日付は9月の半ば。特筆すべきことは起こらなかった日だった。七海が座学のみの授業を終え、寮の自室に戻り、一息をついたころに五条からの誘いが来るまでは。
 じんわりとした暑さこそ残るものの、身体を撫でる風は少し穏やかな日が増えた。それでいて日が落ちるのは早くなり、否が応でもノスタルジーを感じる時期だ。夕方5時、空はまだ明るく、日没まではもう少しかかるだろうと思われる。しかし五条はわざわざ七海の部屋にやってきて、ノックもせずに扉を開けて「廃神社で百物語やろうぜ」と蝋燭片手に言い放った。
 呪術師が、あろうことか廃神社での百物語を提案するとは頭がおかしいのか、と七海は深い溜息を吐いたが、そう言えばこの人はそこそこ頭がおかしい人だった、と思い至るまでにそれほど時間はかからなかった。五条の背後には、すでに暇つぶし目的で賛同したらしい夏油と家入、そして夏油がいるということは当然のように灰原もいた。七海に「断る」という選択肢はそもそも与えられていない。観念して、クローゼットから薄手のカーディガンを取り出して羽織った。

 まだ明るい時間に五条が誘ってきたのは、会場となる廃神社が高専から割と離れた場所にあるからだった。外出届けに彼が何と書いて誤魔化してきたのか、七海はあえて知ろうとは思わなかったが、嫌に頭の回る五条のことだから妙な外出理由は書かれていないはずだ。最寄りのバス停からバスに乗り、数十分揺られる。東の空が黒くなってきた頃にようやくバスを降り、そこから五条の道案内で更に数十分歩いた。日没と共に涼しくなるとは言えど、歩いているうちに少し汗ばんできた七海ではあったが、蚊に刺されても煩わしいのでカーディガンを脱ごうとはしなかった。
 閑静な住宅地の突き当りに、山の入り口が突如現れたように感じた。感じただけであって、実のところはそうではないだろう。特にこのあたりに住まう者たちにとっては、この光景は馴染んでいるに違いない。
 石階段を昇る途中で呪霊が1体出たものの、五条が手短に祓い、それ以降はオカルト的現象が起こるわけもなく、かつての本殿に辿り着いた。
 五条発案の百物語であるものの、本格的なことをやりたかったわけではないらしく、用意されていた蝋燭は五条の手にある1本のみ。懐中電灯は持ってるから、と夏油はフォローしたが、別に夜の暗さを心配しているわけではなかった。ある程度の作法を守らなければ、遊びであっても得体のしれないものを呼び寄せてしまう可能性だってある。七海はそう言おうとしたが、そもそも五条がいる時点で多少のリスクはほぼゼロのようなものだと、責任転嫁に近い信頼を理由に、脳裏に浮かんだリスクに無視を決め込んだ。
 世の中に蔓延る恐怖体験は、呪霊によるものか、あるいは人間の思い込みであることを七海たちはよく解っていた。高専で、よく解らされた。だから、ここで話される百物語も、おおよそ任務の話であることは端から容易に想像ができていたし、それ以上の話、たとえば「ホラー」なんてものを期待してはいなかった。
 だからだろうか、山のような恐怖体験(とは名ばかりの任務小話)を五条や夏油がひとしきり話した後、七海に話題を振られたときも、彼は特に面白い話が切り出せなかった。つまらない、と野次を飛ばす五条に苛立ちを覚えたときに、ふと思い出したのは自身が小学生だったころの体験談だった。



 大して面白くはない話です。
 私が小学生の頃の話です。
 見ての通りのこのナリですから、入学して少し経った頃から、学年すら飛び越えて学校中で私の産まれについては色々と噂が飛び交いました。意味を理解せずに投げつけられた言葉は、恐らく彼らの親が家庭で根も葉もない噂話をしていたのを聞いて、録音したテープのように学校で私にぶつけていたのだろうと、今になって思います。
 今でこそこんな風ですが、その時の私は生まれて初めて悪意なき悪意に晒されたわけですので、それなりに気に病みました。新しい教科書は落書きをされたり破られましたし、前日に綺麗に削った鉛筆は跡形もなく折れていました。上履きがなくなっているなんていうのもしょっちゅうで、髪色が気に入らないと書道の授業で使った墨汁を頭からかけられたこともありました。話ながら、なかなか悲惨な体験だなと自分でも思います。
 しかし、流石にそこまでされていると担任の目にもつきますし、何より私の親が放ってはおきませんよね。私は私で親に心配をかけまいと、破られた教科書や折れた鉛筆を親の前では出さないようにしたり、ゴミ箱に捨てられていた上履きをこっそり風呂場で洗ったり、幼いながらに奮闘はしていたのですが、そんな小賢しいことはすぐに親に見透かされていたようです。
 結果として、私に嫌がらせをしていた生徒は親と担任から厳重に注意されたようで、それ以降ぱったりと嫌がらせはなくなりました。
