「こんばんは。」
「…………こんばんは…生きてたんですね。」
 これは違和感というか、ただの老化か。最後に会った日より、歳を重ねた風貌の隣人が帰ってきた。
 結局の所、壁をぶち抜くような勇気はなかった。いや、途中までは割と本気で実現に向けてハンマーなんかも購入した。大家にも話を付けて、2部屋分どころか2.5部屋分の家賃を払うことで許可も貰った。そこまでしたにも関わらず、そうしなかったのは、あれだ。
「私の家、なんか雰囲気変わってるような気がするんですが、貴女、何かしましたか。」
「あぁ、皿の1つくらい割っても文句を言われないらしかったので、私の家の離れにしました。」
 違和感というのは―あの言葉を思い出す。
彼が数年振りに戻った自宅の抱いた違和感は、そのとおり、正しいのだ。回数こそ多くはないが、気持ちが荒れて夜通し呑みたい夜だったり、持ち帰った仕事をしたり、私の家に持ち込みたくない負をこの男の家に持ち込んだ。私から出た滓の掃き溜めだ。隣人という意外、なんの縁もない男の留守を任されてやったのだ。これくらい許しておくれよ。
 元々あった大量の本は1つも汚損させていないし、研究書と思わしき手書きのノートも最初こそ「これは何だ」と思って覗いて以来開いちゃいない。男のプライバシーは最大限守った。留守も。私がしたことと言えば、定期的な掃除と酒盛り。あ、空のウイスキーボトルは置きっ放しだったかもしれない。
 実のところ、違和感について説いた彼女の部屋だったその部屋が恋しくてそうしていたということは全く否定できない。どれだけこの男の持ち物で溢れかえっていたとしても、間取りや、その窓から見える景色は彼女が居たときと何も変わらない。彼女が恋しい思いと、この部屋に居れば少しは男に関する違和感が紐解けるのではないか、という期待もあった。
 それも、無駄だったわけだ。
 答えは新聞に載っていた。
「お勤めご苦労様、とでも、言うべきですかね。」
「おや、ご存知でしたか。」
「上官殺し、爆弾狂のキンブリー。知らない方がおかしいでしょう。」
「そう言いながら、留守を任され続けた貴女も随分とおかしい。」
 部屋に置きっ放しにしていたボトルのうち1つを私に手渡しながら男は、呆れ混じりに言う。あの皿のように白いボトルからは中身の残量を知ることは容易ではないが、半分以上は残っている。遙かシン国から取り寄せた白酒だ。それを潔癖なまでに白いスーツで身を包んだ男が渡してきたのだから、腹が震える。
「戻ってきたんですから、私の役目も終わりですね。」
「えぇ、仕事でまた出ないといけないので、すみません、解約しようかと。」
「留守の任され損にも程がありますね。」
 そうは言っても、男には男なりの事情もあることだろう。上官を何人も殺した男の事情を汲み取ってやる謂われもないような気もするが、これ以上関わりたくない気持ちが勝る。
「でも貴女には感謝しています。ひとまずは、ここに戻らなければという気持ちで過ごせましたから。」
「そうですか。」
 数年越しの約束を果たしたいかのように、彼は右手を差し出す。皿で切った傷は、もう跡形もない。その手を拒む理由は何一つない。
 何、一つ。
 否、一つ。
「あぁ、貴女は、本当に利口だ……!!」
 差し出されたその右手に、私は自身の手ではなく、その手に渡された白いボトルを乗せた。
 どうだ、見たことか、そのボトルは赤い閃光を弾かせて割れたではないか。
「違和感というのは、多くの場合において正しい……」
「どなたか、哲学者の言葉か何かですか?」
 悪びれもせずに、しかし行儀は悪く、その手を割れたボトルと同じ色をしたコートに突っ込み彼は問うた。
「あなたの、前に住んでいた女性がよく言っていました。」
「ほう。」
「その言葉もまた、正しいことが実証されました。」
「そうですか。」
「あなたは、道端で車に轢かれて死んでいる動物の死骸に似ている……」
 遠くから見ればそれは何かゴミのように見えていて、適当に避ければなんでもないだろうなんて思う。だが、よくよく近づいて見てみれば、内臓も眼球も飛び出て、蛆も蝿も集って、ああ見なければ気付かなければ良かっただなんて後悔してしまう、動物の死体だった、というような。避けるという結果的行為はそう変わらないにしても、気付いてしまった、見てしまった、それはもう覆らない。
 アルコール度数の強い酒の香りが充満する。
 私の言葉に、満点の笑顔には程遠い、不正を感じない表情を浮かべた彼を、辞書にある言葉で表すなら。
「本性は、そういうことですか……。」
「気付かれたところで、大した損失ではありません。私はもうここを去りますから。」
「そうでしょうね…」
 動物の死骸を見せつけられた私の気持ちも知らず、恭しく頭を垂れた男は最後にこう言った。
「さようなら。」
 正しかった違和感はコートを翻し去って行った、彼の長い髪が全て攫っていった。
 残されたのは粉々に割れたボトルだったモノと、「違和感」ではなく「さようなら」の意味について考える私だけだった。
Knotty

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