお、何も漏らさなかったという。その理由は噂に聞いた、遺言にも似た言葉がただ1つ。
「今まで飢えたこともないアンタ方にはわからんでしょうが、1度咀嚼し飲み込んだものを吐き出すのは性に合わんのです。」
 弟を、父を、母を、血を血で洗う略奪戦で叩き込まれた全てを、あの女はごくりと飲み込んで離さなかった。ヒトの形すら失ったその肢体を見て、得体の知れない後悔と沸き起こる情欲を俺は初めて知った。
 それでもその肉塊を口にする度胸まではなかった。
 自らを鬼と称した化け物は、最期まで人に戻れなかったらしい。





「尾形さん、この出汁巻き卵美味しいですよ!」
「そうかよ。」
 何がどうなってかは分からないが、俺も苗字も21世紀を生きている。所謂輪廻というやつのようだ。どうも神様と呼ばれる存在に嫌われているようで、2人揃ってあの世から弾き出されて「もう1回人生やり直せ」とでも言われたんだろう。最悪最低なことに、前回の人生の記憶もそっくりそのまま繰り越されたのは俺だけだったが。
 人の本質というのは生まれ変わってもそう簡単に変わるものではないようで、今回も家族の在り方は散々だった。それが前世での罪を償うためのものだったのかどうかなどは考えやしないが、まあ人生なんてそんなもんだろと早い段階で諦めはついていた。なんせ2度目の人生だ。
 苗字に至っては何も覚えていないらしく、“1度きり”の人生をその他大勢と同じように生きていたところを俺がとっ捕まえた。引きつった顔で「どちら様でしょうか」と聞かれたときの衝撃と言ったらなかった。流石にこの時代に飢えることはなく、家族仲は至って良好。お喋りな弟が可愛いらしく(と言っても既に声変わりも済ませたような歳だという)、出かける度に土産を買うと言って俺は足止めを喰らう。これも1つの前世の埋め合わせだろうか。馬鹿げた思考が首を擡げる。
「尾形さんの知っているご飯屋さんは外れがないので好きです。」
「へぇ、そりゃあ良かった。好きなのは俺の知ってる飯屋だけかい。」
 口いっぱいに白米を頬張るその顔は、随分昔にも見たことのあるもので、懐かしさと共に行き場のない哀愁が匂い立つ。それらを打ち消すように口にした意地の悪い一言に、苗字は恨めしそうな目で俺を見やり、そのまま俺の皿から刺身を攫っていった。
 簡素なパーティションで仕切られただけの居酒屋の個室は、半端に賑やかだ。
「なんですか、尾形さんのことが好きです、とでも言ってほしいんですか。」
「そのついでに好きな食いもんも言ってくれると助かるんだがな。毎回毎回、なんでもいいです、と言われて飯屋探す身にもなれ。」
 人の本質はそう簡単には変わらない、というのは苗字にしてもそうで、飢えを知らずに済んだこの身体で生きていても又、好きも嫌いもないらしい。ことのほか、前世でこの女の犯した罪にカミサマはご立腹のようだ。
 苗字名前が人間に戻れるのはいつの日だろうか。しこたま酒を飲んで気持ち悪いと言った日でさえ、嘔吐しなかった女だ。覚えても居ない罪にその身が捕らわれているのか。それを真正面から見据えながら何も出来ない俺も、結構罪状が重いのだろう。あるかどうかわからない“来世”のために、ここは善行の1つでも積んでおくのがいいのかもしれない。
 そんなくだらない画策を脇に追いやるように、苗字は唇を尖らせて言うのだ。
「だって、尾形さんと食べたらなんでも美味しいんですもん。あ、でも今度は前に行った鶏鍋のお店がいいです。」
 好きも嫌いもないくせに、幸せをかみしめるように飯を食う姿が誰よりも人間らしい。こういうのを、皮肉、と呼ぶのだろう。
 真っ先に惚れたあの目を俺の手元の皿に向けている苗字を見て、無言で差し出してやる俺がいる。こうなればもう、本質が変わらないと言うよりも前世の焼き増しの人生なのではないかと、些か不安になった。だから名前、早く人間に戻れよ。そしたらきっと好きな食いもんの1つや2つ言えるだろう。そうなったら意地の悪いことも言わずに旨いとこ探してやるから。
いただきますと神に祈れよ

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