※Song by teniwoha

 かすかに風が流れる夏の夜のことだ。鉢屋三郎は1人、桶に汲んだ水の面に浮かぶ己の素顔を一心に見つめていた。
 ここのところ、彼はその素顔を平時思い出すことができなくなってきていた。変装の名人だなんだと言われるうちに、変装している自分が本当の自分であるかのような錯覚に陥る。こうして素顔を見ても、自身の顔だと納得できることが困難になってきた。
 4年生となり、あらゆる術を身につけたとは言えど、こんなことになるとは想像できなかった。彼は、得体の知れない焦燥感にも似た恐れを感じていた。
 今夜は月明かりがない。よかった、こんな情けない素顔を晒す心配がないのだから。鉢屋は情けない呼吸を1つ吐き出した。
「おや、鉢屋、こんな時間に何を?」
 吐き出した筈の呼吸が見えない棘を伴って喉に逆流した。油断していたのだ。背後からかけられた不意の声は よく知るものであったが、向けられた問いを同じ問いで返したいと願う。
「苗字、先輩…」
「顔でも洗ってたか、失敬。すまないが私は野戦実習帰りでね。」
 微塵もすまなさそうに見えない顔で、苗字と呼ばれたくのたまは鉢屋の使っていた桶から水を掠め取っていった。
 先輩、と呼ばれたように苗字名前という女はくのたまの6年生である。多くが途中で自主退学をするくのたまにおいて、稀に見る最終学年であり、そしてまた、鉢屋とは異なる意味で天才であった。堅い口調に反して、彼女は人を惹きつける側の人間である。更に、様々な意味で性質の似ている鉢屋との交流が他に比べて深いことは、比較的当然のことであった。こうして深夜、顔を合わせることは故意も偶然も含めて、今までにも経験のあるものだったが、今夜の鉢屋は如何せん気分が乗らない。内心「くそ」と悪態をついたのも致し方ない心情であったのだから。
 彼女は常々「くノ一になることは目的ではなく、生きていくための手段である」と鉢屋に語っていた。苗字には、既に親が居ない。そういうことである。
 そう、だからこそ、多くの強さを持ち得た彼女に、濁った弱さを吐露することは鉢屋の自尊心にかけてもしたくはなかったのだが……。
「何か悩み事か?」
「あんたに隠し事は通じませんよねぇ。」
「鉢屋が隠し事下手なんじゃないか。」
 これがもし同級生や他の人に言われたのなら、腹痛を起こす薬の1つや2つ盛ってやろうとでも思うのだが、相手が悪い。一度として彼の変装に騙されたことのない苗字にそう言われてしまうのなら、本当のような気がしてしまうのだ。
 む、とはしたものの、その表情を見てすら苗字は笑みを漏らす。1歳しか違わないはずなのに、その所作は酷く大人びて見える。そんな女を、鉢屋は堪らなく騙してみたい衝動に駆られている。今までも、これからもそれは変わらないだろう、と予測して。
「鉢屋、君の天才的な変装技術なら、そう思い悩まずとも、自然と道は開けていくと思うが?」
「寧ろ、その原点である素顔がわからなくなっているのです。」
 戦場でついたのであろう、苗字は顔中についた煤や血を濡らした手ぬぐいで乱暴に拭きながら言う。そんなことでは肌が荒れてしまう、と鉢屋はその逞しくも小さな手から手ぬぐいを奪い去り、代わりとなった。そんなところも汚れていたか、と呟いてから礼を言う苗字に、鉢屋は「くノ一は身体が資本のくせに」と口にしそうになり、慌てて我に返る。
「ほう、そんなに男前な顔を自分で忘れるとは、罪深い男だな鉢屋は。」
「先輩に素顔を見せた覚えはありませんが。」
「声である程度の骨格はわかるし、いくら君でも元々の目や鼻や口の形を変えたりはできないだろう。大体の素顔を予測してはいるよ。」
 焙烙火矢が落とされたような発言だった。忍術学園七不思議候補になる程度には謎とされる鉢屋三郎の素顔を、普段の何気ない事象から予測していたとは。化け物か、と思ったのは本当に素直な感想だった。
「では、今度町の方である夏祭り、私は誰とも知らぬ者に変装して行きますから、苗字先輩は現地でそれを見破って話しかけてください。」
「それで君の自信が戻るなら安いものだな。ちなみに、もし私が君を見破ったら?」
「その夜の食事くらい、奢りますよ。」
 乗った、と楽しそうに答える苗字の横顔はそれなりに年相応に見えたのだから、流石の鉢屋も瞬きを繰り返す。開戦の合図と言わんばかりに、夜鷹が鳴いた。



