「お久しぶりです」
 夜の波打ち際のような声色で伊地知が放った挨拶に、名前は鸚鵡返しをするほかなかった。伊地知に他意がなかったことはよくわかっている。だからこそ、その挨拶は今の名前にはよく沁みた。
「伊地知が迎えにきてくれるなんて初めてだよね」
「そうですね…避けていたわけではないんですが」
「わかってるよ。伊地知はそういう器用さは持ってないし」
 名前は揶揄い半分でそう言いながら、伊地知が運転する車の助手席に乗り込む。伊地知はもう一度「そうですね」と同意を口にして、名前がドアを閉めるのを待っていた。
 今日は、伊地知が今年初めて車内の冷房を入れた日だった。しかしすでに日が沈んでから7時間は経っており、本当は「今日」ではなく「昨日」の話ではあるが、それは些細なことである。伊地知にとって重要なのは、名前にとって今の車内が快適であるかどうかに尽きる。
 伊地知の唯一の同期であり、呪術師である名前とは、高専卒業後はあまり顔を合わせることはなかった。名前を聞くことはよくあるし、生きていることも知っている。なにかと時間が合わず、食事に行ったことなどはないが、近況報告の連絡は時折している。ただ、タイミングが悪いとでも言えばいいのだろうか、送迎に当たったことは今日の今日までなかったのだ。
「ここまで遠くなかった?」
「他に空いてる補助監督がいなかったのと、私が出るのが一番早いだろうと思いまして」
「そっか。ありがとうね」
 車通りも少ない深夜。しかも、都内とは言えどかなり端の方での任務だった。こんなところまで来る予定ではなかったのだが、予想よりも手ごわそうな呪霊だったこともあり、上手く誘導し人混みを避けた結果だった。呪霊を祓ってから、タクシーも通らなさそうな場所まで来てしまっていたことに気づき、慌てて馴染みの補助監督に迎えを頼んだら同期がやってきたわけだ。
 時間も時間だから、高速を飛ばしてきてくれたのだろうと推測できた。
「遅くまでお疲れ様です」
「そんなん伊地知もでしょ。お互い様よ、お互い様」
 同期という関係を抜きにしても、名前は善良だった。それは伊地知の知る限りの呪術師の中でも、間違いのない評価だった。例えば、とある先輩のように、呪術師として在ることを辞めてしまってもおかしくはないほどに、目の前のことにひたすらになれる人間だ。それであっても、それを驕ることはないその姿は、伊地知にとって、たった1人の同期として、誇らしいことだった。
「最近いいことあった?」
 脈絡のない質問も、心地が良い。信号機は赤く灯かっている。伊地知はゆっくりとブレーキを踏んだ。エンジンとエアコンの音だけが車内に反響する。他に車は見えず、歩行者も見えない。まるで世界に2人だけが残されたかのような景色だ。
 少し向こうの信号機が青に変わるのが見えた。
「いいこと…コンビニで小銭を使い切れたこととかですかね」
「あー…ちっさいけど、そういう幸せって大事にしたいよね…」
 自販機のルーレットが当たったり、ラスト1個の特売品が買えたり、そういう幸せを積み重ねて、次の瞬間には死ぬかもしれない世界を生きている。いつ死ぬかわからないなんてことは万人に言えることであるのに、あたかも自分たちがその先頭にいるかのように勘違いしてしまう業界だ。5分前に知り合った術師が、1時間後に死んでしまうなんてことが、何度でもあった。
 大きな幸せは望めない。誰も口にはしないが、薄々と勘づいて、覚悟を決めていくのだ。
「名前さんは、何かいいことありましたか?」
「今日久しぶりに伊地知に会えたことかなぁ」
「…私もそれを言えばよかったですね」
「ほんとだよー」
 フロントガラス越しに2人の顔が青く照らされる。ゆっくりと走り出した車は、しばらく道なりに進んでから、交差点を左折してインターチェンジに向かった。
「生きてるうちに、ご飯行こうよ」
「そうですね、今からでもいいですよ」
「ラーメンかファミレスくらいしか開いてなくない?」
「今更気を張る間柄でもないですし」
「それもそっか」
 ETC専用レーンで車を減速させた伊地知に、名前は「これ、いつも自分の時だけ開かないんじゃないかって怖くならない?」と聞いた。「でも毎回大丈夫なんですよね」と返した伊地知に、名前は大きく頷いた。その手の中では、スマホが煌々とラーメン屋のレビューを映し出している。
 高速道路で轟轟と鳴り響く走行音は、どこか脈拍音に似ていた。
深夜高速

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