「名前先輩、いいものがあるんです」
 肌に纏わりつくような湿気が酷い6月末、苗字は少し前に負った怪我の治癒経過を見せに来るよう家入に呼び出され、高専に立ち寄った。呪霊によって二の腕あたりをざっくりと切り込まれたが、早い段階で家入の治療を受けたため大したことなどなかった。だから、それを理由に呼び出したのは体のいいそれらしい理由だったからにすぎず、本題は彼女が今しがた口にした「いいもの」なのだろう。
 苗字の相槌を待たず、家入は机の中から掌に収まる程に小さい紙袋を取り出した。百円均一の店で売っているような、ポチ袋に近いものだ。
「なに?」
「マニキュアです。生徒が買い物に出たときに何かの景品で貰ったらしいんですが、あまり好みの色じゃないというので」
「それで硝子ちゃんが貰ったと?珍しいな」
「私ではなく、名前先輩に似合う色かと思いまして」
 そう言って家入が紙袋から取り出したボトルには、いつか見た沖縄の海によく似た少し翠がかった青色のポリッシュが入っていた。苗字はその色を綺麗だと思う一方で、家入に対して疑問を抱く。家入はこの色が苗字に似合うと思って生徒から引き取ったようだが、苗字はこういった色合いの私物を持っていないのだ。黒や白の服が多く、五条からは喪服と死に装束の収集癖でもあるのかと揶揄われるくらいであるし、アクセサリーなどの小物類にもさほど興味がない。社会のマジョリティに馴染むためにしている程度の化粧も、どちらかと言えば赤が基調だ。
 故に、家入の真意を図りかねた。
 家入は、そんな苗字の疑問を察したのか、ボトルの外装フィルムを剥がして捨てながら、言う。
「似合うと確信があったというより、この色を先輩に着けてみてほしいと思ったんです」
 きゅぽん、と、ボトルの蓋が開く音が室内に木霊する。嗅覚を刺激する臭いが広がる。苗字はこの臭いが不思議と嫌いではない。ジャンキー扱いをされると面倒なので言わないでいたが、そもそも未成年喫煙をしていた家入相手なら要らぬ判断だったかもしれない。
 薬品で少し荒れた家入の左手が差し伸べられる。塗らせろ、ということだろう。苗字は観念して、銃を握り続けたせいで肉刺と節と、そして傷だらけになった右手を差し出した。お互いの手に、学生時代のような張りなどない。それを特段寂しいとも惜しいとも思いはしなかったが、こうなるまで生き延びてしまったことを、苗字はやはり苛立たしく思った。
 引き金を引く人差し指の爪が青に染まる。
「任務に出れば、すぐに剥がれてしまうと思うけど」
「生徒が言うには、好きな色が目に入ることで強くなれる気がするんだそうですよ」
「なんだそれ、かわいいな」
「ですよね」
「…『のろい』じゃなくて、それは『まじない』なのかね」
 苗字が呟いたその言葉に、家入は「そうなんでしょうね」と口の端を吊り上げた。
 同じ字を使えども意味合いが大きく変わるそれらは、誰にとっても少なからず命を縛る。そうであるなら、家入がこうして苗字の爪を塗ることもまた、同じように『のろい』であり『まじない』であるのだ。ただ一言「死ぬな」を色で表して。
 苗字の10の指は、3分と経たず艶やかな海の色に変わった。暫くは碌に手を使えないかと思ったが、存外すでに固まり始めているポリッシュを見て苗字は驚いた。
「昔よりも速乾性が上がってます」
「そうみたい。すごいね」
 前に塗ったのは、きっと、死んだ同期が薬局で買ってきた安いマニキュアを、苗字に試し塗りした時だった。どんな色を塗られたかも思い出せない代わりに、同期が嬉しそうだったことはあまりにも色鮮やかに思い出せて、苗字は早く次の任務を入れなければならない焦燥感に苛まれた。



