とある軍曹は不意に聞こえてきた旋律に戸惑った。銃声と爆撃音、悲鳴や罵声が飛び交う戦場において、その旋律が不気味なほどに優しい鼻歌だったからだ。
 そのメロディーを発する場所を探そうと、砂煙の舞うイシュヴァールの一角を見渡す。見えるのは疲れ切った顔の同僚や、戦況報告を聞いてピリピリとしている指揮官、そして、妙に機嫌のいい自身の上官であった。
 どうやらこの上官がメロディーの出どころらしいと気付いた時、軍曹は「珍しいこともあるものだ」と驚き、しかしそれを隠すべく二、三度の瞬きで誤魔化した。
 しかし逸らすことを忘れた視線に上官は目敏く気付く。彼と目線が交差した瞬間、束の間の休息を邪魔してしまったことによる多少の叱責を、軍曹は覚悟した。だがそれは杞憂というものだった。
「どうしましたか」
 単純な問いかけをされた。
 彼からすれば、軍曹の視線の理由などわかるはずもないことだろう。であるなら、軍曹は適当に誤魔化すこともできた。だが、どうにも相手が悪い。相手は、人間兵器などと揶揄される国家錬金術師であり、人の本質を射抜くような眼をしている、ゾルフ・J・キンブリーだ。その場しのぎの言葉が通じるとは到底思えなかった。
 条件反射的に彼の鼻歌に驚くほど単純な軍曹であったが、別に頭が悪いわけではなかった。
「あ、いえ、失礼とは承知なのですが…その…少佐が鼻歌を歌われているのが、…意外で……」
 歯切れの悪い答えだと余計に言い訳のように聞こえてしまうことは軍曹も理解していたが、かと言って堂々と答えるような度胸もない。失礼とは承知で、と断ってから、本当に失礼なことを言ってしまったと後悔しても遅かった。
 キンブリーは軍曹の回答に微かに目を丸くしたが、彼が予測したような叱責は返ってこなかった。
 そのまま、またもや珍しく、困ったような、それでいて諦めたような苦々しい表情を浮かべて、言葉を返した。
「呆れるほど、私に構う女性が居ましてね。その人がよく歌っていたんです」
「そう、ですか」
 その言葉からは、彼の感情は読み取れなかった。軽蔑ともとれる言葉を選んで口にした割に、口ぶりには冷たさを感じなかったからだ。恋人だろうか、それとも母親だろうか、と思案するものの、答えは出そうにない。本人がその関係性を明らかにしようとしない以上は知らない方がいいのかもしれないし、何より詮索する勇気がなかった。
 呆れるほど、と彼は言った。それを疎ましく思ったことは事実なのだろう。でも拒むこともしなかったのも、また事実に違いない。軍曹は、自分自身にそのような複雑で、言葉を変えるのであれば「特別」な感情を抱く相手が、誰かいるだろうか、と思い起こす。やはり第一には口うるさい母親の姿が思い浮かんで、少し口角が上がった。
「何か面白いことを言いましたか」
 軍曹の笑みを見たキンブリーが、冗談交じりにそう言った。
軍曹は慌てて弁解をする。
「実家の母を思い出しまして。部屋を片付けろとか、食べた後の皿くらいシンクに持っていけとか、今思えば当たり前のことで散々怒られたことを思い出しました」
「えぇ、わかりますよ」
 その相槌は軍曹をまた驚かせるには十分すぎた。
 部屋は整頓されていて、塵一つ落ちていなさそうなこの男にも、自分と同じような経験があるのか、と度肝を抜かれた。やはり人は見かけによらないのか。爆弾狂などと呼ばれる男の身なりが常々あまりに整っているので、すっかり潔癖な性かと思っていたが案外そうでもないのかもしれない。
 軍曹がキンブリーという男に人間味を感じ始めた時、彼は「そろそろ仕事の時間ですね」と言ってから、軍曹にこう伝えた。
「ご家族を愛しているなら、大事になさってください。私が言えたものではありませんが」
 軍曹は、敬礼と共に「はい」と答えた。
 しかし、家族を愛する間もなく、その日の内に、キンブリーによって彼の盾にされ、その全身に爆撃を受けることになるなど、その時の軍曹は知る由もなかった。



 キンブリーの姉が「Dear my sister」から始まる手紙に目を通したのは、国家錬金術師がイシュヴァール戦に投入された1週間後のことだった。遂にその時が来たか、と、新聞を見ながら天を仰いだ。祈りを捧げる神など持っていない。すでに他界した両親に祈っても、なんの意味もない。
 だから姉は、祈る代わりに便箋を取り出して返事を書き始めた。
「手紙なら美辞麗句が書けるのに口には出さないのだから、姉弟揃ってどうしようもないな」
 心底呆れた様子で、それでいて気分は良さそうに、姉は鼻歌を歌った。
 それは、両親の喧嘩の物音で弟がぐずった時、苦し紛れに歌い続けた子守歌だった。
居もせぬ神に祈れども

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