 しかし、小学生というのも案外残酷なもので、嫌がらせが止んだのも束の間のことでした。その上、厳重注意をされた彼らは逆恨みのつもりか「七海に関わったら不幸になる」という、これまた根も葉もない噂を流したんです。
 いや、はい、そうですね、家入さんの言う通り彼らは「自業自得」なんですけど、まぁ私の見たくれ1つを理由に嫌がらせをする単細胞たちが「自業自得」という言葉を知っているとは思えないので、仕方ないと思います。
 灰原は笑いすぎです。
 そうなると、また噂が巡るのは早いもので、今度は私に構う者は誰もいなくなりました。幸か不幸か、配布物を回すのを飛ばされたり、私が投げたボールを誰も取らなかったりなんてことはなく、割と中途半端は噂の巡りようだったので、嫌がらせをされていた時期よりは断然過ごしやすかったです。感覚が麻痺していたと言われたらそれまでですが。
 ただ、やはり放課後に遊びに誘われることはなく、チャイムが鳴ればすぐに家に帰るだけの日々でした。一緒に帰る人もいませんでしたし。でもそれだとやはり、友達がいないことを母が心配するかと思い、週に2日程寄り道をして帰るようにしてました。えぇ、母は専業主婦だったもので、基本は家にいましたから。
 寄り道とは言っても、公園には例の同級生たちがいるでしょうし、買い食いなんてする場所もお金もなかったので、私が辿り着いたのはあまり人気のない神社でした。お察しのとおり、今日ここに来たから思い出したんです。
 時折、近所のお年寄りが手を合わせに来るのですが、若い人はほぼ来ませんでした。お年寄りも毎日来るわけではなくて、私が週に2度行っていたとしたら、彼らは月に2度くらいだったと思います。本当に人気のない神社でした。宮司さんは居ました。境内の掃除の時間と、私が訪れる時間があまり合わなかったのですが、顔を合わせた時にはたまに社務所に入れてくれて、お茶とお菓子を出してくれる方でした。身長はさほど高くなく、顔立ちも態度も温和な男性だったので威圧感は一切なく、人間不信気味だった私にはとても有難い存在でした。
 神社に通い始めたのは小学2年生の夏頃だったと思います。そこから4年の春先までは、週に2回から3回寄り道して、境内の景色をぼんやりと眺めて過ごし、たまに宮司さんに構ってもらってから帰る、ということをしていました。そこにもう1つのルーティンが入ったのは、4年生の6月頃です。
 しばらく雨が続いた梅雨時期でした。流石に雨が降れば直帰していたのですが、久しぶりに目が眩むような晴れが訪れた日に、神社に行きました。するとそこに1人の中学生がいたのです。賽銭箱の前で、手を合わしているらしいその中学生は、私の通っていた小学校から、徒歩で10分程の場所にある中学のセーラー服を着ていました。先程も言ったように、月に数回お年寄りが来る程度のこの神社に若い人、ましてや自分と同世代の人が来るなんてそれまでなかったことだったので、私は思わずその後ろ姿をじっと見てしまっていました。
 は?視姦じゃないです。夏油さん、五条さんを黙らせてもらえますか。
 …で、その中学生は一通り思いの丈を神様に伝えられたらしく、帰ろうとしたのか振り返って、はっとしたような顔をしました。いつの間にかそこにいた私に驚いたようでした。怪しい者ではないという意思表示のために「こんにちは」と咄嗟に挨拶をしました。小学生を怪しむ中学生は居ないだろうと、冷静になればわかったことなのですが、その時の私はとにかく人間不信だったんでしょう。
 彼女も反射的だったのでしょうが「こんにちは」と返してくれました。私の服に着けていた名札の体裁を見て、近くの小学校の子だね、と笑いかけてくれました。小学生から見た中学生というのは、酷く大人びて見えるもので、同級生に友達のいなかった私には、その笑顔が大変眩しく見えたのを覚えています。
 そこから少しの間、会話が続きました。社交辞令と世間話程度の内容です。その年の4月に近くに引っ越してきたこと、学区が変わってしまったので入学した中学校に友達がいないこと、引っ込み思案でなかなか友達ができないこと、だから今日は友達ができるように神様にお願いをしに来たのだ、と話す彼女は、 [LN:苗字]名前と名乗りました。
 神様に祈っても仕方ないのはわかっている、これは決意表明みたいなものなのだ、とも言っていました。
 その日はそれで別れたのですが、次に神社に寄ったときにも彼女はいました。また偶然鉢合わせたわけではなく、今回は私を待っていたのだと言いました。初めに会った日に、私が週に何度かここを訪れているという話はしていませんでした。何故私がじきにここにやってくることを知っていたのか。その理由がわからずにいる私を見抜いたのか、彼女は「宮司さんが教えてくれた」と答え合わせを口にしました。どうやら、宮司さんが私のことを彼女に話していたようです。
