夏油君は、本当に優しい人だった。

 親切と言ってしまうととても簡単だけれども、夏油君のそれはもう少し奥が深い。なんというか、人のことをよく見ているのだ。クラスでも特段目立つタイプでもなかった私のことですら、よく見ていた。
 ある日の授業中、月経痛に耐えていた私に気づいたのは他でもない、その時隣の席に座っていた夏油君だった。教科担当の先生が黒板に向かっている間に、小さな声で大丈夫かと聞いてくれた夏油君に、私は辛うじて首を横に振った記憶がある。中学生にもなれば、女子生徒が顔を真っ青にして腹を押さえている原因には気づいていただろう。それに対して心配をするのは、ハードルの高いことでもあっただろう。
 それでも夏油君は先生に声をかけてくれた。黒板の方から振り向いた先生も、私の顔色を見て保健室に行くことを勧めてくれた。先生が女性だったのも幸いだったかもしれない。
 ゆっくりと席を立って、クラス中の視線を感じながら教室を出た。ひんやりとする廊下が、痛み続ける腹部を更に刺激した。



 結局その日は、保健室で寝かせてもらっている内に寝てしまい…いや、気絶と言っても過言ではなかったかもしれない。なんにせよ、私はその日の授業が全て終わるまで、痛みから逃れるように眠ってしまっていた。いつも一緒に下校している友人たちが授業終わりに見舞ってくれたようで、「具合大丈夫?ごめんだけど、先に帰るね。また明日!」とメモが枕元に置かれていた。
 ぼさぼさになってしまった髪を整えて、ベッドから降りる。
 ベッドが軋む音を聞いて、保健室の先生が優しく声を掛けてくれた。
「痛みは引いた?」
「はい、だいぶましになりました」
「ならよかった。荷物だけど、クラスの子が持ってきてくれて、そこに置いてるからね」
 先生が指をさした先では私のスクールバッグが、丸椅子に乗せられていた。メモを置いていった友人だろうと思って、彼女の名前を口にしたが、先生は違うと言った。
「持ってきてくれたのは、夏油君よ」



「体調はもう大丈夫かい?」
「あ、夏油君、おはよう」
「おはよう」
 次の日の朝、昇降口で夏油君と会った。おはようの挨拶より先に体調を心配してくれるあたり、彼は割と心配性なのかもしれないと思った。もう大丈夫だよと答えたら、ならよかった、と心底安心した顔で目を細めた。
「保健室で寝すぎて、夜はちょっと寝れなかったけど」
「今日の授業中に寝てたら起こしてあげるよ」
「よろしくお願いします…」
「あ、昨日の授業のノート、あとで貸すよ」
「え、いいの?」
 夏油君はもちろんと頷いた。少しだけ長い襟足の髪も一緒に揺れる。あとで、と言ったくせに、もうスクールバッグを漁って目当てのノートを探してくれている。そして手渡された5冊のノート。当然表紙に書かれている名前は「夏油傑」だ。想像したより、彼は華奢な字を書くようだった。そうこうしているうちに教室に着いた。
 向かう先は隣同士の机だ。私より先に登校していたらしい友人たちが、私の机に集まっていた。
「おはよー。もう体調は大丈夫そう?」
「おはよう。もう大丈夫、昨日はメモありがとうね」
「昨日の授業のノート、貸そっか」
「あ、それなんだけど、今さっき夏油君が貸してくれて」
「え、まじ?」
 目を丸くした友人たちは、私の手の中にあるノートと、隣の席に腰かけたばかりの夏油君本人を見比べた。夏油君は、彼女たちのその反応に眉尻を下げて笑った。



