同期の苗字が死んだと七海が聞かされたのは、彼女の死から2週間程経った頃だった。
 やけに慎重に、言葉を選んで苗字の死を告げる五条に、七海は不信感を抱いた。なにせ、自分以外の皆が誰も彼も苗字の死を知っている中で、彼女と同期である彼だけが何も聞かされずにいたのだ。無理もなかった。
「ここ1か月程連絡が途絶えて、心配していたところでした」
「結構頻繁にやりとりしてたらしいじゃん」
「今はお互いが唯一の同期…でしたから」
 何故五条がそれを知っているのか、などと余計なことを考えることはしない。おおよそ遺品となった携帯のチャットアプリでも見たのだろう。別に構わない。美味しかった店の名前や、酷かった天気の話、今度時間が合えば飲みに行こうという予定調整。最後のラリーは苗字から送られてきた奇天烈なキャラクターが「了解」と言っているスタンプだったはずだ。
「その様子だと、葬儀や埋葬などもすっかり終わってしまっているんでしょうね」
「…まぁね」
 少し歯切れは良くないものの、悪びれもせずに五条は答えた。当然だ。七海の知らないうちに全てが終わってしまっていることは五条のせいではない。苗字の親族の判断であれ、五条の判断であれ、それが正しいと判を押されたものであるならば七海がどうと言えることではない。
苗字の家は、御三家とまではいかないまでもそれなりの実力のある呪術師一族であった。男兄弟はおろか、姉や妹もおらず一人っ子であった苗字は、生きていればいずれ苗字家の当主になることが約束されていた。大層なお家柄と将来を背負った女ではあったが、苗字自身は案外いい加減な性格をしていた。しかし分家の存在もあるためになかなかどうして、逃れることのできない宿命なのだと言って笑っていた。「あ、七海が婿養子に来てくれたら心強いですねぇ」などと、本気なのか冗談なのかいまいちわかりづらいことを言って、七海が頭を抱えたことも懐かしい。
「で、苗字家の現当主から預かってきたコレ、渡しとく」
 五条はその箱を、ふと思い出したようにどこからともなく取り出したが、七海にはそれこそが今日呼び出された本題なのだとわかった。
 ホームセンターで売っていたのであろう簡易で小さな金庫だ。南京錠が引っかかっているが、その気になればペンチで壊して開けられる程の、防犯性には乏しいそれはすんなりと七海の掌に収まる。軽く振ってみると、中には金属製ではない何かが入っているらしくカタカタと音が鳴った。転がるような感触がないので、四角い金庫の形にぴったりの、何か。
「なぜ私に」
「自分が死んだ時に七海建人に渡してくれ、って書いてたんだってさ」
「書いてた、って」
「両親宛の、遺書に」
 僕は読んでないけど、と五条は付け足してからその場を去った。
 金庫を開くための4桁を知らない七海を残して。



 自宅に戻った七海は、金庫を前に溜息を吐いた。
 開け方に悩んでいたわけではない。最悪の場合、腕力でどうにかなると思っていたからだ。
 とは言えやはり、破壊という手段をとるよりも先に努力はせねばなるまい。
 こういう場合にまず入れてみる数字の相場は決まっている。クレジットカードの暗証番号ほど捻ることはない。しかし、誕生日、車のナンバー、住所の番地、かつての出席番号など、苗字に関わる数字を一通り入れてみたものの、全く開く気配はない。
 些か迷いはしたものの、七海は新たな4桁を試す。
「はぁぁぁ…」
 七海の眼前に揃った0773という数字と、部屋に響く解錠音。
無条件の信頼というのは有難いが、これはあまりにも安直なのではないかと思うと共に嘆きが漏れる。
 コイントレーには何も入っていなかったため退ける。本来お札が入っているであろうそこには、小さなノートが1冊だけ入っていた。大概の文具店で売っているであろう、ありふれたノート。
 ためらうことなく、七海は表紙をめくる。
 そして、五条がこれを託すために彼女が両親に宛てたものを「遺言書」ではなく「遺書」だと言ったことを思い出した。


『七海へ
七海がこれを読んでいるということは、私は死んでしまったということですね。

というのは冗談です。
いや、これを読んでいるときに私が死んでいるのは十中八九事実でしょうけど、ちょっとやってみただけです。
これを書いているのは、七海に伝えておきたいことがあったからです。