「で、どんな人に化けるつもりだぃ?」
「それはいくら雷蔵にでも教えるわけにはいかない。」
 夏祭り当日の夕方、戦地実習に行くのかという程、念入りに身支度をする鉢屋を見て、同室の不破雷蔵は思わずそう声をかけていた。無論、それを打ち明けるわけにもいかない鉢屋は、神妙な面持ちで部屋を出た。
 道すがら、鉢屋は考えた。苗字名前という先輩が、何かと面倒見の良い女性であることについて。それは、今回のように鉢屋に向けられることも含めて、学園中が対象だ。生物委員として、逃がした毒虫の確保を行うことはもちろん(この件もあり後輩の竹谷が他の追随を許さぬほど彼女を尊敬していることはまた別の話だ)、不運に見舞われた薬師寺壷助や善法寺伊作を筆頭とした保健委員を助けていることも、徹夜ばかりの会計委員に手を貸していることもある。そうしたからと言って、彼女に何の得があるわけでもない。成績はそんなことせずとも優秀で、聞いたところによればとっくに卒業後の進路は決まっているという。
「…なにの期待を、私はしているんだろうな。」
 危なっかしい後輩だと思われているのだろう。鉢屋は、何一つとして、彼女と対等になれている気がしなかった。
 そんなどろどろした感情を掻き消すため、自分ではない自分になりたいのかもしれないと無理に結論づける。己の顔を忘れてしまうくらいに。そして彼は、この世界には存在しない人の形となった。



 日が落ち、薄暗い闇に辺りが包まれていく。しかしそれを不快に思う者はいない。等間隔で掲げられた提灯が灯り、どこか異空間、いや、いっそ異世界を感じる夏祭りの夜の雰囲気が、存外、鉢屋は好きだった。普段の町の人混みは苦手だが、この夜だけは例外なのだ。いつも知る場所が、知らない場所になる感覚。それは彼がよく知る変装の術と限りなく似ているのだ。そして、明日になればここはいつもと変わりない、なんてこともない町に戻る。そのとき、自分はまだ“鉢屋三郎”に戻れるのだろうか、と考え、底の見えない恐怖を彼は思い知る。
 湿気を含んだ風が露天の屋根を揺らす。次第に人も増え、歩く度に肩がぶつかる。おっと失礼、と一際強くぶつかってしまった青年に謝り、鉢屋は「祭りの会場を目的もなく歩くのは、他の邪魔になるだろう」と道の脇に寄った。
 行き交う人混みを見つめ、そう言えば時間の約束をし忘れていたことに気付いた。これでは、いつ彼女が来るか、いつ賭けが終わるかわからないではないか。そんな単純なことすら思い至らなかったとは、かなり思い詰めていたのかもしれないと、鉢屋は思わず頭を抱えた。
 困ったことに腹が空いていない。何か買って食べることで時間を潰すこともできず、熱気と艶に満ちた祭りが流れていく様を静かに見続けた。
「……まだか…。」
 寂しいわけではない。だが、素直に言えば、早く見つけて欲しかったのだ。口ではなんと言おうと、いくら天才だと言われても、誰か1人が必ず自分を見つけてくれることを、心の奥底で祈っていた。その“誰か”が、苗字であればいいとも。
「おい、嬢ちゃん」
「ん?」
「せっかくの夏祭り、1人で何してんだ?想い人にすっぽかされたか?」
 嬢ちゃん、と呼びかけられなんのことかと鉢屋は面食らうが、そうだ、忘れていた。
 今、鉢屋三郎は女性に変装している。
 下卑た笑いを浮かべて近寄ってくるのは、あまりに危険で怪しい恰幅の良い男だった。橙色の提灯灯りの下でもわかるほど黄ばんで、数本欠けた歯を見せながら近寄ってくる。その目は反吐が出るほどにいやらしいものだ。
 ちょっとか弱そうな女性に変装した途端これだ、と鉢屋は内心唾を吐いた。賭けが続行している以上、そう易々と変装を解くわけにもいかない。しかし、このままだと簡単に身を危険に晒す。元も子もないことはしたくないが、脳裏をよぎるのは悔しいことに苗字の姿だった。
 彼女も、こんな目に遭ったことあるだろうか。そうだとしても彼女は泣かないだろう。毅然とした態度で、こんな世の底辺のような男、ぶちのめしてしまうのだろう。あぁ、想像の中でも苗字名前は強い。鉢屋は無意識に、爪が食い込むほどにその手を握りしめていた。
 そんな姿を見て、怯えていると勘違いしたのか、男は面白そうにじりりと距離を詰めてくる。直前に何を触ったのか知れない薄汚れたその手が、この日のために選んだ鉢屋の浴衣に触れようとした瞬間だった。
「私の可愛い後輩に、触れないで貰いたい。」
 至極単純な言葉と苦無が、男の首に突き刺さった。あくまで、比喩ではあるが、そこで一度男は死んだのであろう。情けないことに、腰を抜かしたまま、その場を去った。去り際、男によって名も無き花が踏み潰される。全て、あっけないものである。
 あまりにも瞬時に過ぎ去った目の前の出来事に、鉢屋は声を出すことも出来ずに居た。
「大丈夫か、鉢屋。なんだってこんな日に女に変装した。1人で居ればああいうことが起こりえることくらい、鉢屋なら想像できただろう。」
「一気に、捲し立てないでくださいよ…。」
 手早く苦無をしまった苗字が鉢屋に問いかける内容は、どこまでも真っ当である。こんな日に女が1人で、という部分にはお互い様だと言いたいところであったが、うまく言葉にならなかった。
「無事ならいいんだが…まぁ、何はともあれ、私の勝ちだ、鉢屋。」
「…恐れ入りました。」
 彼女の優しさは、掌から頭を伝い、幸福に変わった。



「本当によかったのか、ご馳走になって。」
「約束でしたから。」
 帰り道、あのあと露天で焼かれていたイカ飯を誠に美味しそうに食べていた苗字を思い出し、鉢屋は笑った。
 祭り囃子から少し離れただけで、その喧噪から解き放たれて少しだけもの悲しい空気を感じる。先日の夜とは違い、煌々と月が輝いている。月は等しく2人を照らしているにも関わらず、鉢屋は苗字だけを美しく思った。淡い光が苗字の輪郭をなぞり、束のような睫を擦り抜け、陶器のような肌に影を落としている。どれだけ技術を積んでもこうはなれない、と、弱気な確信が鉢屋の中に生まれた。
「ねぇ鉢屋、私たちはいずれ敵になるかもしれないけれど、君は間違いなく私を殺せるよ。」
「は?」
「私はどうしたって君の変装を見破ってしまうから、それが迷いになる。でも、君は違う。」
「何を……」
「ははっ、鉢屋、君、あの人混みで男の子とぶつかったろう。あれは私だ。」
 全く気付かなかった。なんと、あの一瞬で彼女は鉢屋の変装を見破っていたとでも言うのか。しかし、今はそれどころではない。
「私は鉢屋と対峙するとき、鉢屋より完璧に変装していてみせよう。三郎、君が迷わず、私と私と気付かぬまま、私を、苗字名前を殺せるように。」
 月は雲に隠された。彼女の表情が読めない。少なくとも、今日の今まで感じなかった苗字からの狂気が、鉢屋の身を擦り抜けていく。自身の名を呼ばれた悦びを伴いながら。
 瞬く間に苗字が消えてしまうような錯覚すら覚えた鉢屋が、無意識に彼女の腕を掴んでいたのは当然のことであったのかもしれない。
「なんて顔をしてるんだい、三郎。」
「元々、こんな顔です……っ」
 あなたが望むならなんだってするのに。こうやって、素顔を晒して泣くなんてみっともない真似でも。そんな想いは声にすらならず鉢屋の感情を揺すぶり、帰るための歩みを止めさせた。そんな鉢屋を困ったように苗字は宥め、祭りから醒めて冷えた手を、彼女自身の手でそっと包んだ。
「大丈夫、卒業までは、どこへも行ったりしないさ。」
 囁かれた言葉と、握られたその手は、反故にされることが織り込み済みの“約束”のようだったと、後々鉢屋は思い出し、又、自らを偽る術を身につけるのだった。
化生戯画

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