「え、夏油君、高専に行くんだ?」
「うん、やりたいことがあってね」
 あまり聞いたことのない校名だった。どういう専門性のある場所かも、私にはわからなかったが、夏油君が目指したくらいなのだから、そこには何かちゃんと得られるものがあるのだろうと、漠然とした確信があった。
 誰も否定しようのないくらい夏油君は頭がいいし、人徳もある。見た目は少々近寄り難いところもあるが、それを打ち消すような親しみやすさがある。それは意図して醸し出しているようにも感じるが、嫌な感じはしない。
 彼が得たいものが何かは私にはわからないし、説明されたとて理解し得ないのだろう。私にわかるのは、少しだけ寂しいということくらいだ。
「勝手に同じ高校行くんだと思ったから、ちょっと残念かも」
「××高?たしかにちょっと考えたこともあったけれどもね」
「でもやりたいことがあって目指せる場所があるのはいいことだよ」
 したいことは特になく、学力的に手が届きそうなのと、大学進学に有利そうという理由だけで高校を選んでしまった私に比べて、夏油君のなんと立派なことか。
「たまにメールするよ」
「でも高専って忙しそうなイメージあるから、無理にはいいよ」
「夜寝る前に、1通くらいなら送れるさ」
「あはは、じゃあ待ってる」
 じゃあね、と言ってお互い手を振った。もう片方の手には卒業証書の入った筒があった。
 そんな卒業式の日の午後3時だった。



 有言実行と言わんばかりに、たしかに夏油君は夜寝る前に必ずメールをくれた。「たまに」なんて言っていたのに、毎晩。その返事は、私がけたたましく鳴り響く目覚まし時計を止めた次にやるルーティンワークだった。そしてその返事は、また夏油君が寝る前に。
 人生の内でほんの少しだけ一緒の教室で過ごしただけの私に、律儀なことだ。高専では気の合う友人ができたと言っていた。どんな人かと聞いてみたら、天上天下唯我独尊が服を着て歩いてるよ、と返ってきた。よくわからないけれど、夏油君が楽しく過ごせているなら良いことだ。
 結局中学を卒業してからは一度も会ってはいない。実習で訪れたという色んな場所の写真を撮って送ってくれたりはするけれど、夏油君やその友達の写真が送られてきたことはない。だからだろうか、私も私自身の写真を送るのは気後れしてしまい、結局流行ってる映画の半券だったり、友達と食べたパフェの写真なんかを送るだけだった。
 だから、今日、下校途中の私の目の前で、頭から血を流している夏油君が、私を見下ろしているこの状況。それには、例えようのない非現実さを感じる。
「夏油君…?」
「やあ、久しぶりだね」
「…ぇ、っと、だいじょうぶ…?」
「大丈夫だよ」
「でも、すごい血…」
「あぁ…全部、私の血ではないから」
 夏油君はわざとらしく顔についた血を拭ったが、それが夏油君の血ではない証拠にはならない。また、それが真実であるならその血は誰のものなのか、私には聞くことができなかった。
 また少し、身長が高くなっただろうか。夏油君の遥か後方で沈みゆく夕日が、彼の影を濃くする。じきに昇りくる月のような撓りを見せる夏油君の瞳が、じっと私を見つめている。猛禽類に狙われた獲物の気分だ。
「なにか、あったの」
 今朝も送られてきていたメールは、本当にいつもどおりだった。少し忙しくて、夏バテもしているとは言っていたけれど。いつもどおりだった。
「色々、あったさ。君が知らないことも、知らなくていいことも」
 それで私は、夏油君がメールには書かなかった、書けなかったことがあると知った。そして、それが何かを未来永劫知らされることがないであろうことも。
 夏油君を闇に飲み込んでしまいそうなその黒い制服は、彼が進学した高専のものだろうか。渦巻の模様が入ったボタンが印象的だ。それでも私は、彼が何の渦中にいるのかを知れやしない。
 饐えた血の匂いが、鼻の奥を突く。
「すまない…君だけを特別にしておけないんだ」
 夏油君が、まるで愛の告白のように呟いたその言葉を聞いたのを最後に、私は地に伏せた。
 その言葉の意味はおろか、夏油君のことを何も理解し得ないままだったけれど、たった1つだけわかっている。
 それは、夏油君が、本当に優しい人だったということだ。
やさしいひと

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