 家入によって爪を鮮やかに彩られてから1週間ほど経った頃、予想通りその色は任務によって斑模様になってしまっていた。しかし苗字がわざわざ除光液を買うことをしなかったのは、面倒なのと、今後使うことはないであろうものをわざわざ買うことに躊躇いがあったからだ。とは言えど、確かに鮮やかで艶やかな指の先を見る度、ほんの少し口元が緩んだことも否定はできない。あの後、家入はボトルを苗字に押し付けたため家に帰れば塗り直すこともできるが、それは億劫だった。
 自然に全て剥がれ落ちてしまうまでの、束の間のおしゃれのつもりだった。
「珍しい色をしていますね」
 任務帰りの東京駅で図らずも遭遇してしまった七海に声をかけられた苗字は、誰の目から見ても明らかなほど機嫌が悪かった。手強い呪霊だったことや、うまい具合に死ねそうだと思ったが呪霊の方が先にダウンしたこと、最終便の新幹線にギリギリ飛び乗らざるを得なかったこと、諸々の理由が苗字の精神を攻撃していたところに、とち狂った感情を自身に向けている男とかち合うのは、それはもうストレスフルであった。
 そうは言っても迎えに来る人間が同じであるらしい以上は、それなりの会話を続けることを余儀なくされた。
 そこに七海が放り込んできたのは、紛れもなく彼女の爪の色の話だった。
「硝子ちゃんに、」
 塗られた、と言いかけて言い淀む。別に間違いではなかったとは思ったものの、自身が拒否を一切しなかったことを思いだした。「塗られた」などと、そう言い切ってしまうには些か自己弁護が過ぎる。不自然な間が生まれたのは承知で「塗ってくれた」と口にした。七海は、そうですか、と小さく頷く。妙に納得したような表情から、苗字が自分の意思で塗ったわけではないことは端から解っていたようだった。
 駅前のロータリーで、立ち話にもならない言葉の応酬を続ける。
「いい色です」
「まぁ、そうだね」
「塗り直さないのですか」
「…まさか、私がそんなことをわざわざすると?」
 思わず鼻で笑って苗字がそう返せば、七海は少し考えてから「いいえ」と答えた。それから、「ただ、」と言葉を続ける。
「ただ、少し惜しいと思いました」
「…七海君も塗りたいなら、ボトルごと譲るけど」
「なぜそうなるんですか」
 投げやりな相槌にすら律儀に返事をする、七海のそういうところが苗字は心底苦手だ。彼に対して得意なことは何1つもないのではあるが。
「私の眼の色が、貴女の指を彩っているのが、すみません、少し嬉しかったので」
「…この時間からじゃ、薬局も閉まってるよなぁ」
「除光液を買おうとしないでください」
 交わらない2人の視線は、無意識に少し向こうに見えた黒い車に移る。運転手は良く見えないが伊地知であることは既に知っている。思ったよりも到着が遅かったことから、道が渋滞していたか、出発前に五条に絡まれていたかのどちらかであるだろう。
 いずれにせよ、こんな時間まで理不尽に襲われている伊地知に同情をする。
 そこで苗字は、不意に、家入がこの青を着けてみてほしいと言った、深い意味を理解した。やはり彼女もかわいいだけの後輩ではないようだ。
 湿気を含んだ空気の束が2人の間を駆ける。快か不快かで言えば不快だった。妙に明るい月の光を借りて、盗み見るように七海の目を見上げれば、なるほど、確かに似た色をしている。途端に恨めしくなった指の先を眺めて、苗字は息を吐き出した。
「もし、塗り直してくださったら、貴女が腕だけを残して死んだとして、その腕が貴女のものだとわかりますし」
「真顔で酷いことを言うね。散々私と心中したいようなことを言っているくせに、腕は拾うのか」
「おや、心中を許してくださるのですか」
「言葉の綾も通じないのか」
「冗談です」
「どこからどこまでが」
 苗字の問いに七海は答えず、ただ嬉しそうに頬を緩めただけだった。
「なんなら、私が塗って差し上げましょうか」
「結構だ」
海より深く

back

top

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -