「脱獄した?」
「失礼な。正規の手続きで出てきましたよ」
「この国の司法ってそんなに緩いわけ?」
 この弟はいつだって急に帰ってくる。
 二度と帰ってこないだろうと思っていたがどうやら出所したらしく、その足で実家に直行してきたと言う。
 すぐに仕事に向かうためにあまり長居はしないと前置きをしてからソファに腰かけた弟に、姉はそっとコーヒーを差し出した。家の外で待つ軍服を着た男の存在は知っていたが、とりあえず忘れた振りをする。
 いつの時よりも更に痩せてはいるものの、表情は晴れやかだ。それが出所できたことへの喜びではないことがなんとなく察せてしまい、姉は薄ら寒い思いを抱く。そんな気持ちを払拭するように弟はマグカップ越しに語りかけてくる。
「この家にはもう居ないと思ってました」
 それは本心だったのだろう。言葉の意味以上の他意はなさそうであった。
 姉は答える。
「その予定だったんだけどね。あんたのことを信じる人が多くて助かってしまった」
 コーヒーを啜った弟は実に楽しそうに笑った。弟に淹れた残りのコーヒーを手近なマグカップに入れて、姉も口をつける。いつだったか、軍で支給されているコーヒーは不味いと弟が愚痴を零していたことを思い出した。
「私が言ってるのは、いい加減結婚でもしてこの家は処分しただろうと思っていた、ということなんですが」
 姉の返答にやや難癖をつけて弟は言う。いつまで経っても口の減らない弟だ、と姉は溜息を一つ吐いてから更に返答をする。
「誰が好き好んで罪人の姉を娶ると思ってるのかねぇ」
「あのシュタインベックの次男坊はどうなんです」
「とっくの前に、別のところから嫁を見つけてきたさ。もっとも、親の勧めらしいけど」
「それは残念」
 シュタインベックの次男坊が違う女と結婚したのは、姉が見合いを破断にした半年後くらいのことだ。好意をにべもなく断られた次男坊は暫く塞ぎ込んでしまい、それを見かねた彼の両親が慌てて良家の娘をあてがったというのが顛末だ。急ごしらえと言えばそれまでの婚姻だったが、娘の器量に支えられる形で次男坊も立ち直ったという。
 そんな詳細を姉が知る由はないのだが、嫌でも情報が耳に入ってくるというのが、田舎という狭いコミュニティなのだ。
 少々何かを逡巡する様子を見せて、弟が口を開いた。
「聞かないんですね。私がしでかしたことの理由」
「聞いても答える子じゃないからね」
「よくご存知でらっしゃる」
「あんたの姉を何年やってると思ってるの」
 やれやれといった風に肩を竦めた姉に、弟は自分の歳を答えた。あぁもうそんな歳になったのか、と思うと共に、自分もずいぶん歳をとったものだと姉は嘲笑するしかない。
 そうしてから、彼の解答の間違いを正す。
「それにプラスして、十月十日。忘れてもらっては困るね」
 思いがけない姉の言葉に、弟は「そうですね」と応えるのがやっとだった。





 弟は不意に、姉が彼女が自身の「姉」であった期間、つまりは自分の生きた年月と、足して十月十日を想った。
 果たしてそれは長かったのだろうか。北風のような音を鳴らす自身の喉笛から流れる血は、姉の中に流れるそれと同じ色をしているとは到底思えなかった。いつの間にか生きる道が違ってはいたからだ。しかし、やはり、同じ親から生まれた姉弟だと感じたことも、きちんとあった。それを喜ばしく、あるいは嬉しく思うことは無かったが、彼女が自身の姉でよかったとは思っていた。
「―――」
 声は出ない。傲慢が這いずり、近づいてくる。
 自分が死んだ後、姉は泣くのだろうか。恐らく泣かないだろう。
 いや、泣くかもしれない。ほんの少しでいいから泣いてほしい。
 幼子のような感情と欲望が、今になって鮮血と共に溢れ出しているとでも言わんばかりだった。
 『確かに、私は姉に愛されていた』
それを弟は知っていた。ずっと昔から。記憶のない遥か幼い頃から。
 思い起こせば、姉が弟に悪態をつくことは幾度となくあっても、不遜な扱いをしたことは一度だってなかった。父の機嫌が悪い日も、母が泣いて喚いた夜も、そうして訪れた両親との離別の朝も、姉はずっと弟の傍にいた。呆れるほどに長く、静かにそこにいた。
「…姉、さん」
 最後にそう呼んだのは、そう呼べたのはいつだったか。
 いつだっていい。
 これが最後なのだから。
微かなる宥免

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