苗字名前は申し訳ないと思っていた。かと言って、後悔はしていなかった。何に対してであるかと言えば、2つある。
 まずは尾形百之助に嘘をついたことである。まるっきりの大嘘であったと言えば、それも嘘になる。苗字が語った過去というのは、おおよそ10年程前の話である。彼女の生まれ育った村は割と閉鎖的な場所で、村長が実権を握り、自給自足で成り立つ社会であった。その中で苗字家は、先祖がかの有名な鉄砲傭兵集団の中心人物だった。しかし今となっては家宝として当時の鉄砲が祀られているだけの農家であった。父はよく、盛者必衰とは悲しい、と溢していたが、その口ぶりは嘆くようなものではなかったことを苗字は今でも思い出す。
 大飢饉が起こったというのは事実だ。当時はまだ、両親に付いてまわり、農業を手伝っていただけの少女であった苗字に、大飢饉の原因まではわからない。ただ、干涸らびる程に暑く、朦朧とする意識の中でたった1つ「お腹が空いた」という感覚が身体中を支配する夏であったことだけは確かだった。
 ようやく言葉を話し始める予兆のあった弟が死んだのは、8月の中頃のことだった。懸命に水を欲する仕草をして、ふ、と息を吐き出したのを最期に動かなくなった。父も母も、そして苗字名前自身も掠れるまで泣いた。まだ、身体の中に水があったじゃないか、と絶望した。この水さえあれば、弟は死ななかった。少なくとも、最期に雫を一舐めできた。動かなくなった弟―――ふっくらと丸かった頬が削げ、桜色の唇は干魃の大地に似ていた。そういえば、3軒隣の悪戯小僧も数日前に死んだと聞いた。こんな状況じゃ、葬式の1つもあげられやしない。斜向かいの婆さんは気付けば姿を見なくなっていた。口を減らされたのかもしれない。
 お腹が空いた、と、誰かが呟いた。その声は、両親のどちらかだったかそれとも苗字のものだったか、わからないし、思い出さない方が良いだろう。目の前に横たわるのは、田で採れた野菜でもなければ、ふくふくと育てられた家畜でもない、数刻前まで弟だった。ただの、肉の塊だった。
 空腹というのは人を鬼にする。
 そう、尾形に言ったその言葉は、あまりにもそのままの意味だった。
 狭いムラという組織の中において、倫理に反する人間は村八分にされる。それはとっくに理解していたことであった。だからだ。だからこそ、苗字と、その両親は鬼と相成った。二度と戻れぬ「人」の道を焼き払い、眼前に迫る私刑を家宝を以て薙ぎ払い、次に目を開いた時にはたった1人だった。太陽が地に引き摺り下ろされたような、夥しい量の赤が辺り一面を染めている。赤が乾き始めた髪は、ぱきぱきと音を立てる。赤鬼だ、と独りごち、父と母だったモノを甘く食み、さようならを告げた。
 蝉の声が頭に痛い、そんな夏の日だった。

 もう1つは、鬼となったこと自体である。
 杉元が「死なない方法は殺されないこと」と語ったのと同じように、苗字は「生き延びる方法は死なないこと」だと、その頃より持論とした。何をしてでも、死ななければいいと、そう考えたのだ。血を分け合った家族を、己の血肉としてでも。満足のゆくまで生き延びて、いつか死んだとき、あの世と呼ばれる場所があって、また家族に会えたなら、きっと自分を恨んでいるであろう彼らに心からの謝罪をするために。

 
 でも、案外上手くはいかないのだな、と苗字は唇を尖らせた。
 インカラマッが言うことが本当なら、両親も弟も成仏していないらしい。恨むどころか、どうやら娘が、姉が心配でこの世に留まって、しかも背後からずっと見ているというのだ。それを伝えたのが、あの尾形であるというのだから、人の世とは奇々怪々であるなぁ、と鬼の目線で苗字は笑う。
 空気が揺れるのを感じたのか、鳥の首を握り、少し前方を歩いていた尾形が振り返る。そして、じっと苗字の顔を見据えて言う。
「わかったぞ、お前が、人の死体を見ているときの目は、」
「はい、」
「食料として、見ている目だ。」
「惜しいです、少し、違います。」
 鈍い音を鳴らしながら、銃を担ぎ直す。
「人の死体を見て、食料に見えないことに安心して、自分がまだ半分程は人間であることを実感して、安心しているんですよ。」
 しっとりとした月の光が2人分の睫を濡らしている。互いにその目を逸らせなかったのは、尾形が人の目を、苗字が鬼の目をしていたからだ。苗字は「安心」を口にしながらも、その安心を掻き消すような決定的な違いを突きつけられた。思わず口走る。
「皆には、内緒ですよ。」
 尾形さんは美味しくなさそうですし、と冗談を飛ばして横に並べば、食えねぇ女だな、と冗談を返された。
 別に、弟も両親も、美味しくはなかった。流石にそれは言えなかった。
愛、兵と憂

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