 その日から、彼女との交流が始まりました。それまでは実質不定期に訪れていたのですが、彼女と会うようになってからは毎回帰る前に次に会う日を決めていました。勿論、約束の日が急に悪天候になることもあるので、その時は次の日と決めていました。次の日が土曜の場合は次の月曜に。次の日が平日で、また悪天候なら、そのまた次の日、といった具合です。当時は携帯電話なんて持っていなかったのと、家の電話番号なんて聞く度胸はなかったんです。同級生ならまだしも、女子中学生の家の電話番号なんて。
 そんな風に交流を始めてすぐ、夏休みが来ました。学校に行かなくていい期間というのは、いいものです。私の場合は誰にも会わなくて済むから、という理由でしたが。それでも、彼女、名前さんとは約束を続けて神社で会っていました。時間帯はいつも通り夕方です。名前さんも相変わらず友達がいなかったそうで、私と同様に夏休みに喜んでいました。
 その時ふと、友達がいない、というところに勝手にシンパシーを感じてしまったのでしょう、私も自身の待遇を吐露しました。それまでは学校の話と言えば、授業で習った内容のことだったり、この前より1つ高い跳び箱を跳べただったり、人の絡まない当たり障りのない話ばかりしていました。すると、名前さんは、私の置かれた環境の1つ1つに、ありのままに怒りを露わにしました。なんとなく私は、彼女はまっすぐな人だ、と感じた記憶があります。
 同調圧力の強い環境で私のような見た目は真っ先に目をつけられることは、正直なところ、理解できます。誰が悪いわけでもなく、仕方ないことなのだと諦めかけていた私のことを、私より先に彼女が、名前さんが気づいたのでしょう。私を避ける同級生に対しても、それを受け入れてしまっている私に対しても、名前さんは怒っていました。
 4年もそういう環境にいた私は、その環境に対して「怒ってもいいのだ」と、当たり前のことに気づかされました。名前さんは「私に友達がいないのは、ただ私が引っ込み思案なだけ。関わろうとしてくれる同級生もいるのに、緊張してうまく話せないだけなの。でも七海君は違うでしょ。七海君を避けるように誘導してる人がいて、それに従ってる人がいる。それは怒っていい」と、私の手を握って熱弁しました。蝉が喧しく鳴いているのに、その声すらどこか遠くに聞こえました。それほどに私の世界が大きくぐらついた瞬間だったんです。
 それから私は、夏休みの宿題もそこそこに終わらせ、学校で遭ったありとあらゆる嫌がらせをリストアップし始めました。思い出したくないことも、なんとか必死に思い出して事細かにノートに書き溜めました。証拠としての記録です。これまでに壊された物品の写真がないので、どこまで有効になるかはわかりませんが、無いよりましだと思ったんです。夏休みが終わった後も、それは続けました。その頃はもう私に関わろうとする同級生がいなかったので、何かを壊されたりということはなかったのですが、それでも嫌がらせをしてくるリーダー格の男子生徒がいたので、証拠集めには苦労しませんでした。
 そこまで来ると、私は覚醒か、あるいは何かに取り憑かれたように証拠集めに勤しんでいました。神社での名前さんとの交流も続けていました。書き溜めたノートを彼女に見せては、私はこの後の計画を意気揚々と立てていました。
 10月頃、名前さんは嬉しそうに友達ができたことを私に話してくれました。根気強く彼女に話しかけてくれたその友達のおかげで、クラス内外にも少しずつ友達ができたと言いました。その人たちと一緒に帰ったりしなくて大丈夫なのか、と私が聞いても、家の方向が逆なのだと答えていました。その顔が少し寂しそうに見えたので、名前さんの友達が本当にいい人たちなのだとわかって、私は安堵しました。
 そこから1年ほどは特に代わり映えもしない、繰り返しの日々なので割愛します。
 さて、6年生になった私は着々と計画を進めていました。私に嫌がらせをしていたリーダー格、そしてその取り巻きが数人いたのですが、ありがちなことに勉強はできた人たちでした。人間はできていなかったのですが。ですから、中学受験を控えていました。親からの期待もあったのでしょう、6年生にもなると受験対策に追われて私に構う余裕もなくなったのか、私自身は結構平穏なものでした…と、言えたら良かったのですが、受験対策のストレスを私にぶつけてきました。5年生頃からじわじわと成長期が来て、気づけば彼らよりも私の方が体格が良くなっていたのですが、そんなことは気にも留めず私に嫌がらせをしてくる彼らに、私はいよいよ呆れていました。
