元上官を恨む気持ちはちっともない。未来永劫、そんな感情を抱かない自信すらある。
 恨んだところでどうなるわけでもないし、どうにかなりたいわけでもない。他の者に比べれば(まぁ、戦地で盾にされたというとある軍曹と比べるのも酷なものだが)、随分と私は良くしていただいた方だと思っている。副官であったということを差し引いてもおつりが出るほどに。
 恐らく彼の「異端者」としての人生の中で、それなりに心を砕いた相手なのではないだろうか、私という存在は。
 これはひょっとするとただの自惚れかもしれないが、そう思わせるだけの彼の人間である側面の観測ができた。

 私がゾルフ・J・キンブリーという国家錬金術師の下で仕事をしていた数年間は、そういう時間だった。



「苗字中尉、遅かったですね」
「申し訳ありません。帰り道に軍法会議所勤務の同期に呼び止められまして。複写申請をしていた書類がちょうどあがってきたからと」
「そうでしたか。先週の1件の証憑ですよね」
「はい」
 表通りから少し離れた裏路地にて、怪しい取引が行われているようだと通報が入ったのが今朝の10時。具体的な情報は何もなく、通報者も半信半疑で連絡を寄越してきたらしい。「念のため、何かあってからでは遅いかと思いまして」なんて言われたら、その場しのぎの「大丈夫でしょう」なんて返事は、新兵にはできなかったことだろう。通報者の言うことももっともであるし、その新兵を責めるつもりは一切ない。ただ、1人の人間として、不確かな情報で出動するのは少し面倒だなぁ、と思っただけだ。
 結局のところ、受け持ちが流れに流れて私の所属するキンブリー隊に流れてきたわけだ。しかし上官であるキンブリー少佐は「私が出ていく必要もないでしょう」と言って、私ともう1人、同隊のエウレニウス少尉を派遣した。エウレニウス少尉は「また面倒なことになりましたね」と、私の心の内を代弁してくれたが、私は彼より階級が上の者として一応、そう一応だが、「そういうことは声に出すものじゃないですよ」と窘めておいた。自分のことを棚に上げていたのは言うまでもない。
 その後、通報のあった路地にエウレニウス少尉と共に駆け付けたが、やはりというか、さすがにといった方がいいだろうか、人っ子一人いなかった。唯一見つけられたのは「ニンゲンが何をしに来た」と言いたげな薄汚れた黒猫と、国内には出回っていない珍しい銘柄の煙草の吸殻だけだった。私自身は一切の嗜好品を好まないので、その煙草に関する情報はエウレニウス少尉によるものだ。数時間前にここにいた人物がどういう性質の人間か、通報者の言う通り「念のため」に調べるべきであろう。この吸殻が糸口になればと思い、軍法会議所に寄り道することになった私の代わりにエウレニウス少尉が持ち帰ったはずだ。今現在、彼が我が隊の執務室にいないことから、調査を進めてくれているのだろう。キンブリー少佐もエウレニウス少尉が遅いとは言及しておられなかったから、一度ここに戻ってから出て行った違いない。
「それで、何かお急ぎのことでもありましたか?」
 軍法会議所に寄り道したとは言え、書類を数枚受け取り、受領のサインをするだけの短時間の話だ。滞在時間にして2分、移動時間としても15分程度だったはずだ(もともと現場の路地から軍法会議所がそれほど離れていなかったからこそ、同期に呼び止められる機会が発生したのだ)。プライベートならまだしも業務中であるから、かなり早歩きでもあったので、キンブリー少佐が「遅かった」と仰るには少々過保護的状況だ。ただ、急ぎの用事が他にできていたのなら話は別だ。エウレニウス少尉が先に戻り、私が戻らないという状況に少なからず苛立ちを感じないとも言えない。常に仕事に対して完璧を求める少佐のことだ、少なからずどころか大いなる苛立ちかもしれない。
 だが、少佐の返答は私の予想を大きく裏切るものであった。
「いえ、特には」
「そ、そうですか」
 よく考えれば、1人で戻ったエウレニウス少尉が「苗字中尉は軍法会議所に所用ができたので、先に戻りました」などと報告をせず、再度この部屋を出ていくことなど考えづらい。では、少佐の問いの真意とは?
「先週の件は、その資料で片付きそうですか」
「そうですね。まだ詳細までは読めていないのですが、恐らく今日か明日には片が付きそうです」
「それは、よかったですね」
 仕事の早い部下を持つと助かります。
 そう満足そうに言いながらも少佐は手元の本から目を離すことはない。錬金術師に関する本かと思ったが、どうやら違うらしい。背表紙に書かれた小さい文字を読み取れば、なんと、最近文学賞を獲ったと噂の推理小説だった。勤務時間中に何をしているのだと小言を言いそうになるが、仕事が早いというのは少佐にこそ相応しい。少佐のデスクに書類が重なっているのは見たことがない―――たまに私やエウレニウス少尉に押し付けているものもあるが、確かに必ずしもキンブリー少佐が担当するべきものでもないものばかり。仕事の割り振りも上手い。気まぐれに現場に出て行ってあちこちぶっ壊してしまうという、他の美点で補えるか補えないかギリギリの欠点(口の悪い同僚からは「爆弾狂」と呼ばれているが、否定できるだけの証拠を私もエウレニウス少尉も持っていない)さえ除けば、本当にいい上司だ。
「面白いですか、その小説」
「それほどでも。少し期待しすぎたようです」
「文学賞受賞作品ですよね」
「世間から評価されているからといって、万人に受けるというわけではないですよ」
「…」
 自己紹介ですか、と思わず口にしそうになった。危ない。
 そして慌てて、キンブリー少佐の言葉に、たしかに、と同意をした。
「読み終わったら苗字中尉に差し上げますよ」
「え、よろしいのですか?」
「ええ、家に置いていても、もう読まないでしょうから。それに、中尉がこの本をどう評価するかも気になります」
「あまり、気の利いたコメントはできないかと…」
「かまいませんよ」
 そのあとはお互い何も言葉を発することはなかった。
 私は宣言通り、その日の内に証憑に目を通し報告書を作成し終えた。書類をまとめてキンブリー少佐へお渡しする頃には、少佐も例の小説を読み終えており、私の作成した書類と交換するような形で、その本は私の手に乗った。
 軽くも重くもない、文庫本だった。



