「こんにちは。」
「こんにちは。」
 おおよそ、その笑顔で多くの人間を騙してきたのだろう。それを含めて、この男を好く女性は一定数居ることだろう。有難いことに私はその数には入らない。様を見やがれ。
 そうは思うが、まさかそれを表に出すような子供でもない。たとえ皿を割った焦りで手を怪我するような不注意をするような大人でも。幸い、さほど深い傷ではなかったため、あの傷は3日も跡には塞がってしまった。こうやって心の傷やら、後悔なんかも勝手に消えて無くなるのだろう。望もうと、望まざろうと。
 違和感というのは、と、何度も聞いたあの言葉を腹の底で噛み砕く。何故、彼女は私に言い聞かせるように、忘れるなと言いたいかのように、あの言葉を繰り返したのだろうか。いずれ私に覆い被さってくる不穏を予期していたのか。その不穏の一部を、彼女は持ち去ったのだろうか。そんな非科学があるはずもないのに、途切れないこの違和感が真実味を帯びさせる。マイナス同士を掛ければプラスになるとか、そんな数学的事実ではない。ある種の混乱。
「もうじき、戦争が始まるそうですね。」
 切り出したのは私だった。別段新しくも、ひた隠しにされた情報でもない。不穏の1つがコレであるなら、まぁ、この違和感も納得できるのだろうが。
「そのようですね。」
「白々しいですね。あなたも、キンブリー少佐も戦地に向かわれるのでしょう。」
「…本当に利口ですね、苗字さん。」
 どこにでもお喋りな人間というのは居るもので、隣人の職業や生い立ち、家族構成、乗っている車、昨日購入した食材のあれやこれ、なんでもかんでも知りたがり、そして知っているお喋りさんが。そんなお喋りさんの1人が、私のちょっとした友人だったり、その友人が軍の食堂でパートタイマーだったり、そんな取り留めの無い話はこの男にするほどの話題でもない。
 がちゃり、と施錠の音が聞こえる。部屋と自己の断絶は、死地に向かう男にとってどれほどの意味を持つだろう。いや、この違和感が服を着て歩いている男には、大した問題でもないかもしれない。戦場に足を踏み入れるのも、近くのマーケットでトマトを手に取るのも、全く同じ事だと認識している。確信は、ない。自信はある。
 同じように私も鍵を閉めたが、強く意識して、音を立てずにそうした。
「もし、戦争が終わって私がこの家に戻らなかったら、」
 正直、この男が「もしも」という仮定の話を、私にするとは思わなかった。だから、そのままその「もしも話」を傾聴してしまったのだ。
「鍵をこじ開けてもいいですから、いくらか部屋を掃除しておいていただけませんか。」
「ほとんど、会話をしたことのない隣人女性にそんなことを頼むほど、あなたが軟派だとは思っていませんでした。」
「挨拶を交わしているかどうかは大事ですよ。あとは偏見を以て私を位置づけていないのも重要です。」
 なんの話だ、と反論の一言でも口にしようとしたが、その表情があまりにも本気を示していたので、言葉が恐れを成して逃げていった。
「掃除する中で皿の1つ割ったとしても、文句は言いません。」
 こんな男、さっさと戦地で死んでしまえば良い。そうすれば、高確率で正しいであろうこの違和感も捨て去ることができるのだ。
ああそうだ、皿の1つに限らず、壁をぶち抜いて私の部屋を広くしてしまうのも悪くはない。
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