ひと月前、と言っても七海がこれを読むタイミングは計りかねるので具体的には4月の中頃、私は任務でとある山に行きました。案件としては2級のもので、元々は別の術師が担当する予定だったのが急な体調不良で私にお鉢が回ったとのことでした。
ちなみにその術師は本当に胃腸炎を起こしていたそうで、仮病とかではなかったです。本筋とは関係ないですが、関係ないからこそ記しておく必要があったので、書きました。
しかし、やはり山の中のような場所に行くと、嫌でも灰原が死んだときのことを思い出すものです。道端に祀られている祠を見て、無意識に手を合わせてしまったことに、今でも辟易とします。土地神案件で灰原が死んだのに、そういう場所がある種のトラウマになっているのに、それでも神様に縋ろうとしてしまった私に。
今思うと、私のそういう弱いところ、強くなりきれなかったところが良くなかったのでしょう。

件の呪霊の討伐自体は特記することもないくらい順調に済みました。

問題なく任務を終えられたことに安堵した私は、来た道を戻りました。山の恐いところの1つには、来た道を戻っているはずなのに見覚えのない道を歩んでいるかのような錯覚に襲われることが挙げられます。生い茂る木々の隙間から山の麓が見えました。ですから、何も迷うことはないはずなのです。最悪の場合は斜面を転げ落ちれば、一発でコンクリート舗装された道に辿り着けます。しかし、そもそも私は分かれ道のない一本道を歩いてきたはずです。文字通り来た道を戻る、ただそれだけでいいのです。

なのに、なのにです。

いつまで経っても私は辿り着くはずの麓を見つけられないです。4月の朗らかな空気と、見上げた先で生い茂る葉と、その向こう側で優しく冴える青い空が、あまりに異質な空間でした。呪力は全く感じませんでした。つまり私が討伐した呪霊はおろか、呪術師や呪詛師の類による現象ではなかったのです。それでも感じる異様な雰囲気は、何だったのでしょう。考えたくもありません。

一時期ネットの掲示板で流行った、並行世界へ迷い込んだ人の話なんかを思い出しました。ふとスマホを確認もしましたが、今どきの端末はすごいですね。一昔前なら圏外というオチだったでしょうが、私のスマホは見事にしっかりアンテナが立っていた(この表現も古いと言われる時代ですね)のです。その上、動画アプリの通知が数秒前に届いている始末。並行世界ではなさそうだ、と妙に冷静に認識しました。

幸か不幸か、任務ではさほど体力を使わずに済んでいたので、もう少し進んでみる方向へ思考は傾いていました。ただし圏外になるのも怖いですし、私が感じているよりも異常な事態であったなら尚更怖いので、アンテナが立っている内にと、下で待ってくれているはずの補助監督に「10分待っても私が下りてこなければ、1級以上の術師に至急の応援要請を頼んでほしい」とメッセージを入れました。

さて、と気合を入れて私が歩みを進めようとしたときに、ぱきん、と踏みつけた木の枝が折れる音が引き金にでもなったのでしょうか。

灰原が走れと叫びました。

突然のことに、私はパニックになりました。なぜ灰原が、という考えで思考が埋まりました。よくわからない何かが脳内に溢れる感覚に見舞われました。一瞬で身体中の汗腺が緩み、息の吸い方もわからなくなりました。覚えているのは、気づいたら私は一心不乱に脚を動かして山から駆け下りていたこと。それだけです。

人は、死んだ者の声から忘れるという説を、七海も聞いたことがあるかと思います。真偽はともあれ、私は灰原の声をとっくに忘れてしまっていたことを白状します。顔は写真を、字は貰った誕生日のメッセージカードを、思い出は日記に書いてありますが、動画を撮っていたガラケーは、ずっと前に呪霊に壊されてダメになってしまっていたので。何の言い訳にもなりませんが。それでも、あの声は紛れもなく灰原でした。

しかし、灰原ではなかった。

見るからに人工物とわかる橋や階段を駆け抜けて、見慣れた車に飛び乗った私は、心配する補助監督の問いかけに応えることもできず、直感で、本当に直感で、実家には戻れなくなったことを確信しました。

灰原ではなかった。

彼はきっと、どんな死に方をしても、私たちがどんなにあの死に方を酷いものだと思っていても、成仏せずにこの世に留まってしまう男ではない。そうですよね。成仏、なんて、本当にあるかどうかもわかりませんが。

灰原ではなかった。

ただならぬ私の様子に、補助監督も緊急性を読み取ったのでしょう。高速をぶっ飛ばして高専まで戻ってくれました。到着したのは、確か月が空高い位置に昇り切った頃でした。おかしいですよね。おかしいですよね。私が山の中で空を見上げた時はぞっとするほど真っ青だったんですよ。それから車に戻りついて、補助監督が高速を飛ばしたのなんて、体感でも1時間やそこらのはずなんです。

一応、そのまま家入先輩に身体中調べてもらいましたが、極度の疲労と混乱状態ではあったものの、特に異常は見られないと言われました。

ただ、家入先輩も、私の様子がいつもと違うことには気づいていたようです。五条先輩を呼びつけて、私を診せました。五条先輩は「僕をこき使うなんて」とかぶつぶつ言いながら私をあの眼で見て、一言だけ言いました。

私の直感は正しかった。

灰原ではなかった。

念のため、実家に帰ろうとはしてみました。ですが、駄目でした。家屋どころか、そこに繋がる道にすら足を踏み入れることができませんでした。父や母、親族一同が念入りに張って守ってきた結界に、私は弾かれたのです。

私が、私そのものが弾かれたのではありませんが。

そうは言っても、今は大変便利な世の中ではありますので、事の次第を全て書き連ねたものを父と母にメッセージとして送信しました。手紙にしなかったのは、やはり手書きの文字というのは力を持ちますし、色々と籠るので、私そのものと同様に結界に弾かれて届かない可能性を考えたからです。父母からの返事は、私がちょうど灰原の声を聞いた時間帯に「私の身代わり人形が燃えた」とのことでした。学生の頃に少し話したことがありましたよね。毎年私の誕生日に、歳の数だけ髪を抜いて、人型の人形の綿の中に捻じ込むというアレです。実は今までにも身代わりになってくれたことは度々ありまして、手の部分がもげたり、眼の部分のボタンが割れたりはあったのですが、跡形もなく燃えたというのは、当然ですが初めてでした。

父母は、すでに腹を括っていたようです。
私も、そうしました。

呪術師なんてやってるわけですから、いつ理不尽な死を迎えるかもしれないということは頭では理解していました。していたつもりでした。ただ、いざそのときが近いことを悟ると、やはり怖いものです。

あの五条先輩がああ言うのですから、間違いはないのでしょう。

「何も、ないよ」

何も憑いていないので、何も、手立てはないということです。

灰原ではなかった。

あの瞬間、私の存在は人間ではない何かに変わってしまったのです。それも、半分だけ。いまは、半分だけ。それを人は、特に非術師は幽霊だとか神様だとか悪霊だとか、そう言うのかもしれませんが、私はそうは思えません。もっと、そんなものより、原始的な。

私の全てがソレになってしまうとどうなるのでしょうか。私にもわかりませんし、わかってしまうことは怖いです。七海や、先輩方、先生たち、そして苗字家を傷つけることになってしまうことは、もっと怖いです。

あれが、あの声が灰原ではなかったことが唯一の救いです。

灰原ではなかった。

そういうことですから、もし私が死んだ後に灰原の声がしても、それは灰原ではありません。もし私が死んだ後に私の声がしても、それは私ではありません。

決して。

灰原ではありません。
私ではありません。

七海と、そして灰原と同期でよかったです。高専に入るまでは家系のことでうんざりすることもありましたが、2人のおかげで家と向き合い、将来をきちんと見据えることができました。今ではその将来も叶えられなくなってしまいましたが、意味のないものではなかったと思いたいです。2人のことが好きでした。大好きでした。いえ、過去形で書くのは良くないですね。大好きです。今までもこれからも。ずっと3人で馬鹿みたいに笑い合って、たまに先輩の愚痴なんかを言い合って、そんな大人になって過ごしたかったことだけが、未練になりそうです。
私の遺体は両親と、それから五条さんに任せています。どのような処理になるかは知りませんし、知らない方が幸せかと思いまして、聞いていません。

七海がこれを読む時には、私の四十九日が過ぎていることを祈ります。

それでは、お元気で。
灰原が迎えにきましたので、さようなら。

2018年5月16日 苗字』
誰も悪くない

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