「結局、あの小説は読まれましたか」
「いえ…帰宅してから活字を読むのが私には向いていなかったようで…。半分くらいまではなんとか読み進めたのですが、その後イシュヴァール戦が始まってしまいまして」
「それは残念」
 そもそも少佐(今は「元」がつくが)が投獄されたので、とは言わなかった。本を読むどころじゃない状況や、感想を言えるような時間すらないだろうと思っていたが、実際のところはこうして面会の機会を与えられているので、あまり上手い言い訳には思えなかったからだ。
 質素な衣服と、だらりと垂らされた長い髪。絵にかいたような「囚人」の姿をした元上官との面会は不思議な気分になった。皺1つない軍服を纏い、少佐の信念のように真っすぐに結われた髪が遠い昔の情景に思えてしまう。
「エウレニウス少尉はどうされてますか」
「彼はイシュヴァールの地で片脚を吹っ飛ばされました。機械鎧を着けるためにリハビリをしているらしいです」
「ほう、それはそれは」
「軽口は目立つ方でしたが、軍人であることにめげてはいないようで」
「いいですね」
 そう言うと思った。エウレニウス少尉は元よりキンブリー元少佐が別隊から引き抜いてきた男だ。勤務中に「面倒だ」と臆せず口にするような態度の裏にあった、私の知らない彼の信じる道をキンブリー元少佐が買っていた。そういうことなのだ。
 では私は。同じように何か1つ強い想いを持っていただろうか。
「中尉」
「はい」
「あの小説は今後も、無理して読まなくても良いです」
 言われずとも、十中八九読まない。
 推理小説とまでは言わないまでも、現実世界で嫌という程に悪意を持った人間を見ている。何が楽しくてフィクションでも同じような世界を見ないといけないのか。どうせフィクションを楽しむなら、私には縁のない恋愛小説でも読みたいものだ。
「ただ、貴方には、貴方の感性を以て評価することを忘れずにいてほしい」
「…というと?」
「意図はわからないままでかまいません。とにかく、お願いしますよ」
 上官と部下という関係において、命令されることはあっても「お願い」をされることは今までになかった。確固たる自信はないが、元少佐から発せられた「お願いします」という言葉に真新しさにも似た違和感を覚えたから、恐らく初めてのことだ。今はもう命令をできない立場にあると解っているからこそだったのか、それとも無意識だったのか、そこまではわからなかった。



 元上官を恨む気持ちはちっともない。未来永劫、そんな感情を抱かない自信すらある。
 人間兵器として、あるいは、彼の趣味嗜好の一環としてイシュヴァール人を殺したゾルフ・J・キンブリーという男は、「爆弾狂」という揶揄が実に相応しかったと思う。
 それでもやはり、上官としてのゾルフ・J・キンブリーという軍人は、まるで「爆弾狂」から乖離した一人格にも見えるくらいにいい人だった。
 意図はわからなくていいと言われたあの「お願い」は、単純に「色眼鏡でゾルフ・J・キンブリーという人間を評価しなかった苗字という存在」への礼だったのではないか。最近ではそのように思うようになった。それを言えばエウレニウス大尉(無事にリハビリを終えて機械鎧にも慣れたころ、イシュヴァールでの功績が認められて昇進したらしい)だって同様だっただろうが、まぁ、自他共に認める「異端者」の考えることはわからない。
 彼がしでかした上官殺しの罪のおかげで、元部下であった私が受けた一時的な尋問は今思い出しても不愉快だった。不愉快という言葉では治まりきらないほどだった。それでもやはり恨む気にはなれない。
 これはひょっとすると、彼によって長期的に調教されただけなのかもしれないが、そう思わせるだけの彼の人間である側面の観測ができた。

 私がゾルフ・J・キンブリーという国家錬金術師の下で仕事をしていた数年間は、そういう時間だった。

信念、もしくはある種の信仰の証明

back

top

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -