「あ、」と、我ながら珍しく短い声を無意識にあげた。勤務時間も終わりに近づいた夕方のこと、私の万年筆が寿命を迎えたのだ。
「どうした。」
「いえ、ペンポイントが駄目になりました。」
 その申告に、目の前で同じく書類仕事をしていた苗字中将は「そういうときこそ錬金術を使えば良いのに」と笑った。それではその道の職人の商売あがったりだ、と伝えれば、お前の自他を問わない仕事への精神は尊敬に値すると言って箱を投げて寄越した。
 合皮ではなく明らかに本革に覆われた、その黒い箱は皮膚に沈み込むような重さを携えている。質の良い品であることは疑いようもないが、中将がそういうものを渡してくることは初めてと言ってもいいかもしれない。
「これは?」
「以前、とある付き合いで買わされたブランド物の万年筆だ。」
 蓋を開けてみれば、その裏側、ブランドに詳しくない者でも見たことがないとは言わせない有名ブランドのロゴが、その名声を主張する金色で刻印されていた。それに反して、品物は重厚感ある木製の軸だ。付き合いで、と言っていた意味がなんとなく理解できた。非常に、女性好みはしないデザインだ。もう少し年代が上の、初老の男性が持っていて初めて映えそうなのだ。
 しかし、ブランド物であることは変わりはないし、中将殿が付き合いでとは言え買わされる程のものであるなら、かなり値の張る物ではあっただろう。気の毒に。
「持てあましていたから、お前にやる。」
「よろしいのですか。」
「うん。私はこれがあるし。」
 話をしながらも手を動かすことはやめない中将は、自身の万年筆を持った利き手をかすかに掲げた。
「それも長いですね。」
「成人祝いに両親から貰った。」
「そうでしたか。」
「意外そうな顔をするなよ。仕事の方針が合わないだけで、家族仲は問題ないんだから。特にイシュヴァール戦後はあの人達も随分丸くなって…」
「それは失礼しました。」
 人を殺すことをこの上なく嫌う中将殿は軍人としては異色であると言わざるを得ない。言い方を変えれば、軍人になる覚悟が未だ無い、とも言える。軍人であることに誇りを持っていたという彼女の両親から言わせれば、「仕事の方針が合わない」というのも無理からぬ事である。そんな両親と娘が普通の親子をしている光景は、どうにも私には想像が出来ず滑稽な妄想にしかならなかった。
 なかなかに書き心地の良い万年筆が織りなす黒い線は、どことなく中将殿の髪のようであった。



「さて、そろそろ帰るか。」
「そうですね、残りは明日でも大丈夫でしょう。」
 期限の迫った書類ではあるが、この様子だと明日の午前には片が付きそうだ。灯りの消え始めた町並みは、冬を乗り越えた温かい夕日に包まれている。随分と日照時間が長くなった。窓から入り込む日の光が、目に痛い。
 万年筆は大事に机の中に仕舞った。
「しかし、本当に良かったのですか、頂いてしまって。」
「ついさっきまで机の中で眠ってたものだぞ。このまま私が持っていても持ち腐れるだけだからな。」
 並んで執務室を出ながら中将は困ったように言う。それが紙の1枚だろうと、人の命だろうと、存在する限りはモノを大事にする女性が眠らせていたのだから、相当なのだろうとは容易に想像がついた。
「それに、」
「はい。」
 少し前を歩いていた彼女が不意に振り返り、そのままの勢いで私の頬を抓った。
「な、にを、するんです。」
「これで、借りは返したぞ。」
 にやり、という効果音が相応しい、そんな笑みを浮かべた口元には、春の色が滲んでいた。それに気付くよりも早く、何かに弾かれるように頬を撫でてその手は去った。花開くように淡く鼻を掠めた香りには、覚えがある。
 これだから、この人は狡い。
「借りだなんて、水くさいですね。」
「貰いっぱなしというのは、性に合わん。」
「錬金術師に向いてますよ、貴女。」
「勘弁してくれ、お前と同族など、真っ平ご免さ。」
 ところで、悪くない家族仲なら、お父上にでも差し上げればいいものを、そうしなかった理由とは?
 私は深くは考えないことにした。
宰相リシュリューに倣う

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