 その年のお年玉か、誕生日だったかは忘れたのですが、何かのタイミングで私はテープレコーダーを手に入れました。いくらノートに記録をつけたところで、実際の音声には敵いませんからね。親には適当な理由を答えたのですが、覚えてはいません。もしかしたら何か察していたのかもしれませんが、今更それを確認するつもりもありません。
 ちなみに6年生の頃から、名前さんと会うのは週1程度になっていました。なにせ、彼女自身も高校受験を控える中学3年生でしたから、あまり頻繁に会うのも学業に差し支えるだろうということで、頻度を落としたんです。それに、学校に友達がいるならその方たちと交流を深めた方が良いはずですから。それでも私自身は数年続けた神社通いをやめることはなく、週に数度は訪れていました。名前さんと交流するようになってからはほとんど顔を合わせなくなった宮司さんと、再び会話をするようにもなりました。前よりも朗らかになったね、と宮司さんに言われたとき、私は「きっと名前さんのおかげだろう」と思いました。
 そして受験期も佳境に入った12月。彼らはついに入試を受けに行きました。その日に合わせて、私は温めていたありとあらゆる証拠を、彼らの志望校である中学に送りつけました。今思うと、証拠になり得たのかどうかも怪しい私の記録の数々でした。
 入試を終えた彼らはクラスで、どの問題が難しかったなどと語り合っていました。私はそれを見て、どうやら私が必死に集めた証拠たちは悪戯だと思われたようだと悟りました。当然と言えば当然なのですが、やはり少しは期待していたんです。受験先の学校の教師たちが、彼らの所業を見咎めて問答無用で不合格にしてくれるのではないか、と。
 所詮小学生の考えた作戦、計画が上手くいくはずもなく、私の不遇の小学生時代は終わろうとしていました。彼らは志望校に合格していました。
 2月の末頃、神社で名前さんと会ったとき、志望高校に合格したと嬉しそうに報告をしてくれました。私は、彼女の合格を心から嬉しく思う反面、私からはいい報告ができないことに後ろめたさを感じていました。その気持ちがきっと顔にも出ていたのでしょう。名前さんは私の顔色が優れないことにすぐに気づきました。彼女の優しさに、私は思わず計画が上手くいかなかったことを彼女に暴露しました。
 しかし彼女は、私の行動を褒め称えました。上手くいかなかったことは残念だけど、何か行動を起こしたことが素晴らしいのだと。「七海君が送った証拠は、きっと見てもらえてると思うよ。だから、絶対にその子たちには何かしらの報いがあるはず」と、根拠もないでしょうに、彼女はそう熱く私を励ましてくれました。
 それから名前さんは卒業式の準備や高校入学準備に追われ、私もまた卒業生であったのであまり神社に立ち寄ることもできず、最後に会ったのは3月31日でした。お互いの卒業式も終わり、春休みだったので。
 3年ばかりの交流でしたが、名前さんには何度も励まされたことに私は感謝を伝えました。それは名前さんも同じだったようで、友達ができなかった頃もできた後も、私が奮闘している姿に励まされたのだと、そう言っていました。進学をしたら環境も通学路も変わるため、その日が最後になることはお互いわかっていました。それでもそのことを明言はしなかったのですが、それまでとは違い、次に会う約束をしなかったのが私たちの「最後」を示していました。
 それ以降は一度も彼女に会っていません。
 嫌がらせをしていた彼らは、進学した中学で酷いいじめに遭って不登校や自殺未遂を起こしたと聞きました。風の噂かと思いましたが、その中学がいわゆる名門校だったこともあり、いじめによる自殺未遂は割と大きく報道されていたので事実だとわかりました。名前さんが言っていた「何かしらの報い」は、まさしく人を呪わば穴二つ、だったようです。私の送った証拠は、恐らくなんの影響もなかったでしょうけど。
 さて、皆さんそろそろ「これのどこが怖い話なのか」と疑問に思われているでしょう。実は、私が通っていた神社は、私が中学に入って暫くしてから廃社になりました。例の宮司さんが急死したそうで、そのせいか廃社処理がきちんとなされなかったようです。なので、自身を祀るべき人間を失ったご神体が、呪霊化するのは早かった。同級生に嫌がらせを受けていた私が6年弱通い詰めたことで、負のエネルギーをそこに置き去りにしたのも一因でしょう。
 私の話に怖い点が一つ、あるとするならば、私が通っていた神社がまさしくここで、先程五条さんが戯れに祓った呪霊が名前さんだった。ただ、それだけのことです。
「ずっと君が心配だったけれど、いい人たちに恵まれているようで、よかった」

back

top

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -