それは、あの日、名前さんと身体を重ねたときのことだ。
 身体中についていた無数の傷が、そこに名前さんが生きているという当たり前過ぎる現実を私に突きつけた。それがどうしようもなく愛おしく思えて、無心で舌を這わせた。その肌は、傷ついている割には滑らかで、生きているくせに冷たかったのがなんとも可笑しい。
 そんなことを思いながら抱いたからか、汗に濡れたまま、彼女を抱き竦めたまま寝てしまったその夜に酷い夢を見た。堅いコンクリートに無残に伏せた名前さんが、大雨に打たれ、その雨がどす黒く濁った名前さんから流れ出る血を排水溝に押し遣る夢。名前さんの呼吸が残っているかどうか確かめることすらできず、その傍らに立ち尽くすだけの私がいた。雨に濡れたコンクリートの湿ったにおい、嗅ぎ慣れた血のにおい、次第に冷えていく爪先、小刻みに震える手、思考の止まった頭。全てが現実味を帯びていた。バシャバシャと水溜まりを掻き分ける音が背後から聞こえ、私の腕を強く掴んだその衝撃に、無意識に振り向こうと予備動作をとったところで目が覚めたのだ。
 最中ですらここまで激しく心臓は動かなかった。それくらいの早さで心臓が鼓動を続けている。寝起きで上手く回らない脳は夢の中の、霞む目は隣でなんてことなく眠る名前さんを捉える。なんて夢を見てしまったのだろう。何を責めればいいのかもわからないが、責めるとしたらやはり私自身だろうか。
 穏やかに胸を上下させる名前さんは、確認するまでもなく生きている。窓から差す月の光が、愛おしい傷1つ1つを照らしているのが艶めかしい。柔らかく甘美なこの肌を裂いても、中に詰まっているのは他の誰とも違わない肉と血と骨だけなのは知っている。知っているけれども、私は傷1つない名前さんの頬に手を伸ばした。祈るような気持ちだった。
 事後だからか少々しっとりとしている頬を手の甲で撫でる。しかしその感覚はどこか鈍く、満足を得ることはなかった。堪らなくなり指の腹でもう1度撫でた。じわりと指先に広がった熱は「夢の中で震えていた手と、今彼女を撫でている手ははたして同一なのだろうか」という疑問を生み、じくりと胸を抉った。
 いつの間にこんなに惚れてしまったのだろう。思い出せないし、思い出せなくても構わない。これは近く始まる戦争などとは違い、起点も期間も関係のない話だ。夢の中で彼女を殺してしまったことも。
 長く黒い彼女の髪が、彼女自身の首にまとわりついている。不快でないのかと思い、取り払ってやると、流石にその身体は反応を示した。
「…もう、朝か……?」
「まだ夜ですよ」
「そうか…」
 まだまだ眠れることに安心したのか、それだけ呟いて再び眠りに落ちていく名前さんは、どう見たって普通の25歳だ。眠りにつく直前に私の胸にすり寄ったのは無意識かどうかは知らないが、分かっていてやっているのならば「普通」からは多少逸脱していると言わざるを得なかった。貴女のその髪に憧れて私も髪を伸ばしたと言ったら、どんな反応をするだろう。彼女の言うこと成すこと、かなりを予想できるようになったけれど、こればかりは分かりそうにない。




閉じ込められた牢獄の中で、私は今、そんなことを考えていたことを思い出している。頭上高く備え付けられた便宜上の窓から差す光が、あの夜の月光に似ていたからだ。
 ただ、それだけだ。
箱庭の思考実験

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