「おはようございます。」
「…おはようございます。」
 玄関先で全く冴えない挨拶を交わしたのは、白い皿割った朝のことだった。
 1年程前、私が住むセントラルの平均的家賃のマンションから1人の女性が去った。
彼女は私よりも幾つも歳が上で、時に母のように、時に姉のように私の世話を焼いてくれた。例えばそれは、作りすぎた料理のお裾分けであったり、仕事で落ち込んだ私を元気づけたり。勿論それは逆も然りだった。
彼女は朗らかで、その細見からは思いも寄らないよく通る声で、私にこう言った。酔っ払いが何度も同じ事を話すように。
「違和感というのは、多くの場合において正しいのよ。」
 彼女がここを去ったきっかけは、至極シンプルで、病死だった。そう、退去ではなく、死去だった。病気を持っていたとは知らなかった、と、静かになった隣の部屋を壁越しに見つめ、母でも姉でもなく、友人と言ってしまうには余所余所しい関係だった初老の彼女を想い少しだけ泣いた。
 暫くしてやってきた、彼女と同じ目の色をした息子が私を訪ねてきて言った。
「この皿、母が一等気に入っていたものです。遺言で、隣に住む貴女に、と。」
 差し出された皿は、そうだ、彼女がよく私に持たせた皿だ。夕飯を作りすぎた、と照れくさそうに笑って、料理を盛って私に持ってきた。そんなときは大抵この皿だった。品の良い透き通る白地に、海の縁に似た色で細かく描かれた装飾。きっと高価なのだろう、と慎重に洗ってから返したことが、まるで昨日のことにも思えてくる。
 ただの隣人に、それを形見として渡したかった彼女の思いは今でもよく分からない。渡したかった、と、彼女が思っていたようには、どうにも私は思えない。それが彼女が言ったところの「違和感」であるならば、それが「正しい」ならば、今朝割れたその皿の意味するところとは、わかりやすくいえば不吉であったと言わざるを得ない。
「隣に越してきました、ゾルフ・J・キンブリーと申します。」
「あ、はい、苗字名前です。」
 差し出された右手を握り返すことは躊躇われた。そろそろ声を思い出せなくなってきている、この男の前に住まっていたあの女性を思い出す。お手本のような笑顔と仕草は、全科目満点のテスト結果のようだ。真実はどうであろうと、不正の影を見る。
「…手、怪我をしているのですか。」
「え、あ、あぁ、そうなんです、今朝、皿を割ってしまって。」
 これは本当だ。けたたましい音を立てて飛び散った彼女の形見を掻き集めた際、不注意にも中指の先を。握手を躊躇したのはその怪我の所為だと男は思ったのだろう。握手を気軽に諦め、目を細めた。
「利口ですね。」
「…はい?」
「いや、勘が良い。」
 肩を竦めて笑う男に、絶え間ない違和感を抱き続ける。では、と会釈をしてから立ち去った彼を見て、その一端がわかった。
「軍人か…」
 軍服を着ていなくてもわかる、その姿勢の良さと一般人の持ち得ない空気。直感というよりも確信に近い。撃鉄を起こした拳銃を、胸のポケットに忍ばせている状態を思わせる男だ。
 割った皿は、彼女には申し訳ないが、焼却処分した方が良いかもしれない。
Synchronicity

back

top

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -